17 イデオロギー問答
「ロンダリア側に我々の活動が気取られている可能性がある」
拠点としているヴェナリア料理店の地下で、アンドレイ中尉はオリアーニ大佐からそう説明された。
「今朝ほど、我が大使館にモンフォート外相が訪れてベルミラーノ大使と私的会談を行った。その直後、大使館は本国外務省に対して我々の王都での活動について照会を行う暗号通信を発している」
ヴェナリア執政府情報調査局は、駐ロンダリア大使館の職員の中に局員を紛れ込ませている。その局員から、報告があったのだ。
「それと、我々が利用している密輸業者にも捜査の手が伸びている。彼らが摘発されるのは時間の問題だろう」
「王都での我々の活動は、失敗に終わったということですか?」
「あまり正直に言ってくれるな」オリアーニは苦い顔をする。「とはいえ、事実は謙虚に受け止めんと我々自身も危ない」
「リュシアン・エスタークスに関する情報収集と、アリシア・ハーヴェイへの支援は?」
「魔女の支援は一旦中止するしかあるまい。あの魔女にも官憲の監視が付いていないとも限らん。逆探知防止のため、こちらから奴への連絡は一切するな。ロンダリア国内の反政府組織とも一時距離を置く。ただし、リュシアン・エスタークスについては出来る限り情報収集に努める」
「今後、“事故”に気を付けるべきでは?」
アンドレイ中尉は慎重な口調で言う。
ロンダリア側が、自分たちヴェナリア工作員を“始末”する可能性を懸念しているのである。あからさまに殺害すれば両国関係に影響を及ぼすため、事故を装って謀殺しようとする可能性は否定出来ないのだ。
「そうだな。それと念のため、この拠点も放棄する。機密書類は焼却し、店も火事に偽装して焼き払う」
「それがよろしいかと」
薄暗い地下室で、二人の諜報官は頷き合った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ジャリ、と靴底がレンガの破片を踏みしめる軽い音がする。
屋内だというのに、その場所は荒れ果てていた。割れたガラス片や細かいレンガの破片が周囲に散乱し、壁には明らかに火事の跡が残る。
そして焼け落ちたと思われる天井からは、薄汚れた夜空が見上げられた。
「……随分な歓迎ぶりだね」
己のいる場所にさして感慨を覚えるでもなく、淡々とした口調で黒衣の魔術師は皮肉を言う。
「ああ、お気に召さなかったら謝るよ」
恐らくは二階だったと思われる場所にある崩れた床に腰掛ける魔女は、飄々とした態度で応じた。
「とはいえ、ここは良い場所だよ。屋根がないから浮浪者たちが寄りつかないし、火事で死んだ人間の幽霊が出るって気味悪がって誰も近づこうとしない」
「君たちにとっては、ね」
興味ないとばかりに、フードまで目深に被った小柄な黒い影は平坦な口調で切り捨てる。
「ふぅん、それが君の魔術師としての姿なんだ」
アリシア・ハーヴェイは、彼の頭からつま先までをじっくりと眺める。
全身を漆黒の大外套で覆った少年がいた。今日はフードまで完璧に被って、まるで本当に死神が現れたかのような不気味さを放っている。
いつでも戦闘に移れるようにしているのか、彼からは微弱な魔力反応があった。恐らく、全身の魔力回路を活性化させつつあるのだろう。
だが、そうした威圧感をアリシアは柳に風と受け止める。
「まあ、あまり緊張しなくていいよ。別に、私は君と争いたいわけじゃないから」
「よく言うね」剣呑さを湛えたリュシアンの低い声が、吐き捨てるように言った。「あんたは、エルに呪詛を掛けた」
「ああ、それに怒っているのかい?」笑い飛ばすように、アリシアは続ける。「そうだね。その点に関して非は私にあるね。それは否定しないよ。君は男の子だからね、大切な女の子を傷つけられて怒るのは判る。その怒りは甘んじて受けよう」
うんうん、と女魔術師は捉えどころのない笑みと共に頷く。
「でも、この間も言ったけど、そのお姫様は君と同じくらい、君を想ってくれているのかな? 君たち魔導貴族の歴史を見てご覧。それは王族にとって都合のいい人材を繋ぎ止めておくための措置に過ぎない。君が王女と婚約を結ばされたのも、血という鎖でエスタークス伯爵家を王室に縛り付けておきたいって意向が見え見えじゃないか」
「……」
「君を自らの所有物と言い張るあのおぞましい精神構造の王女。それを、君は異常だと思わないのかい? もしそれがあの王女の愛情の示し方だとしたら、同じ女として言わせてもらうよ。そんな女とはさっさと別れた方が身のためさ」
そして魔女は話題を切り替えるように、手を打った。乾いた音が、廃墟に響く。
「さて、じゃあ、取引の時間だ。今はお互いがお互いの弱点を握り合っている状態だからね。まったく、困ったものさ」
そう言いつつも、アリシアは悠然とした調子を崩さない。
