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21 剣姫と死神

 リュシアンとエルフリードが辿り着いたのは、港湾部に臨む一軒の倉庫であった。

 赤煉瓦造りの倉庫は船からの搬出入を容易にするため、岸壁ぎりぎりに立てられていた。同様の造りになっている倉庫は、港湾部を圧するように立ち並んでいる。

 海洋貿易国家として栄えるロンダリアを象徴するような光景ではあったが、二人にはそのような感慨を抱くような(いとま)はない。

 倉庫の巨大な金属製の引き戸は、完全に閉まっている。


「拙いな……」


 リュシアンがぼそりと呟く。彼はエルフリードを横抱きにしたまま、近くのクレーンの上に立って倉庫の様子を窺っていた。


「どうした?」


「この倉庫、アリシアがヴェナリア情報調査局から手に入れたダイナマイトを保管しているところ」


 エルフリードに掛けられたアリシアの呪詛。

 魔力を“視る”ことの出来るリュシアンの魔眼。

 その繋がりを頼りに、リュシアンは何度かアリシアを尾行していた。この倉庫は彼女がヴェナリアからダイナマイトを得た際に、それを運び込んだ場所だったのだ。


「お前の火焔魔法封じ、というわけか」


 リュシアンの呟きの意味を、エルフリードは正確に理解する。

 ダイナマイトの量にもよるだろうが、議事堂一つを破壊出来るだけの爆薬である。引火して爆発すれば、周囲一帯が完全に吹き飛ぶだろう。その規模の爆発になれば、かなり強固な結界でなければ防ぎきることは出来ない。並みの魔術師の結界では、破壊されてしまうだろう。

 議事堂を爆破されればロンダリアは政治的な損失を負うが、港湾施設が爆破されれば経済的な損失を負う。どちらにせよ、連合王国に打撃を与えたいあの魔女にとって損はない。


「エル、アリシア・ハーヴェイの相手を頼める?」


 その言葉に、エルフリードはとん、と軽くリュシアンの胸を叩く。


「先ほども言ったであろう? 奴の足止めは任せろ、と」


 王女たる少女は不敵に笑ってみせた。


「俺はこの倉庫を出来るだけ強固な結界で封鎖する。多分、結界の維持に魔力を持っていかれるから、アリシア・ハーヴェイを直接相手に出来ない。とにかく、あいつが逃げられないような傷を負わせられれば、後は俺が始末する」


