第二部 第三章「忍ぶ者たち」④
「で、どうやって乗るんだ」
出発の準備ができたころ、ロディが口を開いた。
森に入ってから呼び寄せた馬は、無事に元の通りの三頭。人間は五人。ラスクがいないから、以前六人で旅をした時と同じ振り分け方をすると、フローラが一人で乗ることになってしまう。
「どう乗ってもいいけど」
とウィンはロディを振り返りながら、
「ロディはシルヴィーと乗る方がいいんじゃないの。慣れてるでしょ」
「そしたらお嬢さんが一人になるじゃないか。兄貴と同乗はしないだろう」
「じゃあ、私が走るよ。セディア、フローラが一人で乗って、ロディとシルヴィーが二人乗りすればいいんじゃないの」
彼女の言い分を聞いて目を見張るロディを見て、ウィンは、ああそっか、と、彼の置かれた状況を思い出す。
「フローラ、上手だよ」
ウィンの言に、ロディは本当かと言いたげに皇女を振り返った。視線を注がれた彼女は照れくさそうに、
「時間はいっぱいあったから。本格的に雪が降る前に、一人でも乗れるように練習したのよ」
「フローラはね、夜の見張りもできるし、弓だって引けるんだよ」
ウィンは嬉しくなって付け加える。
「本当に?」
と、ロディは期待通りの反応をしてくれた。
「でもそっちは、全然まだまだなのよ。特に弓はね。飛距離だって短いし、精度も低いし」
「でも、弓使いがひとり増えたってのは、悪くない情報だろう?」
セディアも心なしか得意気に、話に参加した。
「射てみなきゃ飛距離が短いことはばれない。きちんと構えられてりゃ、それなりの抑止力にはなる。それに、皇女がそこまでやっているのに奮起しない兵はいないだろ」
ロディは、しげしげとフローラを見つめて、
「立派なもんだな。動けなかった一冬を、無駄にしなかったわけだ」
「まあね。だって、」
フローラはロディにいたずらっぽく笑って見せて、
「小屋の中にいられない時間が長かったんだもの。何か体を動かしてないと、外で待ってるだけじゃ、寒いでしょ」
彼女がそう言い捨ててさっさと馬に跨ってしまったせいで、セディアとウィンはロディにじっとりと睨まれる羽目になってしまった。
その日の日中は、休憩を挟みながら移動を続けた。移動のための移動ではない。今朝別れた二人に対して、いったん足取りを消すための移動だ。だから距離を稼ごうとせず、ぐにゃぐにゃと行先が分かりにくい経路を取った。
そして早めに野営地を決め、馬をつないだ。
「で?お前たちは、これからどう動くんだ」
ロディがセディアにそう切り出したのは、まだ橙色にもならない陽が木々の間から差し込んでいる時刻、馬をつないで水は汲んだけど薪はまだ集められていないという頃合いだった。
「お前たちの内部事情については聞かない。だが、列島を統一するだの南を味方につけるだの、そのあたりの計画や作戦は承知しておきたい。というか、俺はそれに助言する前提で呼ばれたんだろ?」
そして今日早く野営地を決めたのも、その話をするためだったんだろう?彼は暗にそう言っている。
「ああ。季節もあるから、早く次の段階に進みたいんだ。あんたにも、流れを理解してほしいし、意見が欲しい」
「季節?」
「急がないと、燕の渡りが終わってしまう」
*
その日、ミカサは星占塔を出て、傍らにある屋敷に向かっていた。星占の仕事は、主に夜から朝にかけてである。人質にあてがわれた名誉職とはいえそれなりに仕事はあり、星占寮や関係部署の役人とは言葉を交わすことも多い。夜のお役目を終えて朝に出仕してきた役人たちに報告と引き継ぎをして帰宅するところだった。
