19 二人であることの意味
エルフリードは頭を反らして、魔術師の少年を見上げた。
リュシアンはちょうど、床に押し倒された彼女の頭上に着地していた。
「……ふん、やはりお前は私を取るのか、リュシアン」
どこか聞き分けのない子供を叱るような柔らかさでエルフリードは言った。
彼女の四肢を押さえつけ、服を剥ぎ取ろうとしていた男たちは、すでに気絶し倒れていた。結界を破ったリュシアンの魔矢が、彼らを直撃したのだ。
「馬鹿者め。ヴェナリアの鼠どもの始末を優先せよ、と言ったであろうに。この女は、私が足止めしておくと」
「ごめん」
困ったように顔をしかめて、リュシアンがエルフリードを見下ろす。
「でも、俺はエルの専属魔導官だから」
その体からは、先ほどからぽたりぽたりと血が滴っている。
霊装〈フェイルノート〉を持つ手には皸のような裂傷がいくつも走り、そこから流れ出た血が指の辺りで合流して血の雫を作っていた。
エルフリードが倒れたまま見上げれば、鼻や口元にも血の跡があった。
「随分、焦ってやって来たみたいだね」
その原因を、同じ魔術師たるアリシア・ハーヴェイはすぐに見抜いた。
「身体強化の使い過ぎ、いや、どっちかっていうと、強化のし過ぎかな? 肉体に負担がかかりすぎて、毛細血管のあちこちが切れてるんじゃないかな? それにその分だと、肉離れも結構起こってるよね?」
「……」
リュシアンが無言で素早く弓を引く。その弦に、燐光を伴って魔力で編まれた矢が番えられる。
矢が放たれるのと、アリシアが防護結界を展開するのは同時だった。
だが、魔女が身を守るために張った結界に弾着の衝撃はない。代わりに、軌道を変えて幾つもの矢に分かれた魔矢は廃墟の至る所に着弾していた。
「何っ!?」
今まで飄々としていたアリシアの顔に、焦りが浮かぶ。
それらの着弾場所は、彼女が拠点とするこの陣地に、侵入者撃退用に予め魔法陣を仕込んでおいたところなのだ。
認識阻害、重量操作、精神汚染、その他―――。
そうした術式を発動するための基盤となるべき魔法陣をすべて破壊されてしまった。
何故、厳重に隠蔽用の結界を張って仕込んでいた魔法陣が見破られたのか、それはこの際重要ではない。この“死神”を前にして、自身の優位性を保てるはずの陣地を無効化されてしまった事実の方が重要だ。
「随分と無理をするね」
だが、未だエルフリードという足枷をリュシアンは付けたままだ。僅差で自分の方が有利なはずだと、アリシアは判断する。
「そんなにそのお姫様が大切なのか―――」
「ごちゃごちゃ五月蠅いよ」
アリシアの言葉を遮るリュシアンの声。聞く者の怖気を誘うような、低く平坦な声だった。
不覚にも、アリシアはぞわりと肌が粟立つのを感じてしまった。
憎悪や嫌悪といった、余分な感情をすべてそぎ落とした純粋な敵意と殺意に満ちた視線が、年若い魔女を貫く。
敵と仲良く喋る趣味など、リュシアンにはない。敵はただ討つべき存在。それ以上でもそれ以下でもないのだ。
「真名解放、〈モラルタ〉、〈ベガルタ〉」
〈フェイルノート〉を消し、腰の後ろに交差するように差した二振りの小剣を抜き放つ。
赤い装飾と、黄色い装飾のなされた一対の剣。
その双剣を構え、焼け焦げた痕の残る床を蹴る。
身体強化魔法を過度に行使したために、肉体が悲鳴を上げている。だが、リュシアンはそれを完全に無視した。手首や足首といった戦闘に絶対に必要な箇所の腱が裂けない限り、治癒魔法の行使も最低限だった。
身体強化に治癒の魔法を同時に使用し、さらに剣術も駆使しようとすれば、肉体だけでなく脳への負担も相当なものとなる。両手で別々の作業をする以上の負荷が脳にかかるのだ。
長くは持たない。
「〈風よ、刃となりて切り裂け〉!」
アリシアが唱える風刃の呪文。
リュシアンの魔眼には、彼女の魔力と大気中の霊子が反応する様が鮮明に見える。
赤剣〈ベガルタ〉を振るう。
途端に、魔力と霊子の繋がりあおうとした線が大気に溶けるように消えていく。
「なっ!?」
術の発動が途中で失敗したことに、アリシアは目を見開く。