「任せよ。少なくとも、剣の腕ではお前よりも上だ」


「相手は魔術師だから、気を付けて。本当は、その呪詛も解いてあげたいんだけど……」


 リュシアンは申し訳なさそうに、目を伏せる。


「お前の破魔の剣(ベガルタ)で私の体を斬り付ければ、お前の守護の魔法も消えてしまうのだろう?」


 すべてを理解している声で、エルフリードは言った。

 自身の全身を取り巻くアリシアの呪詛。そして、リュシアンが全身に描き込んだ守護の紋様。

 それらすべてを、赤剣〈ベガルタ〉は解いてしまうのだ。この剣は、斬ったものにかけられている魔術をすべて破壊してしまう能力を持っている。

 今この場で、もう一度エルフリードの全身に魔術的紋様を描き込んでいる時間はない。


「なに、私の背中は、お前が守ってくれるのだろう?」


 以前言い合った言葉を、エルフリードは信頼の念と共に口にした。


「それに、私にはこれがある」


 エルフリードは襟首から瑪瑙のお守りを取り出した。リュシアンが彼女に送った、縞の層一枚一枚に守護の術式を刻んだもの。


「君は魔術師じゃないんだから、あまり無茶をしないで」


「先ほど無茶をしていたお前だけには言われたくないな」


 からかうように、エルフリードはかすかな笑みを浮かべる。リュシアンが困ったように小さく眉を寄せた。


「……とにかく、無茶はやめてくれ」


「判った判った、あまり情けない声を出すな」

 エルフリードは幼子をあやすような調子で、リュシアンの口に人差し指を当てる。少年はそうした扱いを受けたことに、わずかばかり不本意そうな表情を見せた。


「……それと、エルの鋭剣(サーベル)には対魔の術式が刻んであるけど、俺の〈ベガルタ〉ほど万能じゃない。気を付けて」


 エルフリードの鋭剣(サーベル)には対魔の魔術的紋様が刻まれている。とはいえ、〈ベガルタ〉の破魔の効果とは違う。斬った対象すべての魔術式を破壊する〈ベガルタ〉に対して、彼女の鋭剣(サーベル)はあくまでも「魔術で形成されたものを斬ることが出来る」程度のものでしかない。

 魔力で編まれた炎や結界などを斬ることは出来るが、それでも術式の強度や魔力量が鋭剣(サーベル)の術式に込められた魔力量に勝っていれば効果は望めない。


「うむ、心しておく」


 リュシアンの腕の中で、エルフリードは頷いた。


「じゃあ、行くよ。掴まってて」


 エルフリードがリュシアンの首に回した腕に力を込める。漆黒の装いの魔術師が、クレーンの上から跳んだ。

 体に感じる浮遊感。

 リュシアンが右手を握り込むと、指の間に四つの小さな水晶球が現れた。指の間に挟んだそれを、着地の寸前に上空に放り投げる。

 着地と同時にエルフリードを地面に降ろす。

 倉庫の上空では、リュシアンが先ほど放った四つの水晶球が四角形を描くように宙に浮いていた。


「結界か?」


「ああ」


 短い言葉と共に、リュシアンは鉄製の引き戸に回転蹴りを喰らわせた。身体強化(エンチャント)の術式を足にかけて一閃。重々しい扉が外れ、倉庫の内側に向かって倒れる。

 リュシアンが、そしてそれに一歩遅れてエルフリードが、建物の内部へ足を踏み入れた。

 外部とは違う、ひんやりとした空気が頬を撫でる。

 薄暗い建物の中から感じる、ひりひりと肌を刺すような不穏な感覚。

 空気自体が軋み声を上げそうな、不気味な雰囲気。

 以前、イースト・エンドの“幽霊屋敷”の時と同じものだ。


「……囁き声が聞こえないか?」


 エルフリードが暗い倉庫の中を見回し、怪訝そうに呟く。


「惑わされないで」


 リュシアンはじっと倉庫の闇を見据えていた。

 彼の脳裏にも、囁き声は響いている。どころか、その声は徐々に大きくなっている。

 くすくすと嗤う、若い女性の声にも聞こえる哄笑。それが全方位から二人を襲っていた。


「ぐっ……!」エルフリードが片手で頭を抑えてたたらを踏んだ。「何だ、これは……!?」


 彼女の目には、暗闇の中に浮かぶ無数の目と唇が映っていた。闇の中にくっきりと浮かぶ唇は、しきりに囁くような哄笑を上げている。

 こちらを嘲るような、精神そのものにやすりをかけられているような、そんな声。


「同じ仕掛けって、芸がないよね」


 だん、とリュシアンが床に踏み抜くように勢いよく足を打ち付けた。怯んだように、哄笑が一瞬止む。


「五月蠅いんだよ、お前」


 瞳を虹色に輝かせたリュシアンが、低い声で威圧した。


『……へぇ』


 感心したようなその声は、エルフリードの耳元から聞こえた。


「っ!?」


 エルフリードは咄嗟に鋭剣を抜き放ち、背後を振り返る。だが、そこには誰もいない。


『お姫様の醜態を見るのは、中々難しそうだね』


 今度の声も、やはり耳元から。


「くっ!」


「惑わされちゃ駄目」


 再び振り返ったエルフリードをたしなめるように、リュシアンは冷めた声で言う。


『お姫様を発狂させて、それで君をお姫様にかかりっきりにさせる筈だったんだけど、中々上手くいかないものだね』


 今度はリュシアンの耳元から響く声。アリシア・ハーヴェイの声そのものだった。

 仕掛けられていたのは、精神汚染と認識阻害の術式だった。相手は自らの姿を隠したまま、声だけをこちらに届けている。恐らくは、自分たちを少しでも攪乱するために。


『それに、封絶(ふうぜつ)結界まで。空間を遮断する形式の結界を張ったってことは、ここに爆薬があることを嗅ぎつけられたってことかな?』


 飄々としながらも、警戒心を滲ませた声。彼女自身も、もはや自身の優位性が揺らいでいることに気付いているのだろう。〈モラルタ〉によって付けられた傷は、今も回復していないはずだ。


