第十章「バンナ家」⑤
「話はわかった。今日は休んで明日から移動だ」
しばしの沈黙の後、セディアが最終決定を下すように言った。そして、ラスクを見て、
「だが、食糧はどうする?このままだとあと三日も持たないぜ」
と尋ねた。想定された質問だったのだろう、ラスクは静かに頷いた。
「それは大丈夫だ。俺たちで手分けして、途中の街で調達してきた」
「あと、薬とな。ウィンが怪我したときに、かなり手持ちを使ったろ」
ロディが付け足した言葉に、セディアは眉を顰めて、
「そんな金を持ってたのか?」
と訊いた。
彼がものの相場を知っていることに、ウィンは少し驚いた。そう、薬は高価なのだ。
馬小屋に用意されていた硬貨を分けて持った額では、食糧はそれなりに購入できても、薬は塗り薬のひとつが買えるか買えないかといったところだ。
セディアの疑問に、偵察組はまた顔を見合わせてにやりと笑う。
「途中の街で、ちょうど薬屋が魂憑祭をやっててな」
とロディ。
「ふたりでガキの幸せを祈ってきたってわけだ。ああいうのは時期を逃すと意味がないからな。こんなご時世でも賑わってたぜ」
とラスクも誇らしそうに言った。
魂憑祭。
久しぶりに聞く平和なその言葉に、ウィンは、自分たち以外の人間は普段通りの日常を送っているのだという当たり前のことを思い出した。
魂憑祭は、子を授かったことが分かったときに、無事の出産と生まれてくる子の幸せを祈る神事だ。たくさんの人に祈ってもらうほど、幸が多いとされる。だから、裕福な家は、通行人や貧しい人にも祈りを捧げてもらうため、大々的に施しをする。
米屋は米や餅を、衣類問屋は手ぬぐいや襷を、薬屋は当然薬を、無償で配る。受け取った人は生まれてくる子のために祈りを捧げ、その印として妊婦の巻く予定の腹帯に糸を通す。
貧しい人々は、施しはできないまでも、親戚や知人を回って一針でも多く祈りの印を集める。
古くからこの土地に伝わる風習だが、赤子の幸せを祈るという性格上か、はたまた後継ができたことを公表する機能からか、西方文化が人々の生活に色濃く染み込んだ今でも昔ながらの形で祭が行われていた。
「最近はここらも平和になったらしく、切り傷の薬は人気がなくてな。多めに分けてくれた」
ロディが収穫物をベストの胸あたりの物入れから取り出してみせた。大きな二枚貝が彼の手から覗く。ラスクが改めてセディアを見て、
「食糧は少なく見積もっても、五日分は手に入れてきた。手持ちと合わせてだいたい八日。それだけ移動できりゃ、バンナ家の追手もまける。まいたら、また街に買いに行くさ」
セディアは頷いて、
「北へ向かうと行ったな。それは、そういうことか?」
と問うた。ラスクの目が真剣になる。
「ああ。抜け道を知ってる」
ウィンには、彼らの伝え合っていることは分からない。北。頭の中にここ北ノ国の地図を思い浮かべる。どこへ向かうのだろう。
「雪が降るまでに、間に合わせないとな」
独り言のように、セディアが言った。
「そういう意味でも急ぐんだ。ま、あと半月は降らないから、普通にいけば大丈夫だ」
雪。もうそんな季節だ。今年の冬をどう過ごそうか、なんて、ココシティでロディとのどかに話していたことが、ずっと昔のことのように思えた。
ロディが話について行けていないウィンの様子を見て、説明を加えてくれた。
「国境を越えるんだ。春日国へ行くぞ」
春日国……。
まだ見ぬ国。ヒヅル民が住む、北東の地。
その地に想いを馳せながらも、ウィンは視界の端に、フローラがどきりと身体を震わせた様子と、シルヴィーが静かに目を伏せた仕草を捉えていた。
*
中心に「人」の字に走る山脈が、ヒヅル半島を三つの国を隔てている。北西に北ノ国。北東に春日国。そして南に陽国だ。
今ウィンたちがいるのは、陽国との国境にほど近い森の中で、ここから南と東には山脈の裾部に広がる深い森がある。とても越えられたものではないが、真東の山脈の向こうは春日国だ。南西には、山の高台に栄光の地ミトチカがあり、その南向こうが陽国。ミトチカから通じるものが、唯一山越えで陽国に通じる道で、あとは険しい山々に遮られている。
つまり、北ノ国から他国へ抜けるには、基本的には山脈が勢いをなくす海沿いを通るしかないのだ。春日国へ行くには、ヒヅル本島の北端を。陽国へ行くには、西端を。
ラスクが言う『抜け道』は、恐らく海沿いの街道にまでは行かず、海に近くなって緩やかになった山を抜ける道なのだろう。ここからヒヅル本島の北端近くまで行くとなれば、八日間はかかる。長旅だ。
ココシティを出て、すでに十日。日に日に秋の気配は深まり、夜はかなり冷え込むようになっていた。北に向かうということは、寒さの厳しい地方に向かうということ。
確かに、急ぐ必要がありそうだ。