〈ベガルタ〉は破魔の効果を持つ、古の小剣。〈フェイルノート〉と同じく、リュシアンが己の霊装とするために手に入れたものだ。
その性質故、リュシアンの魔眼との相性は最適といえた。
「ぃぐっ……」
だが、一振りごとにリュシアンの体は軋む。全身という全身が脳に痛みを訴え続けている。
「くっ……!」
〈ベガルタ〉の威力と、手負いの獣じみたリュシアンの動きにアリシアが歯がみした。杖そのものでリュシアンの剣を受け止めようとする。
だが、〈ベガルタ〉が魔杖を切りつけたその瞬間、破砕音と共に木製の杖は粉々に砕け散った。
自らの霊装が呆気なく破壊されたことによる、一瞬の自失。その刹那の間に、対をなす〈モラルタ〉が彼女を斬り裂いた。
だが、アリシアが咄嗟に後ろに跳んだため、右腕の薄皮を斬り裂いたに過ぎない。
肉体が限界を迎えつつある少年と、霊装を失った魔女。
状況を即座に見極めたアリシアは、撤退を選んだ。
「ぐっ……がぁぁ……」
リュシアンはか細く吠えるようにして全身の魔力を活性化させる。それだけで、凄まじい痛みが全身を駆け巡った。
再び〈フェイルノート〉を召喚。
身体強化の術を使って急速に遠ざかろうとする魔女の背中に、弓を構える。魔力を凝縮し、矢として放つ。
外れずの弓〈フェイルノート〉。
あの魔女がどこへ逃げようが、魔力が尽きるまで矢は彼女を追尾し続ける。
「ふっ……」
リュシアンは矢を放った態勢のまま、細く息を吐き出して膝から崩れ落ちた。
「リュシアン!」
エルフリードが咄嗟にリュシアンに手を伸ばそうと、立ち上がり、果たせずに地面に倒れる。
「ぐっ……」
引きずり下ろされていたズボンが両足に絡んでいた。エルフリードは躊躇わず無事な左手をズボンにかけ、足を引き抜く。
「リュシアン!」
鋭剣だけを持って倒れたリュシアンに駆け寄ってみれば、体を覆う外套越しにも判るほど、彼の肉体は酷い有様だった。廃墟の床に、はっきりと判るほど血が染み出している。
「……エル、大丈夫?」
なのに、リュシアンがまず心配するのはエルフリードなのだ。苦痛を耐えるような間延びした口調。そして力ない動作で、手を伸ばしてくる。その手も、爪の間から血が流れ出していた。
「馬鹿者! まずは自分の心配をしろ!」
思わず、エルフリードはそう怒鳴ってしまった。
「魔術師の体は結構頑丈だからね。別に、死にはしないよ。危ないところは、治癒魔法で出血を防いでいるし。それよりも、君の呪詛を緩和しないと」
「そういう問題ではなかろう!」
エルフリードはリュシアンを抱き起こそうとして、激痛に体を硬直させてしまう。人差し指が、骨を折られたことを主張するかのように痛みを発しているのだ。その痛みに刺激されたのか、呪詛による苦痛も全身を駆け巡る。
「ぐっ……!」
「無理しないで」
床に両膝をついているエルフリードに、リュシアンが手を伸ばす。前をはだけさせられた上着からのぞく彼女の胸に、そっと触れる。
それが、この間の夜と同じく、エルフリードの呪詛の痛みを緩和するための癒やしの魔法だと判った。
「右手も出して。治すから」
「やめろ!」エルフリードは悲鳴じみた声を上げて、その手を払う。「私などではなく、お前自身のために魔力を使え!」
リュシアンが自身の治癒に使うための魔力すら、エルフリードのために使っていることに、彼女は気付いていた。
「俺の魔力も肉体も限界だから」だが、リュシアンは頑なだった。「だったら、俺はエルを治すことを優先する」
エルフリードもリュシアンも、自分の痛みには耐えられる。でも、相手が苦しむことに耐えられないのだ。それをお互いが判っている。だから、二人とも譲ろうとしないのだ。
「……魔力があれば、よいのであろう?」
切実さを感じさせる真剣な口調で、エルフリードは問いかけた。その目に宿る必死さに、リュシアンも気付いたのだろう。彼の表情に、わずかに焦りと自己嫌悪のようなものが浮かぶ。
「エル、それは駄目だ」