『まったく、君たちの諜報機関も厄介だよね。私もいよいよ焼きが回ってきたかな?』


 だが、その声に諦観はない。少なくとも、彼女がこの場を切り抜けるための障害はリュシアンとエルフリードしかいないのだ。特に彼女の右腕の傷を考えれば、リュシアンの存在を放置することは出来ないだろう。


「……エル、大丈夫?」


 そんな彼女の声を無視するように、リュシアンは相棒たる少女に声をかける。


「うむ、問題はない」

 軽く頭を振ったエルフリードは、リュシアンの隣に並ぶ。


 わずかな月明かりが差し込む出入り口より奥は、ほとんど視界が利かないほど暗い。

 リュシアンの手の平に、ぽぅと鬼火が宿った。その手を横に振るうと、鬼火は分裂して倉庫に散り散りに広がっていく。


「……やれやれ、ここにはダイナマイトがあるんだけどね」


 どこか呆れたような声と共に、アリシアの姿が鬼火によって暗闇の中に浮かび上がった。


「さて、さっきはお姫様と君を取り違えてしまったけど、リュシアン・エスタークス、改めて君は私の仲間になって欲しいな?」


「……あんた、まだ言ってんの?」


 興味もなさそうな素っ気ない口調で、リュシアンは言う。


「こういう状況だからね。仲間は一人でも多い方がいい」


 そう言って、アリシアは肩をすくめた。ただ、右肩の動きがぎこちない。よく見れば、彼女の服は右腕の袖が消失し、肌が剥き出しになっていた。

 リュシアンの放った〈フェイルノート〉の魔矢を防ごうと防御結界を展開しようとして、腕ごと吹き飛ばされたのだろう。それでも、短時間で腕の形だけは治癒魔術で再生させたようだ。

 やはり、油断は出来ない魔術師だった。


「君もいい加減気付きなよ」アリシアはわずかに苛立ちの含んだ声音で続ける。「そこの王女に忠義を尽くす理由がどこにあるんだい? 王国臣民だから、無条件に王族に従わないといけないのかな?」


「あんたさあ、ほんとにごちゃごちゃ五月蠅いね」


 リュシアンの声に、剣呑さが混じる。


「……リュシアン、この魔女と問答しても無駄だ」


 一歩、前に出たエルフリードは鋭剣(サーベル)を抜き放ち、床を蹴った。


「おっと、私は彼とまだ話し中だよ。お姫様は礼儀がなってないね。〈地よ、泥濘となりて沈め〉」


 がくり、とエルフリードの左足が沈む。だが、彼女の反射速度は凄まじかった。体が均衡を崩す前に右足に重心を移して左足を抜くと、素早く床を蹴って跳躍したのだ。

 床と足が触れていなければ、足場崩しの魔術は意味をなさない。


「はぁっ!」


 エルフリードは大上段に構えた鋭剣を振り下ろす。

 彼女の鋭剣に対して防御結界が無意味と理解しているアリシアは、即座に後方に跳んだ。対するエルフリードは着地と同時に鋭い突きを繰り出す。


「〈其は(いわお)の如く〉」


 その瞬間、鋭剣の軌道がずれた。突きを繰り出したエルフリード自身の体に凄まじい圧力がかかり、彼女が膝をついたからだ。


「ぐぅ……」


 重量制御の呪文によって、手足に重りを付けられたようになる。

 だが、エルフリードの停滞はわずかの間だった。立ち上がった彼女は、即座に床を蹴ってアリシアに迫る。


「守護の魔術紋様……。ほんと、厄介だよ」


 舌打ちしそうな表情で、アリシアが呟く。

 エルフリードの全身に描き込まれた守護の紋様が、魔女の呪文の威力を激減させているのだ。

 王女を害する意思を以って放たれた術のすべてを、あの紋様は減殺するのだろう。リュシアン・エスタークスは随分と過保護らしい、とアリシアは皮肉げに思う。とはいえ、だからこそ、この少女は彼にとっての弱点となり得る。