「私は議事堂爆破計画を君に知られている、君はあの王女が私の呪詛に蝕まれている」
「俺があんたたちの計画を、誰にも漏らしていないと思っているの?」
「まさか」肩をすくめて、アリシアは言う。「君はもう私たちの計画を官憲に伝えているだろうし、捕まった私の仲間が自白していないとも限らない。君をどうにかすれば計画は成功するなんて、思ってもいないさ。正直なところ、君と会うこと自体が身を危険に晒すことだとも思っている」
彼女の視線が、漆黒の装いのリュシアンを捉える。無邪気な色を湛えた目の中に、魔女の狡猾さを混ぜ込んで。
「でも、連絡を取ってきたのは君だ。つまり、あの呪詛は君にとって大きな弱点になっているわけだ。だったら、その弱点を利用しない手はない。敵の魔術師は一人でも少ない方がいいからね」
特に後ろめたさはなく、あっけらかんとアリシアは宣言する。
相手の弱点を突くことに、戸惑いを覚えない。それはまさしく、魔女に相応しい振る舞いだったろう。
「俺があんたを殺すために会おうとしているとは思わないの?」
剣呑な、しかし相変わらずのぶっきらぼうな口調でリュシアンの声は問いかける。こちらも、人殺しに躊躇いなど覚えていないかのような平静さであった。
「あっはっはっ! 魔術師にしては面白い冗談だね!」アリシアは腹を抱えて笑い出した。「君が私を殺す? 確かに、私を殺せば王女の呪詛は解除出来る。その可能性を私が考えていないとでも思っていた? ここは私の陣地、私が他の魔術師に対して優位に立てる場所だよ」
「あんたこそ、俺がわざわざ相手の魔術師の陣地に乗り込んできた意味が判ってるの?」
リュシアンの言葉に、脅す調子はない。ただ純粋に、事実確認をしようとしている口調であった。
「君は少し、私を舐めすぎだね」
年上の余裕を見せつけるようにアリシアは言い、ぱちんと両手を打ち鳴らす。
途端、廃墟の壁の影から十名ほどの人影が現われた。
「……」
フードに包まれた少年魔術師の頭部がかすかに動き、現われた人影を見回した。
「君が最初に見つけた私たちの拠点、あれは私が幻影魔術で偽装したものだ。幻影魔術は光学系のものもあるけれど、精神に影響を及ぼすものもある」
「ああ、あの五月蠅い声?」
数日前、幽霊屋敷にて無数の呪詛の声に襲われた事実を指摘する。
「そう。侵入者避けの術式だね。精神に影響を及ぼせる魔術は、こうやって人を操ることも出来る」
廃墟の二階に腰掛けたままの若き魔女は、階下の人々を手の平で示す。
「警邏中の警官に、浮浪者、酩酊者。夜の街を歩いていたのを適当に引っ張ってきたけど、どうかな?勅任魔導官の君から見て、私の術の具合は?」
まるで夢遊病者のような足取りで、様々な服装の人間たちがリュシアンを取り囲む。
「……何のつもり?」
詰問するような、険しい声がフードの下から発せられる。
「今は私の操り人形。彼らに一斉に襲いかかられたら、どうする?」試すように、アリシアは問う「君得意の火焔魔法で、一気に消し炭にするかい?」
「……」
“死神”とまで呼ばれる魔術師の少年は動かない。動けないのかもしれないと、アリシアは観察する。
「……なるほど、やっぱり君は私の思った通りの人物みたいだ」どこか嬉しそうに、女魔術師は微笑んだ。「君は無差別に人を殺せない。今まで非道な魔術師を始末してきたことからそうじゃないかと思っていたけど、その見立ては正しかったようだ」
「だから?」
鬱陶しそうに、迷惑そうに、リュシアンは低く尋ねる。
「君が欲しい」すっと、アリシアは手を差し伸べる。「私に協力して欲しいんだ」
「何言ってんの?」
抑揚に乏しい声には、しかし相手の正気を疑うような冷たさが混じっていた。
「例えば、今、君の目の前にいる人たちの多くは、昼間は労働者として働いている。そう、ロンダリアという国家の発展は、彼らのような労働者によって支えられているんだ。国家の発展。言葉だけを聞けば素晴らしいものだよ。だけど、その恩恵に与れているのは一握りの資本家と王侯貴族たちだけ。多くの平民が豊かさとは程遠い生活をして、そして資本家たちによって馬車馬のように働かされている。そして、それに異を唱える人間は反体制派として容赦なく連行される。これが、正常な国家のあり方だと思うのかい?」
「……あんたが言う正常な国家って、何なの?」
胡乱げな口調で、リュシアンは問いかける。
「みんなが平等に暮らせる国。一人一人が自分の生きたいように生きられる国。それが、私にとってのあるべき国家の姿」
「ユートピアだね」
そう、黒衣の魔術師は皮肉った。
ユートピア。それは、「どこにもない場所」を意味する造語である。そして、この言葉を作った思想家が示した理想の国家像は、徹底的に国民を管理する非人間的な社会であった。だからこそ、彼の皮肉は強烈だった。