その口調は弱々しくも、断固とした感情が籠もっていた。それはリュシアンにとって、どうしても譲りたくない一線なのだと、エルフリードは理解している。
「夜会のあったあの日、言ったであろう。私を必要とする場面も出てくるかもしれぬ、と」
それでも、エルフリードはリュシアンを放っておくことなど出来なかった。
「私という存在も含めて、“リュシアン・エスタークス”という魔術師だ。ならば、何を躊躇うことがある?」
「……」
高圧的な王女としての口調に、リュシアンは黙り込む。
「お前が拒むのならば、私もお前の治癒を拒む。では、あの魔女の追撃は誰が行うのだ?」
「……」
追い打ちに等しい一言を放つと、リュシアンの瞳は葛藤に揺れた。その隙を、エルフリードは逃さない。うつ伏せに倒れている彼の体を、仰向けにする。自動防御霊装たる大外套〈黒の法衣〉に染み込んだ血が、エルフリードの手を汚した。
上着でさっと血を拭うと、エルフリードは左手で鋭剣を抜いた。無事な左手で持っていた剣を腋に入れて、その左手で抜いたため逆手に持つような形になる。だが、別に構わなかった。
「エル……」
リュシアンは懇願するような声と共に、彼女に手を伸ばす。だが、その手がエルフリードに届く前に彼女は鋭剣の刃に己の舌を滑らせた。
泣きそうな表情で体を硬直させるリュシアンの唇を、エルフリードは血に濡れた己の唇で塞いだ。
◇◇◇
古来、王の体には人を癒す力があるとされてきた。
病に冒された人物に王が触れると、たちまちに病が癒えたという伝承は各国に残る。
王権の神秘性と権威のために、王家が作り出した神話なのかもしれない。あるいは、民衆がそのように民に尽くす王の姿を望んだことで生まれた伝承なのかもしれない。もしかしたら本当に、その王は治癒の魔術が使えたのかもしれない。
ただ、そうした王の身体にまつわる伝説が、ある一定の時代まで信じられてきたのは事実である。
そして、こうしたいわゆる「王の奇跡」という伝説に、関心を持った魔術師たちもいた。
魔術とは、精神の動きによって世界の理に影響を及ぼそうとする技術である。例え、王に魔術師としての能力がなかったとしても、「信仰」という無数の精神の動きによって、王家に魔術的な価値が付与される可能性がある。
その魔術的な価値とは何なのか。
王家の人間と魔術師の間に子をなした場合、その子供にどのような魔術的特性が現われるのか。
そうした疑問を持った者たちが、ロンダリア連合王国の宮中に存在していた。
魔導貴族や王室魔導院の魔術師たちである。
そこに、王家にエルフリードという王女が、魔導貴族エスタークス伯爵家にリュシアンという、同い年の子供が生まれた。
自らの疑問を解決し、この世の理を解き明かしたい魔術師たちの知識欲。
共和主義思想が流入し、王権の絶対性が揺らぎつつある王室の危機感。
それらが奇妙に組み合わさった結果、リュシアンとエルフリードの政略結婚は決定された。
いずれ二人の間に生まれる子供に、伝承にあるような魔術的特性が現われれば、王室の権威は絶対的なものとなる。王室魔導院も、一つの研究成果を得られる。
両者の利害は一致していた。
だから、リュシアンとエルフリードは出逢った。周囲の者たちの、数多の思惑に呑み込まれていった結果として。
◇◇◇
儚い抵抗を抑え込んで、舌先に痺れるような痛みを感じながらエルフリードは強引に口付けを続ける。
舌を絡ませて、己の血をリュシアンに分け与える。
リュシアンがこういう行為に嫌悪感を抱いていることは、エルフリードも判っていた。彼は魔導の持つ闇の面を、ずっと見続けてきた。
人間を魔術のための道具程度にしか思っていない魔術師もいる。呪詛をかけるためだけに命を消費したアリシアも、そうした魔術師の一人だろう。
だから、リュシアンはそうした魔術師たちを忌避する。
だというのに、自分はリュシアンをそのような魔術師の一人に貶めているのだ。
エルフリードの体液には、「王の奇跡」伝承のように治癒の能力、あるいは魔力を回復させる効果が宿っていた。そうした能力がいつ、どうして発現したのかは判らない。