 刹那、倉庫内の空気が乱れた。

 ぶん、と空気を切る音と共に、エルフリード目がけて木箱が飛んできた。


「っ!?」


「エル、そのまま突っ込んで!」


 リュシアンの声が鋭く飛んだ。エルフリードはその声のままに、止まることなく床を蹴った。

 彼女の突進を阻むように飛んできた木箱に、エルフリードは正面から体当たり。彼女を守るように展開した魔法陣と共に、木箱を中身ごとばらばらにして突き抜ける。

 彼女の胸元で、瑪瑙のお守りが淡く光っていた。


「はぁっ!」


「ちっ!」


 エルフリードが繰り出した突きに、アリシアの舌打ちが重なった。


「〈不可視の壁よ〉!」


 咄嗟に、彼女は右手で防御結界を展開する。とはいえ、それが王女の刺突の衝撃を緩和する程度の効果しかないだろうことは判っている。

 直後に響く破砕音。右腕を突き抜ける激痛。

 体を庇うように突き出した右腕に、エルフリードの鋭剣が突き刺さる。

 右腕の痛みを即座に遮断。身体強化(エンチャント)で脚力を強化した足を振り上げて相手の腹部を狙う。

 だが、エルフリードも即座に反応した。後ろに跳んで鋭剣を引き抜く。右腕を貫通する傷口から、血が噴き出した。


「甘いよ」


 だが、ここはアリシアの陣地である。魔術的な仕掛けには事欠かない。


「〈沈め〉」


 再び、足場崩しの術式を発動させる。途端に、エルフリードの跳び退いた場所が泥濘のようになり、着地と共に彼女の体が後ろに倒れ込んだ。


「エル、そのまま倒れていい!」


 その言葉に、無理に体勢を立て直そうとせずエルフリードは受け身を取って倒れ込む。直後、彼女の頭上を、熱波が襲う。

 倉庫内が一瞬、真昼のごとく明るくなった。


「くっ、これは……」


 エルフリードは自身の目が捉えた光景に、納得の声を上げる。倉庫内を、無数の木箱が浮遊していた。

 それが、倒れた彼女を押し潰そうと押し寄せてきたのだ。


「頭を上げるな!」


「くっ!」


 咄嗟に反応しそうになる自身の体を抑えて、エルフリードは倒れたままの姿勢で熱波をやり過ごす。木箱は彼女を押し潰す前に、猛火に包まれた。一瞬で、箱と中身が消し炭と化す。


「……かはっ……はっ」


 リュシアンの空嘔吐(えず)きが、エルフリードの耳に届いた。


「無茶苦茶するね、君」呆れの含んだ油断のないアリシアの声。「箱の中身がダイナマイトだって可能性は考えないのかい?」


 その声には、リュシアンを牽制する響が混じっていた。


「あんた、俺たちをここで排除して議事堂を爆破したいんだろ? だったら、箱の中身がダイナマイトなわけがないっていう、常識的判断だよ」


 リュシアンは口元をぐいと拭った。唾の中に、かすかに血が混じっていた。鼻の奥からも、鉄錆びたにおいがする。

 アリシアの眉がぴくりと痙攣した。図星か、魔術師としての駆け引きに負けたことへの悔しさか。

 いずれにせよ、リュシアンには相手の感慨などどうでもいい。

 エルフリードの体に描き込んだ守護の紋様は魔術にしか効かないが、瑪瑙のお守りは物理的攻撃にも対応出来るように魔術式を刻んである。リュシアンの自動防御霊装〈黒の法衣(ブラック・ローブ)〉には及ばないが、自動防御機能を持っているのだ。