肩の下あたりで切り揃えられた黒髪に、漆黒の瞳。さらに、ミカサは漆黒のローブを着ていた。この格好は、占星塔の関係者であることの証だ。闇に溶けて、闇の中で微かな光の変化を読み取る者。政治に絶大な影響を与える仕事であるからこそ、直接政治に関わらないことを示すための切り髪。現世と距離を置くことの象徴として、占星者は帽子も頭巾も、被ることを禁じられている。それゆえ、貴族からは頼りにされつつも、疎ましがられ、気味悪がられる。そんな仕事だ。
ミカサをここに配置したのは先帝だ。併呑した国の皇太子を置く場所としては、誠に適所と言うべきで、そしてミカサにとっては誠に胸糞の悪い配置というべきだろう。飼い殺しにする意図が容易に読み取れる。
そしてこの漆黒の衣装が、色白で丸顔の自分にしっかりと似合うのも、また腹が立って仕方がなかった。
ミカサは、屋敷の上がり框に腰かけて靴を脱ぎ棄て、ずかずかと自室に向かう。侍女がふたり慌ててやってくるが、すべて無視する。自室の襖を閉め、何年着ても好きになれない西方風の衣類を投げ捨て、袴に着替えて畳に倒れ込んだ。その時だった。
コンコン、と硬い音が響いた。
ミカサの屋敷は、春日国の住居に似せるよう気が配られている。建物の外側をぐるりと回廊が囲み、中央には中庭がある構造だ。音は、中庭から聞こえてくるようだった。
ミカサは、起き上がるのももどかしく、横たわったまま手を伸ばして鈴を取り、カランカランと鳴らした。西方風の、いわゆるベルというやつだ。高い音がいけすかないが、呼び鈴の変更まで主張すると我儘だと捉えられるから、我慢して使っている。
「失礼します」
年配の男性の声がして、隣室との間の障子が開いた。
「お呼びですか」
春日国の正装である直衣をきちんと身につけた初老の男が畏って座って頭を下げた。ミカサは、寝転んだまま彼の烏帽子のてっぺんあたりを見て、
「中庭から妙な音がする。ネズミかもしれん」
と言った。
「かしこまりました。調べて参ります」
そう言って男は下がった。
ネズミ、か。
ミカサは思う。
人質としての生活は、薄氷を踏むようなものだ。物質的な不自由はなくとも、少しでも疑われるようなことをすれば捕らえられ、処刑される。その時は本国の一族たちも一掃されるだろう。疑われるようなことをしなくても、存在が不都合になれば不祥事をでっち上げられる可能性もある。北ノ国に生殺与奪の権を握られているようなものだ。
一方で、春日国には一定の兵力がある。豊かではないが、資源もある。それゆえ利用価値のあるこの身に接触を図る者も多い。中庭への侵入は、そう言った者たちがよく使う手だった。
「特に怪しい者はおらぬようです」
先ほどの男が帰ってきてそう言った。
「ふむ。分かった。下がってよい」
ミカサがそう言うと、男は一礼して隣室へ下がっていった。
気にしすぎか。
そう思いながら寝返りを打った時である。コンコン、とまた音がした。
偶然にしては出来すぎている。ひとりになったときを見計らっているのだろうか。フタカミでは対応しきれない相手か。そう感じたミカサは、億劫そうに立ち上がると、今度は自分の手で中庭に通じる障子を開けた。
踏石にある草履を足に引っ掛け、目を閉じて周囲の風を感じる。
と、肩に小鳥が止まった。
燕だ。初燕だ。
「お前か?」
そう尋ねると、その鳥は縁側に飛び移って、ミカサに向けて脚を差し出した。
その脚には、小さな白い紙が結ばれている。
「鳩は聞くけど、燕の文遣いなどというのは初めてだな」
文を解いて解放してやると、燕は誇らしげにくるくると旋回してから飛び立っていった。
「さて、こんな方法で文を送ってくるのは」
そう言いながら自室に戻り、障子を閉める。
「やはりあいつか」