ただ、リュシアンとの精神的な繋がりの中で発現したものだろう。
この力を、エルフリードはリュシアンにしか使うつもりはないし、リュシアン以外には効果がないだろうとも思っている。
だから、“リュシアン・エスタークス”という魔術師は、エルフリードという存在も含めて一人の魔術師なのだ。
「エ、ル……」
口付けの合間の息継ぎ、リュシアンが弱々しい声でエルフリードの名を呼ぶ。もういいと、もう止めてくれと、懇願するような響だった。
その声に罪悪感を抱きながら、エルフリードはなおも口付けを続けた。
リュシアンはエルフリードの覚悟を判っている。彼女が自分へ向ける想いを理解している。
だから、リュシアンはエルフリードを突き放せない。だから、エルフリードはリュシアンの想いを踏みにじる。
これでは、道具扱いをしているのは私の方ではないか……。
そんな自嘲が、エルフリードの胸の内に浮かぶ。きっと、リュシアンよりも自分の方がよほど魔術師として相応しい精神構造をしているのだろう。
リュシアンは、何度かエルフリードの口付けから逃れるように体を捩らせる。だが、エルフリードはそれでも少年に対する己の行為を止めなかった。
このような私を許せよ、リュシアン……。
それがどこまで自分本位で、身勝手な願いであるのか、エルフリードは誰に言われるまでもなく判っていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
アリシアは王都の裏路地の壁に、倒れ込むように体を預けた。
「ぐっ……ちょっとしくじったね……」
自嘲の笑みと共に、右腕を押さえる。肘から先は、目を背けたくなるほどの有り様だった。
赤い肉や骨が剥き出しになり、だらりと垂れ下がって血を滴らせている。
自身に精神操作系の魔術をかけて痛覚を遮断しているが、失血による倦怠感はどうしようもなかった。
リュシアン・エスタークスが逃走を図るアリシアに向けて放った魔矢。
それは、まるで意思を持っているかのように彼女を追尾し、右手で咄嗟に展開した防御結界を撃ち抜いてアリシアの右腕を使い物にならなくしていた。
魔矢は、右腕が消失していないことが不思議に思えるほどの威力であった。恐らく、身体強化の過使用であの少年の肉体も魔力も限界だったのだろう。
そうでなければ、右腕そのものを吹き飛ばされるか、最悪心臓を撃ち抜かれていたに違いない。
だが、少なくともリュシアン・エスタークスからの追撃は躱したと見ていいだろう。あの有り様では、向こうも当分は動けないはずだ。半日は時間を稼いだと見て構わない。
そして、その間にこちらは議事堂の爆破と南ブルグンディア宰相の爆殺を実行する。
逮捕された元同志たちが取り調べの中で議事堂爆破計画を自白しているかもしれないが、それも計画には織り込み済みだ。
というよりも、彼らの自白はロンダリア官憲に対する良い偽装工作になるだろう。
アリシアは、逃げ延びていた革命組織の同志たちを密告したことに、さして痛痒を覚えていなかった。むしろ、革命精神が足りていないような連中ならば、捨て駒として役に立ってもらわなければならないとすら考えている。
彼ら自身が主体的に革命運動を推進しようとしないのならば、こちらが無理にでも革命のための礎にしてやらねばならないのだ。
運河を航行する艀に爆薬を積むという計画など、最初からアリシアは実行しようとは思っていない。
計画の障害は、リュシアン・エスタークスや王室魔導院だが、後者は警察との管轄争いで迅速な対応は出来ないだろう。
あの魔術師の少年も、実質的に無力化した。いや、あの王女を心配するあまりの自滅といえるだろう。
アリシアとしては何故あの少年があそこまで王女に拘るのかが理解出来ないが、まあ男心も女心と同じく複雑なのだろうと思っておくことにする。
「ふふふ……」
脂汗を額に浮かばせながら、アリシアは小さく笑い声を上げた。
「私が生きている限り、計画は必ず成功するよ」
そう呟いて、年若い魔女は薄暗い建物の狭間で妖しくほくそ笑んだ。




