第二部 第四章「日嗣の御子たち」⑥
その日、劉貴は機嫌が悪かった。
午前中に予定されていた軍部との打ち合わせで、何度目か分からぬ主張をし、何度目か分からぬ却下を食らった。却下されるのはまだいい。覚悟の上だ。問題はその理由の方だ。
彼は、供を追い払って一人で王城の回廊を苛々と歩き回っていた。歩きながら、先ほど終わった軍議の内容を反芻していた。
「雪も溶けた。田植えもあとひと月ほどで終わる。兵を調えよ。ここで北に攻め込まずにいつ攻めるというのだ」
立ち上がってそう主張する劉貴の主張に、頷く武将も何人かいた。それもそのはずだ。秋から冬にかけて、国軍大尉は寒さと雪を理由に出兵に反対してきた。その根拠がなくなったのだから、許可を出すのが当然だと、劉貴は考えた。好戦的な武将の何人かは、しばらく隣国に向けて大きな戦をしていないことに苛立っていた。
しかし、国軍大尉こと向秀明は、涼しい顔でこう言ってのけたのだ。
「北は早々に国内の混乱を収めてしまった。政治的にも、軍事的にも隙がない。南の動きも怪しい。今は動くときではない」
その言葉に、劉貴の頭に血が上る。
「北が混乱を収めてしまった?さっさと攻め込まないからだろう!皇太子が追放されてすぐに出兵していれば、こちらが勝利していたはず。その時に反対したのは誰だ?お前だ!」
怒りのまま怒鳴る劉貴に、向大尉は感情のこもらない視線を注ぐ。
「いかにも。反対したのは私です。こちらは刈り入れ時で兵が整わない、あちらは間も無く冬。そんな時期に戦をするべきではない」
「本軍だけでも動かすべきだったのだ。農民兵などに期待せずに」
「秋にも申し上げましたが」
精悍な顔立ちをした大尉は、顔に穏やかな表情を浮かべたまま、淡々と言葉を続ける。子どもを諭すようなその態度が劉貴の感情を逆撫でする。
「北の軍勢は、本軍だけでどうにかなるものではございません。それに、あの内乱はごく小規模で兵の損傷はありませんでしたし、軍事を司るバンナ家は無傷で、むしろ勢力を拡大しています。内乱と言っても、つけ込むようなものではなかったのですよ」
そこで一旦言葉を切って、国軍大尉は劉貴を見た。これ以上言わせる気か、とその視線が問うている。劉貴はその目を睨み返した。彼は、表情に若干の苦々しさを載せ、
「それに、我が軍には武将が足りません。兵の士気を上げ、北の優秀な武将と軍略で張り合えるような武将が、今の我が国にはいないのです」
そう言って劉貴を見る目に力を込めた。
劉貴は苛立つ。
またこれだ。武将がいない。将軍がいない。そして、それはお前のせいだと言う。
二年前のことを、今だにこの男は根に持っているのだ。腹違いの兄、劉夢を追い落としたのはお前だろう、と、だから人材がおらず攻めたくとも攻められないのだと、言外に言っているのだ。
加えて、武芸面では劉夢ほどではなくとも、士気を上げることに関しては同等になりうると期していた劉幻を失ったことでも、劉貴を責めているのだ。あの不吉な子が軍部には思いがけず評価されていたことを後で知り、苦々しく思ったものだ。
「趙将軍は南から動かせません。他に誰かおりますか?」
そう言って睨む大尉の視線から、劉貴はついに目を逸らした。これ以上やりあったら、あの腹黒は次にはこう言うだろう。それとも、貴方様が先陣を切ってくださいますか、と。
戦場などごめんだ。卑しい母を持つ劉夢や、不吉な劉幻ならともかく、なぜ皇太子たる自分が戦場になど出ねばならん。重い防具を身に着け、血にまみれ、汗にまみれて、この身を危険に晒すなど、想像さえしたくなかった。しかし、そう言ったら、彼は涼しい顔をしたまま、わざとらしく首をひねるだろう。
おや、北ノ国の皇太子は戦場に出ておりますよ、と。
そしてこちらの将軍相手に勝利を収め、武人として評価されていますよ、と。
思い出したらまた苛立ちが膨らんできた。腹立ち紛れにその辺の石でも蹴とばそうと思ったが、回廊は綺麗に掃き清められていて、蹴るべきものは何もない。その事実が、劉貴に午後の予定を思い出させた。そしてその予定が、彼の気分をさらに憂鬱にさせた。
今日の午後からは、父王も交えたごく近しい親族のみの会合が予定されていた。内々に処理せねばならない事案や、情報交換が目的の会だが、最近の話題は専ら姉である劉麗の降嫁先についてだった。
ここ陽国では、女子には王位継承権がない。したがって、王女は然るべき相手に嫁ぐことが一般的である。然るべき相手とは、王家に近い中央の貴族であることが多いのだが、正妻腹の王女が嫁ぐにふさわしい血筋で、かつ年回りがちょうど良い男子など、ごく限られている。そして、考えられる全ての相手が、劉麗との結婚に難色を示していた。
いや、難色なんて可愛らしいものではない。
そこまで考えて、劉貴はふっと笑みを漏らした。
言葉こそ丁重であるものの、打診を受けた各家はみんな震え上がって断ったと言う。
それもそのはずだ。そう劉貴は思う。
なんせ、劉麗は気性が荒い。周囲の誰からも甘やかされ、わがまま放題に育った結果だ。おまけに贅沢放題の浪費家で、我が姉ながら美人だとは思うが、あの女を妻に迎えたいとは、劉貴だって思わない。
それに、と彼は思い出を手繰る。
あの弟、いや本当は妹なのだが、あの子に対する姉の仕打ちは凄まじかった。あの子のせいで母を失ったとはいえ、幼子が命を落としかねない所業を平気で行う姉を、幼い劉貴は心から恐ろしく思ったものだ。あのようなことができる女と生涯を共にしたい男などおるまい。
血筋と性格、両方が災いして、嫁ぎ先が見つからないまま婚期を逃しつつある姉の処遇を話し合うのが、専ら最近の会合なのである。家宰は芳しくない調査の結果を告げるだけだし、父王は何も言わないし、腫れ物と化した本人は怒り狂うだろう。これから待ち受けている修羅場を想像して、劉貴はため息をついた。