第二部 第三章「忍ぶ者たち」①
「驚いたか?」
「そうね」
背後からの密やかな問いに、ユンセアも小声で応じた。主人たちを休ませて、忍びの者二人が背中合わせで火の番と見張りをしている。春といえど、まだまだ夜は冷える。
「ベタ惚れなんだぜ、こいつ」
ラスクが、斜め後方にちらりと視線を向けて言った。視線の先では、セディアがウィンを後ろから抱きしめるようにして眠っていた。寒い夜に身体を壊さないためというのが名目である。実際にフローラとシルヴィーも似たような体勢で眠っているのだからそれは嘘ではないのだけれど、ラスクの口調がそれだけではあるまいと言っていた。
この一冬、精神的な距離が近い者たちは極寒の山小屋で少しでも暖を取るために密接して眠っていた。無論、ラスクはその輪には入ることはなかった。
「見てれば分かる」
ユンセアの返事は素っ気ない。ラスクは、一瞬気勢を削がれたように黙ったが、ぐっと何かを飲み込んだ後、
「……なあ、どう思う」
と問いかけた。
「何が?」
「こいつら。お似合いだと思うか」
「私が決めることじゃない」
「そうか」
またしばし沈黙が降りる。
「なあ、これでよかったと思うか」
「主人の判断よ。私が口を出すことじゃない」
ユンセアに繰り返し切り捨てられ、ラスクは沈黙する。それでもなおその背中から滲み出る、この男にしては珍しい陰鬱な悩みの雰囲気に、ユンセアが折れた。
「あんた、チクシーカからずっと主人のお側にいたの?」
「ああ」
「あんたに迷いがあるなら、邪魔する機会はいくらでもあったでしょうに」
言葉に、わずかに険がある。
「そうだな」
ラスクは自嘲気味に笑いながら、それだけを答えた。
「まあでも、あんたが主人と一緒で本当によかった」
彼の態度に同情したのか、問題の根が深そうだと感じたのか、ユンセアの態度が少し柔らいだ。そして、その口調には、功績ある者に対する僅かな敬意が混じる。
「どんな形であれ、生きておられる主人とまたこうして会えたんだから」
ユンセアの親切な語りかけに、ラスクは返事をしない。その沈黙の長さに、ユンセアがちらりと背後を振り返った時である。
「本当に、そう思うか」
思い詰めた声が、絞り出すようにそう言った。
「どういうこと」
「確かに生きてるさ。だけど、こんな形になって、本当に良かったと言えるのか」
「主人がヴィオラ様と恋仲になったことを言ってる?」
「それ自体もだが、その過程が。俺は、良かったとは思えない」
少年はそう言って、彼らが結ばれるまでの経緯を語った。正体を知らぬままセディアがウィンに惚れたこと。ラスクが先に彼女らの正体に勘づいたこと。渡し船の関での出来事、セディアが彼女を追いかけて樹海の奥まで赴いたこと。ウィンが彼を受け入れ、ロディが出ていき、セディアが身体を壊したこと。セディアを介抱しながら、雪に埋もれる冬を五人で越したこと。その間に彼らが、夫婦の契りを結んだらしいこと。
憑座や巫女の能力や、女神たちが彼らを後押しをしたことについては触れないまま、ラスクは語り終えた。
「そう」
ラスクの一人語りを聴き終わったユンセアは、静かにそう言った。
「あんなの、脅しみたいなもんだ」
彼は、夜の闇を見つめながら、一人言のように続ける。
「周りが寄ってたかってあいつらをくっつけた。一度は離れようとした、本人の……ウィンの意志を尊重せずにな。その結果、あいつらはお互いに負い目を持ったまま結ばれちまった」
セディアは、ウィンに決断を迫ったことに。ウィンは、決断できず彼を追い詰めたことに。実際に寄ってたかったのは女神たちの寄与が大きいから、ユンセアにとっては若干違和感のある物言いかもしれない。少年にはそれに気付く余裕はない。
そして、ラスクは俯く。隣に佇む女は返事をしない。
「あいつの選択を尊重して、黙ってついてきた俺も同罪だ。
しかも、あいつらは列島を統一すると言っている。自分たちの仲を正当化するにはそれしかないから。ただの惚れたはれたとは訳が違う」
そう言ったラスクは、ユンセアを振り返った。
「あんたは、俺がついていて良かったと言った。だが、俺は臣下として判断していない」
闇から目を離すのは憚られたが、視線を千切るようにユンセアも振り返った。少年は、背後から縋るように彼女を見ていた。
「教えてくれ、ユンセア。俺の判断は正しかったのか?」
思い詰めた目でそう尋ねたきり俯いた少年のつむじを、ユンセアはしばらく黙って見つめた。
「いいんじゃない」
彼女の声に、少年は憔悴した顔を上げた。この数分間でいくらか老けたように見えた。
「だってあんた、元から臣下でも配下でもないでしょう」
突き放した言い方は、優しさの裏返しだ。
「ずいぶん、主人とヴィオラ様に同情してるようだけど、自分の復讐はもういいの?あんたの失ったものを、埋め合わせようとは思ってないの?あんたはそのために、忍びの道を選んだんじゃないの?」
「それはもういい」
「へえ」
そんなこと、と言いたげに吐き捨てたラスクにユンセアは驚く、ふりをする。セディア相手に、ラスクを信用していたと伝えた時に、彼がもう復讐を手放していることは承知している。そしてそれを言外に伝えている。その齟齬に気付く余裕はやはり、今のラスクにはない。
「じゃあ今のあんたは、どんな立場で主人と一緒にいるの?臣下として判断してないって言ったけど、どんな立場で判断したの?」
ユンセアは畳み掛ける。意地悪い響きはないが、甘えを許容しない厳しさがあった。
ラスクが、ユンセアを見ないままぼそりと何か呟いた。その微かな空気の震えは、訓練されたユンセアの耳にも言葉としては届かない。
「なんて?」
「友達」
「あははっ」
ユンセアの声が、僅かに高くなった。しかし自制のきいたその声は、周囲の眠りを妨げることはなかった。
「なあに、私たちの下っ端は、主人のご友人に格上げってこと?じゃあ私たちは、お嬢さんの次にあなたを守らなければならないのね」
「よせよ。その辺は何も変わらない。俺は、あいつの友人で、ウィンの仲間で、忍びで、これまでと変わらずあいつらを守る」
「『これまでと変わらず』、『あいつらを』ね」
ユンセアの含みのある繰り返し方にラスクは沈黙する。沈黙したまま、二人はどちらともなく背中合わせの体制に戻る。
「お前も、つらいよな」
抱き合うように眠るセディアとウィンに視線を注ぎながら、ラスクがぼそりと言った。
「何のことか分からないわね」
ユンセアがぴしゃりと退ける。また、しばしの沈黙が降りる。そして、
「あんたもね」
「何のことか分からないな」
そう言うでしょうね、とユンセアが闇に向かって言った。