第二部 第一章「のちに彼はかく語りぬ」⑥
桜が舞っていた。春の風はまだ冷たく、日が翳ると身震いが出る。さっきまでは身体を動かしていたから気にならなかったけれど、とことこと歩き始めた途端に汗が冷えてきた。
寒さに首をすくめてからふと視線を上げると、前方の三叉路に人影が見えた。形の良い松の木が一本聳えている、待ち合わせに誂えたかのような場所である。松の根元には、人を待つ者が腰掛けるためにあるような、大きな岩もある。
そこに、誰かが腰掛けていた。
いや、誰かではない。
「ただいま」
待ち人が、にこやかに笑いかけてきた。セディアだ。
ウィンは、思わず叫びそうになったその人の名を既のところで飲み込む。彼の名は、ここで呼んで良いものではない。でも、身体が自然に動くのは止めなかった。駆け寄ってその手を取り、彼の胸に顔を寄せた。
片手が荷物で塞がっていなければ抱きついていたところだったが、居候の身としては、借り物の鋤を放り出すわけにはいかない。
「よかった……無事で本当によかった……」
彼のぬくもりが、香りが、胸を満たす。
「ウィン……」
彼の声が、頭上から降ってくる。
「心配、した?」
その言葉に、ウィンはぱっと顔を上げる。
「したに決まってるじゃない!」
「不安だった?」
「そりゃそうだよ」
不安だった。心配だった。こんなに長い二日間は初めてだ。でも、それはもう済んだことだ。
「ね、無事なのは良かったけど、予定よりも早くない?ロディは?会えなかったの?」
セディアの無事が第一だが、目的が達成できてなければ危険を冒した意味がない。
ウィンの問いを聞いた彼は優しく微笑んだ。ついっと、目線が別の方向に向かう。その視線を追うと、松の木の裏に長身の人がいた。
「ロディ!」
ウィンはセディアから身体を離してそちらを向きながら叫んだ。
「うん、久しぶりだな」
兄は、半分松の木にもたれるような姿勢のまま、片手を挙げて挨拶を寄越した。
ウィンは、目の前の二人を交互に見る。それぞれ大切な、かけがけのないふたり。そのふたりが、並んで笑っている。
「帰ってきて、くれるの?」
胸がつまって上手く言葉が出ない。
「お前たちの計画が無謀すぎて、逆にどこまでできるのか見届けたくなった」
「じゃあ」
「一全を南にやってる。そのうち情報も入ってくる。南のことは、協力してやる」
「ありがとう!」
ぱあっと花が咲くように笑ったウィンは、しかしすぐに少し俯いた。
「どうした?不服か?」
「あの、それは、認めてくれると思っていいんだよね?」
「何を?」
「その、私たちのことを」
ウィンはそう言ってロディを見、セディアを見た。危険を冒して兄を連れ戻しに行った恋人を。
彼は、照れたような笑いを浮かべながら頷いた。ウィンは、真ん丸になった目を兄に向ける。
「ああ」
白けたような目でセディアを見ながらも、兄は請け合った。そしてひとつ息をついて、
「いいんじゃないか。というか、仕方ないだろう」
「仕方ない?」
ウィンが聞き返す。
「どんな男がお前の相手なら俺は納得するのか、どんな男なら立場的に収まるのかって考えた時に、こいつ以上のやつはいない気がするんだよな」
恋人たちは、驚いたように彼を見た。
「さっきはそんなこと言わなかったじゃないか」
セディアの言い分を無視して、ロディは、
「しかも、好きなんだろ?」
と妹に尋ねた。
「うん」
背筋を伸ばし、強い意志でウィンは頷く。その隣で、かつて女好きを演じた男が少年のように照れる。面映ゆそうに、嬉しそうに。
「ほんっと腹立つな、こいつ」
ロディはもう一度、畜生に向ける目をセディアに注いでから、やれやれと首を振って、
「じゃあもう仕方ないじゃないか。精々頑張って一緒になってくれ」
そして、
「まあ、相手の気持ちより自分の自尊心を優先しているうちは、まだまだ目が離せないけどな?」
ウィンに心配をかけるのを承知で、セディアがひとりでロディの元に乗り込んだことを指しているのだ。ほらな、心配かけてただろう、と言わんばかりの目で見られて、セディアは言葉に詰まる。
それを見て満足したのか、ロディは踵を返した。
「俺はもう戻る。あっちに、一応家にしてる場所があるんだ。数日のうちには話をつけてここに戻ってくる。それでいいな?」
「三日以内だと助かる。俺たちは、あと三日でここを発つ」
「分かった」
「気をつけてね」
すでに背を向けたロディは、ウィンの言葉に手をひらひらと振って返事に変えた。
*
セディアは、ロディの背を見送りながら、静かにウィンの肩を抱いた。ウィンは、同じように日が沈む方角を見つめながら、一歩彼の方に寄ってくる。
こういう時彼女は決して、もたれかかってこない。身体が触れる距離にいてもなお、自らの足で大地を踏みしめて立つ。彼女はそういう人なのだ。寄り添いつつも、恋人に頼り切りにならず、自分の足で人生を歩む人なのだ。
*
ロディがちらりと振り向くと、寄り添う二人が見えた。かつて他人を、いや身内すら近づけず、唯一心を許した自分とすらも一定の距離を維持していたウィンが、他の男と触れ合う距離で寄り添っていた。そして、そのことで安心していた。
(女に、なったなあ)
二年半前の秋、ビヒロ高原の戦いで破れて男として生きる必要がなくなった時、妹は女として生きることを選んだ。過去に打ち勝つ者、ウィンとして生まれ変わった。
それでも、その性はいつもどこか不均衡で、女にも男にもなりきれず、彼女自身が戸惑っている節があった。
渡し船の関でラスクに言われて男装をした時、ウィンがどこかほっとしていたのは、自分の見間違いではないと思う。
今、その揺らぎがなくなった。強さやしなやかさはそのままに、妹は女になった。自己認識が腑に落ちた、とでも言おうか。もう、彼女が男装しても男には見えないかもしれない。それくらい、雰囲気が柔らかく、かつ艶っぽくなっていた。
あの妹を、女にしたセディアは伊達じゃない、ってことか。ふん。認めてやる、認めてやるとも。
さっき言ったことは嘘じゃない。俺から見ても、セディアはいい男だと思う。ウィンに心底惚れていることにも、結ばれて素直に喜んでいることにも好意が持てる。能力も身分も高い。顔だっていいし、腕っぷしもいい。いい為政者になると思う。
そんないい男に、俺は、戦で負けて、妹を取られて。
面白くは、ないよなあ。
でも、そんな嫉妬心は仕舞い込んで、二人を祝福できる大人になろう。それが、あいつに対して誇りを保つ唯一の道だ。
ロディは、後にそんなふうに語った。