第二部 第二章「すみれの人」③
「説明いただいた内容については、ひとまず承知しました」
思ったよりも早く、ユンセアは事態を飲み込んで顔を上げた。
「ですが、主人。未来の皇后様を、あなた様と同等の忠義を持ってお守りする件ですが」
彼女は、言葉を切って一同をぐるりと見渡した。
「それは、お嬢様よりも優先的にお守りせよということですか」
しん、と場が静まる。彼らの置かれた恋慕だけでは済まない状況が、刃のように突きつけられる。
「そうよ」
当然だという口調で、応えたのはフローラだった。
「わたくしたちの計画の要は彼女だもの。わたくしよりも、彼女を優先なさい」
「承知しました」
「では、主人と、未来の皇后様のどちらかを取らねばならない場合は」
再び、沈黙が場を支配した。
「二人ともを守れ」
「それが不可能な時の話をしております」
「その時は、彼女を……」
「あなたの主人を守ってください」
セディアの言葉に被せて、きっぱりとしたウィンの声が響いた。
「あなた方は、彼の叔父上のお家に仕える人たちだと聞きました。彼のお父上とその一族に忠誠心はあるものの、主たる目的は、叔父上の血筋の方を守ることだと」
皇族への忠誠よりも、キノ家への忠義が上であることを、そして資金源がキノ家であることを、ウィンは遠回しに確認する。人気のない森の中だけれど、あまりあからさまな言葉は使わない方がいい気がした。
ユンセアは、静かに頷いた。
「私は、その筋にもその目的にも当たりません。また、彼が失われて私だけが残った場合、こちらの誰にも利はありません。彼と私が揃って初めて、私の存在は意味を持つのですから」
ユンセアとウィンの、勇ましく生きる二人の女の、視線が交わる。
「ですから、あなたたちの最優先は、彼を……セディアを守ること。次点がわたしです」
ユンセアに向けてそう言い切った後、
「それでいいですね?」
と、ウィンは一同を見渡した。そして、不服そうに口を曲げたセディアを、睨むように見据えたのだった。
「はははっ、最高だな」
沈黙を破って、ラスクの明るい笑い声が響いた。
「ユンセア、分かるだろ?こういうとこなんだよ」
「ええ、よく分かりました」
ラスクの言に首肯しつつも、にこりともせずにユンセアは言った。そしてウィンに向き合い、
「承知しました」
と一礼してから、
「ですが、我々に命令する権利は、今のあなた様にはございません。それでよろしいですか?」
「結構です」
「では、あなた様を何とお呼びすればよろしいですか?」
「え?」
「我々、主人に仕える闇の者は、正体が割れないようそれぞれ本名ではない呼び名を用いています。主人、お嬢様。主人の叔父上は『旦那様』。私の『ユンセア』というのも、忍びとしての名です。未来の皇后様は、何とお呼びすればいいですか?」
「盲点だったな。確かに、隠語があるに越したことはない」
「奥様?」
「自分の欲望を押し通すんじゃねえ。まだ結婚してないだろ」
調子を取り戻したセディアの提案は、ラスクに一蹴された。と、それまで考え込んでいたウィンが、
「南の方、は?」
「南の方?」
セディアが聞き返す。きょとんとする北ノ国の四人に対し、ロディとシルヴィーは小さく笑った。
「それ、北の方と掛けてるのか?」
「うん」
えへへ、とウィンは照れたように笑った。
「北の方?」
「春日国の朝廷文化で、昔々貴族の奥方のことをそう呼んだらしいんだが」
話に付いて来られない四人に、ロディが解説をする。
「以前、春日国に潜伏できるように生活様式を学んだと言っていたが、そういうことは知らないのか?」
「聞いたことないわ。当座の生活に困らない、不審がられないように、という観点で学んだからかしらね。おおよその歴史は知っているけれど、過去の文化までは」
フローラはそう言って、記憶を辿るように斜め上に視線を彷徨わせた。
「あ、でも、小さい時から陽国の歴史や文化は、結構勉強したわよ。敵国を理解するため、という位置付けだけどね」
「俺たちも、西方文化は敵文化という意味合いで学ぶんだが」
ロディも、考えながらゆっくりと話す。
「春日国の日出る文化は、ちょっと違うかもな。今の敵ではあるが、土地のものたちの考え方を理解するためというか、自国の現在を理解するためというか。俺たちの国は、春日国の文化があったところに大陸文化が進出した結果のものだから」
「私たちが陽国の文化を学ぶ時も、確かにその意味合いもあるわ。そこに西方文化を合わせたものが、北ノ国の文化だもの」
「なるほど」
ロディとフローラの会話に、セディアが口を挟んだ。
「俺たち北ノ国にとってヒヅル文化は前の前の文化様式だが、陽国からしたらひとつ前の文化というわけか」
「言い方に多少の難はあるが」
少し眉を上げてセディアを斜に眺めながら、ロディが、
「そういうことだな」
と認めた。そこへウィンが、
「だけど、いずれにしても基本というか、芯になるのは日出る文化だよ。私たちは、日出ることばを基本にして話しているから、名前や地名はともかく、こうして会話ができるんだもの」
「細かい言い回しとか抑揚とか、いざ生活してみると結構違うけどな」
「最初は困ったよね」
ロディとウィンは頷き合う。二年前の逃亡劇の後、兄妹だけが知る苦労があったのだろう。
「でも春日文化については、私たちの方が深く知ってるのかもね。それはそうと、私の通り名は『南の方』でいいの?」
「出自が割れないか?」
セディアが眉を曇らせてウィンを見る。慈しむような、愛しさのこもった目。
「平気だろ。ミトチカのことだって『南』って言うじゃないか」
「危険は冒さないほうがよいと思います」
学術的な話の間は沈黙してたラスクとユンセアが、各々の主張を口にした。
年嵩のユンセアにじとりと睨まれて、ラスクは肩をすくめて言い分を譲った。
「主人。我々の名付けに倣ってはいかがですか。当面の間、それが最も安全かと」
ユンセアの進言に、セディアはしばし考える様子を見せた。ウィンを見、ユンセアとラスクを見、再びウィンを見て、微笑んだ。
「では、ヴィオラでどうだ」
「ヴィオ…ラ?」
ウィンが言い慣れないという風に聞き返した。
「うん。理由は秘密」
「いつか教えてあげるわ。でも綺麗な名前」
そう言った兄妹にじっと見つめられ、ウィンは気恥ずかしい気持ちになる。ヴィオラ。セディアがつけてくれた、新しい呼び名。
「よろしいですか?」
ユンセアもまた、ウィンを見つめて言った。
「はい。よろしくお願いします」
ウィンは微笑んで、頷いた。