 ある程度の攻撃は、魔術・物理ともエルフリード自身で対応出来る。

 だが、未だエルフリードの体は呪詛に犯されている。守護の紋様も、瑪瑙のお守りも、その機能の一部は未だに呪詛を押さえ込むことにつぎ込まれていた。特に瑪瑙のお守りは、負荷がかかり過ぎれば砕けかねない。

 だから、リュシアンはエルフリードを支援する必要があった。


「まったく、君は本当に厄介だよ。十六歳とは思えないほど実戦慣れしている」


 魔女の視線が、黒衣の魔術師を射貫く。そこにあるのは、この場を切り抜けようとする狡猾な色。


「でも、流石に結界を張って、倉庫を照らして、お姫様を守りながら戦うのは辛いんじゃないのかな?」


 そんな彼女は当然、リュシアンの限界も見抜いている。

 状況は、先ほど廃墟で対峙した時とさして変わらない。三つの魔術の同時使用によって、リュシアンの肉体と精神には相当な負担がかかっている。

 特に、封絶結界は空間そのものを遮断し、結界内部を一種の異界と化する高度な結界である。術式の組み立てと維持には、相当の集中力と魔力を消費してしまう。

 だが、ダイナマイトの爆発とアリシア・ハーヴェイの逃亡を阻止するためには絶対に必要な結界であり、彼女が健在である以上は術式を解くわけにはいかない。


「……リュシアン、大丈夫か?」


 倒れた姿勢から倒立回転の要領で跳び退いてきたエルフリードが、リュシアンの隣に並ぶ。


「ああ、まだ大丈夫」


 鼻の奥の鉄錆びたにおいは、すでに鼻血となって垂れ落ちていた。それを、リュシアンは手で拭う。肉体への負荷によって、鼻孔の毛細血管が切れてしまったのだ。


「どれくらい持つ?」


 小声で、エルフリードが問う。


「五分」


 それ以上は、肉体か精神かどちらかが確実に持たない。

 そして、アリシア・ハーヴェイはリュシアンが弱り切るのを確実に待っている。彼女は間違いなく、エルフリードに攻撃を集中してリュシアンの集中力を削ごうとしている。相変わらず無駄口が多いのも、時間稼ぎを目的とした一つの戦術だろう。


