第二章「巫女」⑤
風呂に入るのはいつぶりだろう。
望まぬ展開とはいえ、貴族の邸の風呂に入れる機会は滅多にない。ウィンは支度をしながら、心が浮き立つのを感じていた。部屋は贅沢だし、きっと食事も美味しいのだろう。どうせ朝までここで過ごすなら、楽しもうと思った。
フローラはいつも、こんな部屋で過ごしてきたのかしら。
彼女のことを考えると、ふと気になることがあった。
「ねえ、シルヴィー。フローラは私たちに随分と親切だよね。それは、私が憑座だから?」
「と言いますと?」
「皇女さまとか貴族の人っていうのは、もっとこう……私たちみたいな下々の者は、人とも思わないというか、踏みつけて当然って人が多いのかと思ってた。まあ我儘だなあとは思うけど、彼女は私たちをそれなりに丁重に扱ってくれてるでしょ?それは私が憑座仲間だから?それとも全ての人にそうなのかしら?」
ああ、とシルヴィーは合点が言ったような顔をした。
「ウィン様たちが特別なのは否定しません。他の方ならば、確かにこれほど厚遇はなさらなかったでしょう。ですが」
そう言ってシルヴィーは、遠くを見る目をした。
「フローラ様は、お優しい方です。誰かをいたぶって喜ぶような、そんなところは微塵もありません。おっしゃるように、ご自分の思いを通されるところはおありですが、他の者が……たとえそれが身分の低い者でも、敵国の者でも、傷つけられたらご自分の心も痛められるお方です」
あのようなご身分の方で、あれほど他者を思われる方を他に知りません、と彼女は結んだ。
ウィンは、昼間にラスクが刺客の命を奪う姿を見つめていたフローラを思い出した。今日は、彼女にとって辛い一日だったろう。
「あなたは、フローラが好きなんだね」
ウィンがそういうと、シルヴィーは静かに微笑んだ。
「ウィン様は、ひとの気持ちがよくお分かりになるのですね」
そう言われて、ウィンはずっとシルヴィーに言おうと思っていたことを思い出した。
「ね、シルヴィー。『ウィン』でいいよ。『様』はいらない」
「ですが」
「そんな風に呼ばれると、傲慢な人間になっちゃいそう」
ウィンの言葉に、二人の話を聞くともなく聞いていたロディが吹き出した。
「確かに。シルヴィー、俺も『ロディ』でいい。『様』をつけられるような上等なもんじゃないしな」
シルヴィーは困った顔をして黙っている。
「ね、お願い。『様』なんてつけられたら、私はあなたを見下さなきゃならなくなっちゃう」
困った表情を残したまま、シルヴィーは少し笑った。
「分かりました。では、ウィン、ロディ。支度はできましたか?参りましょう」
*
シルヴィーに案内されて板張りの廊下を進む。
こつこつと、彼らのブーツの踵が床を打つ音が響く。部屋を出る前に、廊下では声を出さないようにとシルヴィーに言われた。念のため武器も持っていけと。
部屋を一歩出ると、趣ある旅籠そのものの雰囲気で、それでいいと言われていても、土足のまま廊下を歩くのに気が引ける。人気はなく、動くのは時々ゆらゆらと揺れる壁の燭台の明かりだけだ。
ラズリー氏は、フローラを迎えた時に自分の部屋に来るまで話すなと言った。ラスクは、ここの使用人や兵も信用できないと言った。
この壁の向こうには、どんな人がいるのだろう。それぞれどんな思惑を持っているのだろう。
少し緊張しながら廊下を進んでいると、前を歩くシルヴィーが立ち止まった。身振りで目の前の戸を示す。言われなければ戸があることに気付かなかった。たぶん、意図的に分かりにくくしてあるのだろう。
戸を開けると、二畳ほどの狭い空間があり、正面に扉が二枚ある。
「こちらが殿方、こちらがご婦人です。出入口はここだけ。私がここで見張っていますので、安心してお入りください」
戸を完全に閉めてから、シルヴィーがそう言った。
しかし、安心してと言われても、森の中とは訳が違う。ここで、彼女はどのように危険を察知するのだろう。ウィンの不安を読んだのか、彼女は微笑んだ。
「邸の中でも、私の味方はそれなりにいるのですよ」
そう言って足元に目を落とす。と、小さな鼠が彼女らを見上げていた。
「お願いします」
シルヴィーが足元に向かって言うと、鼠はぱちぱちと瞬きをしてから走り去った。
植物に触れて意思疎通していたことにも驚いたが、動物とは話せるということか。
「あえて、猫は飼わないようにしてもらっているのです」
はあ、とロディが感嘆の息を漏らした。
「ほんとに、頼もしいな」
*
ロディとシルヴィーと別れて、ウィンは女湯の扉を開けた。脱衣所があり、また扉があって湯殿に繋がっている。襲撃を避けるためか窓はなく、西方風のランプの灯りだけの室内は薄暗い。
ブーツを脱ぎ、厚手のマントを外す。ずしりと重いベストと袷を脱いでから、その下の革製の胴当を外す。と、腰紐に挿さった飾り刀が目に入った。
しまった。マイソー氏から借りたものを返さないまま、ここまで来てしまったのだ。
大事と言われた仕事を放り出した上に、高価かもしれない刀を持ち逃げするなど、雇われ用心棒の信用はなくなったも同然だ。
これからどうするかなあ。
やや熱めの、でも心地よい温度の湯に浸かりながらウィンは考えた。確かに、広くて贅沢な風呂だ。
ここから出たら、マイソー氏に飾り刀を返しに行って謝るか。でも姿を見せた途端に斬り捨てられるかもしれない。そもそもココシティに入れてもらえないかもしれない。
事によっては、もうこの稼業でやっていけないかもしれない。今日もらったお金でしばらくは生きていけそうだから、ほとぼりが覚めるまで大人しくしてようか。
憑座と巫女に会えた代償は大きかったなあ。そう考えながら、ウィンは久しぶりの湯の中で伸びをした。
次回更新は5/12(水)11時頃の予定です。