第六章「夜」⑤
身体中が熱い。苦しい。
私はどうなってしまったのだろう?
闇の中、必死で記憶を辿る。姉の、高笑いが聞こえてきた。兄の、にやついた顔が浮かんできた。
ああ、そうだ。私は池に落ちたんだ。姉に騙されて池に来て、兄に突き落とされたんだ。
ここはどこだろう。兄や姉が戻って来る前に、ここから逃げなくては。でも身体が動かない。
と、突然耳元で声がささやいた。
「馬鹿な子。『お姉さま、助けてくれてありがとう』とでも言えばよかったのに」
くすくすと楽しそうに姉が笑う。
ああ、そうだ。溺れかけた私は、姉が呼んできた大人に助けられた。水を吐いて意識がはっきりして、
「ああ良かった、大丈夫?」
そう言って顔を覗き込んできた姉を、私は思わず突き飛ばした。兄と姉が共謀して、私を溺れさせたのではないか、と。
今まで何度も散々な目に遭わされてきたが、今度こそ、死ぬかと……殺されるかと思ったのだ。しかし、そんな過去の経緯があることは誰も知らない。
『まあ、助けを呼んでくれた姉上にあんなことをするなんて』
『何を考えているのか分からないわ、ほんとに不気味な子ね』
『あの子、例の子だろ。不吉な子』
不吉な子。
母を殺した不吉な子。
罪人の容姿を受け継いだ不吉な子。
頭の中を、同じ言葉がぐるぐる回る。
不吉な子。不吉な子。
やめて。やめて!
「どうしたの?苦しいの?」
女性の声が話しかけてきた。
姉だ!戻ってきたんだ!
必死で身体を捩る。逃げなくては。
「ああ、しっかりして!」
もうお芝居はやめてほしい。周りにいる大人に聞かせるために、心配する健気な姉を演じているのだろうか。
そこに、男性の声が続いた。
「どうした?」
この声は。ああ、『お兄ちゃん』だ。お兄ちゃんが来てくれた。
「急に、うなされ出したの。苦しいのかしら」
姉の声ももう気にならない。お兄ちゃんが来てくれたら、兄も姉も、もう滅多なことはできない。
逞しい彼の手が、彼女の頬に触れる。
「しっかりしろ。大丈夫だ」
あたたかい。
お兄ちゃんがそう言うのなら、私は大丈夫なのかもしれない。私の大好きな、大切な、大……
「大丈夫だ、ウィン」
*
彼らは、まだ闇が残るうちに死体だらけの野営地を去った。シルヴィーが木々や動物に助けを求めて、広さのある洞窟を探してもらい、そこに移動した。
洞窟の中に血の気のないウィンの身体を横たえ、やっと一息ついた頃、巫女は言った。
できることはやったけれど、集める前に身体に回った毒は取り戻せない。血脈にのって毒が送られた身体のあちこちが傷んでいるはずだ。
剣で斬られた傷口による消耗もある。
巫女にできることは、体内の『流れ』を整えて身体の回復力を高めることだけ。
ウィンは大地の憑座だから、大地に直接寝かせたら、大地の力をもらえるだろう。それらを全て勘案して、五分五分だろうと。
ウィンは、チクシーカ山地にほど近い森で、生死の境を彷徨っていた。
夜明け前に、しとしとと雨が降り始めた。
*
「大丈夫だ、ウィン」
お兄ちゃんが、言った。ウィン?WIN?勝利?勝ち取る?
ああ、そうか。私のことだ。
「随分と強気な名前だな」
どこからか、誰かが言った。深みのある声。聞いたことのある声。その声は続けて尋ねた。
「一体何に『打ち勝つ』というのだ?」
「自分自身に」
彼女だけれど彼女でない誰かが答えた。
「己に?」
声が聞き返す。
「はい。そして自分の運命に」
ごく最近の会話だ。きらめくガラス細工。品のいいゆったりとしたシャツ。深緑の瞳。
思い出した。ラズリー卿の別邸での会話だ。
ああ、そうだ。私は自分の運命に打ち勝つための旅をしていたんだ。『打ち勝つ者』ウィンとして。
記憶が蘇ってくる。置かれている状況を少しずつ理解していく。『お兄ちゃん』はロディ。ここは北ノ国。では、さっきの声は、姉ではなく……。
「……フロー……ラ?」
自分の声とも思えないような、弱々しい掠れた声が出た。瞼が重い。わずかに開いた隙間から、彼女を覗き込んでいる顔が二つ見える。彼らの周囲は薄暗い。
夕方なのか、明け方なのか。
「ロ……ディ……?」
彼女の呼び掛けに、兄は心底安心した顔をする。
「気が付いたか」
「うなされていたの。苦しい?大丈夫?」
待ちきれないといった様子でフローラが尋ねてくる。
「夢を……」
「え?」
「夢を、見てた……子どもの頃の……」
ウィンはそう言って、ちらりとロディの顔を見る。うなされている間に、妙なことを口走っていなかっただろうか。
ロディは、ウィンを安心させるように優しく頷いて、
「俺が付いている。何も気にせず、ゆっくり休め」
声を出すのも重労働だったウィンは、瞬きをして返事に替えた。
そして、また眠りに落ちた。今度は、夢も見なかった。
次回更新は、8/7(土)の予定です。