「その間ならば、どのような援護であろうと期待してよいのだな?」


 こちらの隙を窺うように倉庫内を浮遊する数多の木箱を見据えながら、エルフリードが確認する。


「ああ」


 余計なことは一切言わず、ただ淡々とリュシアンは確言した。

 その答えに、エルフリードは唇をかすかに持ち上げる。鋭剣(サーベル)を構えた彼女は、片足を前に出し腰を落として重心を下げる。


「では、征くぞ」


 瞬間、エルフリードは床を蹴った。途端、彼女の行く手を塞ぐように木箱が襲いかかる。


「ふん!」


 木箱と衝突する直前、エルフリードは跳んだ。その刹那に、彼女の全身を風が包んだ。軽快な跳躍で、飛来する木箱から木箱へと飛び移り、アリシアへと接近する。


「へぇ」


 どこか小馬鹿にしたような声を出したアリシアは、目線をエルフリードからリュシアンに向ける。

 風魔法による、跳躍の補助。だが、風の操作を一歩でも誤れば王女は倉庫の床に墜落する。他者の動きを魔法で補助するということは、大変な集中力と緊張感を伴うものだ。


「だったら……」


 一部の箱を、王女ではなくリュシアンに向ける。彼の集中力が少しでも乱れれば、あの少女は床に叩き付けられる。

 ぶん、と重量のある木箱がリュシアンを襲う。

 その刹那、彼のまとう〈黒の法衣(ブラック・ローブ)〉が反応した。襲い来る木箱に対して緞帳のように広がった大外套は、直撃した木箱を逆に微塵に粉砕する。

 王女を取り巻く風魔法に、一切の乱れはなかった。


「ちっ!」


 そして、アリシアの意識がリュシアンに向かっていたわずかな間に、エルフリードはもう目の前に迫っていた。


「〈収斂せよ〉!」


 大上段に鋭剣を構えて斬り込むエルフリード。

 一方、空間そのものを圧縮して彼女を押し潰そうとするアリシア。彼女は突き出した右腕を握り込む。

 エルフリードの存在する空間が歪む。

 だが-――。

 彼女の顔にまで描き込まれた守護の紋様、それが淡く光り、エルフリードは歪んだ空間を突破した。

 斬、と一閃。

 魔女は後方に跳び退いた。一瞬前まで彼女がいた場所に、右腕だけが残される。


()ったいなぁ!」


 だが、アリシアは憤怒と嘲弄の混じった叫びで、さらに踏み込んできたエルフリードを迎えた。手を伸ばし、彼女の顔を掴んで床に叩き付けられる。

 アリシアは腕に身体強化(エンチャント)の魔術をかけていたため、叩き付けられたエルフリードの体が床で何度か跳ねて転がった。


「ぐっ……」


 だが、跳ね転がる途中で体勢を立て直したエルフリードは、猫のような身のこなしで着地する。その口から、つぅと血が流れる。未だ呪詛に犯されている体を激しく動かしていることで、リュシアンだけでなく彼女自身にも限界が近づきつつあったのだ。

 両手両足を床につく形で着地したエルフリードは、顔を上げて魔女の姿を確認使用とする。


「……っ!?」


 だが、いない。咄嗟に視線を左右に振る。


「エル、後ろ!」


 リュシアンの叫びに、エルフリードは床に手をついた姿勢のまま足を振り上げた。だが、その足が不可視の手に掴まれた。


「っ!?」


 己の体が、無理矢理に持ち上げられる。だが、エルフリードに驚愕による停滞は生じなかった。逆さまの姿勢のまま鋭剣で不可視の“何か”を突くのと、エルフリードの体が放り投げられるのは同時だった。

 ずぶりという人の肉体を裂く感覚と、己の体が宙を舞う感覚。

 どん、という何かに激突した衝撃が、エルフリードを襲う。だが、コンクリートの床やレンガの壁に叩き付けられる衝撃ではなかった。


「……エル、大丈夫?」


 エルフリードの体は、壁に激突する形で腰を落としているリュシアンの腕の中にあった。防御霊装である〈黒の法衣(ブラック・ローブ)〉も、激突の衝撃は完全に殺しきることは出来なかったらしく、リュシアンはかすかに顔をしかめている。


「ああ、問題ないが……」


 言って、エルフリードは視界が暗くなっていることに気付いた。倉庫内部を照らしていたリュシアンの鬼火が、消えている。

 エルフリードを受け止めた衝撃で、術式を維持するだけの集中力が切れてしまったのだ。


『……魔術師相手に、常人(ただびと)がここまで戦えるなんて意外だね』


 苦しげな声が、暗がりの中に響く。だが、それがどこから響いてくるものなのか、聴覚からだけでは判らない。自身のすぐ隣から聞こえてくるようでも、頭上から聞こえてくるようでも、あるいは倉庫のもっと奥から聞こえてくるようでもある。

 幻影魔術による光学迷彩と、認識阻害の術式。

 さらに倉庫の暗闇が天然の結界となって、アリシアの姿を巧みに隠していた。

 だが、エルフリードは確実にあの魔女に深手を与えている。右腕を切断し、胸の辺りを刺突した。魔術師であっても、重傷と呼べるほどの傷である。闇から聞こえるアリシアの声が、それを証明している。

 リュシアンは、エルフリードを受け止めた姿勢のまま動かない。少年は魔術の多重展開によって、すでに肉体的・精神的に満身創痍といってよかった。鼻だけでなく、眼球の毛細血管も切れたらしく左目から血の涙を流している。

 エルフリードもまた、彼の腕の中から動かなかった。彼女の手からはすでに、鋭剣が失われていた。投げ飛ばされた瞬間に、手を離してしまったのだ。呪詛による体の苦痛も、徐々に激しくなっている。

