第十八章「選択」⑥
「セディア!」
その瞳が閉じると同時に身体から力が抜け、彼はぐったりと地面に横たわる。
「セディア!セディア!」
呼びかけながら、身体に染み付いた動作で脈をみる。首元に手を当てようとマントの結び目を外して、ウィンは気付いた。
「すごい熱……」
頬は雨に濡れて冷え切っていたが、衣服に隠れた部分は燃えるように熱かった。首筋に触れる。脈が弱いのは気のせいだろうか。
抱えて小屋に運びたかったが、ウィンの腕力では到底かなわない。
「ラスク!フローラ!……シルヴィー!助けて!みんな、シルヴィーに伝えて!」
さわさわと森が鳴いたような気がした。
「セディア、しっかりして」
せめてもと、水たまりに浸かった彼の顔を膝に乗せ、手拭いで顔を拭いた。ウィンは、持参したマントを傘のように掲げ持って、彼に注ぐ雨を遮った。そして、もう片方の手でぐっしょり濡れた彼のマントを外した。太ももに、セディアの熱い体の重さがかかる。それ以上にできることは彼女にはなかった。
「誰か、誰か助けて」
セディアを庇っているせいで、ウィンの背中は雨にさらされている。彼の顔を載せた脚も、半分は水たまりに浸っている。寒い。こんな中で自分を待ち続けていた彼の苦しみを、今更ながら痛感していた。
ばしゃばしゃと、雨水を踏む足音が聞こえた。小屋の方からだ。ロディたちの助けは期待していなかったけれど、もしかして来てくれたのだろうか。
「ロディ!」
期待に振り向いた彼女の目に映ったのは、傘を被り旅支度をした兄と従者の姿だった。
*
「ロディ……?おにいちゃん……?」
助けに来てくれたのではないことは、一目で分かった。まさか、まさかと言葉を継ぎたいけれど、恐ろしくて声にならない。
ロディは諦観の眼差しでウィンを見つめていた。その彼がゆっくりと口を開いたその時、ウィンの背後から激しい物音がした。
「お兄様!お兄様!」
フローラがなりふり構わない様子でセディアにむしゃぶりついた。膝が水たまりで濡れた。
「お兄様っ」
そしてウィンの方をきっと睨みつけたあと、
「ラスク!」
と叫んだ。
呼ばれるまでもなくセディアの横に駆けつけたラスクは、
「すぐに身体を温めないと。小屋に運び込もう。手伝え」
とウィンを仰いだ。しかし、ウィンの目はロディに固定されていた。
「おにいちゃん」
ウィンが繰り返した。
「こいつらを呼んだな、ウィン」
フローラたちを見ながら、ロディは静かな声で言った。穏やかな表情だった。
「来る頃だと思っていた」
そして、兄は再びウィンに向き直った。
「ウィン、お別れだ」
ウィンはふるふると首を振る。ロディは目を細めてその動作を見守ってから、妹から視線を外した。
「ラスク、小屋は火を焚いていて温かい。湯も沸かしてある。好きに使え」
「お、おう」
「シルヴィー」
呼びかけられた巫女は驚いて目を瞬いた。
「雨の中すまないが、森の出口まで連れて行ってくれないか。出る方は適当に歩いても出られるのかもしれないが、危険は犯したくない」
「いや!シルヴィー、だめ!」
セディアを膝に乗せたまま、ウィンが叫ぶ。シルヴィーは困惑したように二人を見比べる。
「シルヴィー、だめ!」
「シルヴィー、連れて行ってあげなさい」
二人の声が重なった。フローラが、今まで聞いたことのないような厳しい声を出していた。
「行けないのなら海の女神から命令してもらうわ。でも、そんな必要はないでしょう?
ロディとその人を、森の外に案内してきなさい」
シルヴィーは、静かにうなずいて目で二人を促した。ロディもうなずいて、ウィンには一瞥もくれず、歩き出した。
ウィンの知らない道だ。大地の憑座の力では、自分の通ったことのない道を辿ることはできない。今追わなければ、本当に一生の別れになるかもしれない。
ウィンは思わず立ち上がろうと腰を浮かせた。と、膝の上のセディアの頭がぐらりと揺れた。慌てて手を出したが、意識のないその頭は無常にも水たまりに向かった。ラスクの差し出した手も間に合わなかった。
バシャンと嫌な音が響いた。
ラスクがセディアの頭の下に腕を差し入れ、水のたまった地面から距離を取る。
ウィンが顔を上げたときには、ロディたちは木々の向こうに姿を消していた。
「おにいちゃん……」
そう呟いたのとほぼ同時だった。
ぱん!と音がして、またウィンの右頬に衝撃が走った。呆然として平手の主を仰ぐと、涙に顔を歪めたフローラが、ウィンの頬を張ったままの姿勢で彼女を睨みつけていた。
「あなたは何をやってんのよ!」
およそ彼女らしくない乱暴な言葉と態度で、フローラはウィンに掴みかかった。
「お兄様がこんなになってるのも、ロディが出て行ったのも、ぜんぶあなたが選んだことの結果でしょう!いつまで自分を可哀想がってるの!自分の選択に責任を持ちなさいよ!」
そう言って中腰のウィンをセディアの横に押しやった。ウィンは半分転ぶようにセディアの横の泥水に座る。
「何もかも自分の思い通りになんてならない!あなたはお兄様を選んだんでしょう!じゃあ何があってもお兄様を選んだことを貫きなさいよ!お兄様にもロディにもそばにいてほしいなんて、甘ったれるのもいい加減にしなさい!」
今日だけで二回張られた頬を真っ赤に腫らして、ウィンは俯いた。水に濡れて黒さを増したその髪から、ぱたぱたと水滴が落ちる。
項垂れたまま、誰の顔を見ることもできず、ウィンは、
「ごめんなさい……」
と蚊の鳴くような声で呟いた。
「謝ってもらわなくていいから、さっさと手を貸せ。こいつ本当に死んじまうぞ」
ラスクがぶっきらぼうに言う。ウィンは黙ってうなずいて、ラスクと共にセディアの冷え切った身体を小屋に運んだ。
樹海の奥の奥、池のほとりの粗末な山小屋。まもなく本格的な冬を迎えるこの地に、まだ幼さの残る五人が残された。
《第一部 完》