 それでも立ち上がろうとするエルフリードを、リュシアンは無言でぎゅっと抱きしめた。


「……」


 エルフリードはそれだけで、リュシアンの意図を悟った。

 何も言わずとも少年が風魔法で援護してくれたように、少女もまた、何も言われずとも少年の意図が判っていた。

 よろめくように、リュシアンは立ち上がった。

 少年は壁際の少女を守るように、覚束ない足取りで立つ。

 ぽたり、ぽたりと顎から血が雫となって垂れ落ちる。

 見開かれた魔眼に映るのは、暗い倉庫の中を鮮やかに取り巻く魔力の線。赤に、青に、緑に、黄に、様々な線が混ざり合い、絡み合い、交差し合って倉庫の内部を取り巻いている。

 そして、繭のように絡み合って、人の形をした魔力の塊。光学迷彩をまとって姿を消した、アリシア・ハーヴェイ。

 走り来るそれを、リュシアンは見据えた。“視えている”以上、死神たる少年にとってはたやすい。

 命を刈り取らない死神など、決して存在しないのだから。


  ◇◇◇


 結末は、ひどく呆気ないものだった。

 斬、と一閃。

 赤剣〈ベガルタ〉が魔女を斬り裂いた。

 その瞬間、破魔の魔剣はすべての魔術を粉砕した。

 アリシア・ハーヴェイの纏う幻影魔術も、彼女と繋がっている魔術陣地の仕掛けも、そして、リュシアンが構築した封絶結界も。

 ガラスが砕けるような破砕音と共に、封絶結界が崩れていく。

 すると、破壊された無数の木箱が、何事もなかったかのように元に戻っていた。鉄の扉すら、元に戻っている。

 封絶結界は、空間を遮断し、内部を異界化する結界。

 つまり、現実と切り離された空間。そこで発生した事象は、現実世界には何の影響も及ぶことはない。

 唯一、結界内で現実の存在である人間を除いては。

 肩口から袈裟懸けに斬られたアリシア・ハーヴェイは、己の血の中に仰向けに沈んでいた。その瞳孔は開いたままで、生命活動を停止させている。

 ぼぅ、と再びリュシアンは自身の周囲に鬼火を発生させる。


「……終わったか?」


 後ろから、エルフリードが固い声で問いかける。


「ああ、終わった」


 リュシアンは、エルフリードの方を振り返らなかった。温度を感じさせない声で答えるだけだ。

 赤剣〈ベガルタ〉はあらゆる魔術式を破砕する。それはつまり、アリシア・ハーヴェイを基点とする術式すべてを一斉に破壊したことになるのだ。

 例え彼女が己の死に際して発動する術式を構築していたとしても、〈ベガルタ〉がすべてを破壊している。アリシア・ハーヴェイがどのような魔術的手段で議事堂を爆破しようとしていたとしても、同じことであった。

 本当に、呆気ない結末である。

 だが、死神のもたらす死というものは、えてしてそういうものなのだ。


「お前の体に、異常はないか?」


 それでも、エルフリードは魔女が死に際してリュシアンに呪詛などをかけていないかを心配しているらしい。


「問題ないよ、いつもの通りさ」


 淡々としながらも、少女の前で“死神”として振る舞ったことを恥じ入るような、しおれた声だった。


「……お前が無事ならば、私はそれでよい」


 口下手な自分は、いつもリュシアンを慰めることが出来ない。エルフリードは、そんな自分をもどかしく感じながら、そう言った。

 その言葉に、ようやくリュシアンは振り向いた。未だ多様な色彩を放ち続ける魔眼でエルフリードを見据える。

 エルフリードは少年の瞳を見つめ返す。その顔に、かつての日の愉悦はない。ただ、一人の少年を案ずる少女の顔だけがあった。


「……そうだね」


 リュシアンは言った。互いに、目は逸らさなかった。


「俺も、エルが無事ならそれでいいよ」

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