「君だって、そう思ったことはないのかい? 魔導貴族として生まれて、魔術師となることを強制され、王女との望まない結婚を強いられる。自由な生き方に憧れたことはないのかな?」
だが、そうした皮肉を受けてもアリシアは揺るがない。
「別に、俺は自由や平等を否定する気はないよ。でも、それを押し付けた結果がルーシーの今なんじゃないの?」
共産主義に基づいた革命によって帝政を打ち倒したルーシー連邦。だが、それですべてのルーシー国民が平等に豊かな生活を送れるようになったかといえば、違う。
革命成功後も、革命政府内部での派閥抗争によって激しい粛清が行われ、革命軍維持のために自国農民から容赦ない収奪を行って強引に軍事力を強化しようとしている。さらに計画経済に基づく工業化を行うため、多くの国民が工場に動員された結果、農村地方の人口が流出。
こうしたことが重なり、農村部では凄まじい飢餓が発生。他国の情報なので詳細は不明だが、数百万人にも及ぶ餓死者を出したと言われている。
そうした「国民全員を平等で豊かにする」という名目で行われる革命政府の政策を批判すれば、「反革命分子」として容赦ない粛清が待ち構えている。
「理想の国家だって、タダで出来上がるわけじゃないんだから。国民が一致団結して試練を乗り越えた先に、本当の理想国家があるんだよ」
「だから、無差別テロも正しいってこと?」
「王侯貴族や資本家が人民を搾取し続ける未来が永遠に続くよりも、一時の流血でそのあり方を変えて、本当に人民のためになる政府を樹立する方が建設的だと思うけど」
アリシアにとって、それが大義なのだ。そして、一度流血を起こした以上、それに見合う成果を挙げなければ犠牲が無駄になると考えている。流した血に報いるために、さらなる血を流してでも革命運動を継続する。
それが、彼女にとっての信念であった。
「それにリュシアン、君は私と同じ人間だと思うけど」
「……」
「君は今まで、何人の魔術師を殺してきたんだい? その流血によって、その他の大勢の人間が救えると考えたから、君は流血に賛同したんじゃないのかな?」
「……」
「君にだって、信念はあるだろう。それがどうして、私の信念と相容れないのかな? むしろ、君と私とは似たもの同士だと思うけど」
優しく子供を諭すように、アリシアは言う。革命の同志として、リュシアンが欲しい。あるいは、幼くして人殺しを覚えてしまった彼に対する憐憫が、アリシアの中にあるのかもしれない。
それは同時に、彼を今のようにしてしまったロンダリア連合王国とその王室に対する怒りと嫌悪であった。
アリシア・ハーヴェイにとって、リュシアン・エスタークスもまた体制の犠牲者なのだ。
「俺があんたに協力するって、本気で思っているの?」
「そこは私の努力次第だね。私の言葉がどれだけ君に響くか、それにかかっていると思っているよ」
「……」
その沈黙は彼女の正気を疑ってのものだったが、アリシアは気付かない。
「君が欲しいといっても、私はあの傲慢な王女のように君を支配したいわけじゃない。協力者として、この国を変えるために一緒に戦って欲しいんだ。もし私があの王女のように君を支配しようとしているんじゃないかと疑っているようなら、契約を交わしてもいい。魔術師同士が結ぶ、魂すら束縛する契約だ。これなら、君も安心出来るだろう?」
「……」
「契約の対価として私が君に求めているのは、そういうことだけさ。一緒に戦う。それだけでいい。逆に私は対価として、君が君らしく生きていけるよう手を差し伸べる」
「俺が俺らしくって、あんたに俺の何が判るの?」
苛立ちの混ざった、リュシアンの声。
「私に判るわけがないじゃないか。そういうのは、自分で探していくものだよ。少なくとも、今の君の状態が健全じゃないことだけは確かだ。私は君を伯爵家から、国家から、王女から解放してあげる。その上で、リュシアン・エスタークスという少年が自分自身の進むべき道を見つけられるよう、協力してあげる。私と君は共に理想の未来へ向けて共闘するんだ。契約内容としては実に甘美な内容じゃないか」
「あんたも、結局、俺を利用したいだけでしょ?」
失望でも怒りでも、ましてや諦観でもなく、ただただ突き放すような断絶を感じられるリュシアンの声。
「う~ん、私をあのお姫様の同類扱いかぁ」アリシアの目が不快そうに細められる。「私の誠意の示し方が足りなかったのかな?」
パチン、と彼女は指を鳴らした。それを合図に、彼女に精神支配された人たちが動き出そうとする。
黒衣の影がわずかに腰を落とし、剣を抜くような仕草を見せた刹那---一人の肉体が爆ぜた。
警官だった男の肉体が無残に崩れ落ちる。吹き出した血がまるで腕のように幾本も大外套に包まれた少年の体へと伸び、そして締め付けた。
「ぐっ……!」
たたらを踏んだ少年は数歩後ずさり、片膝をついて蹲った。フードの下から、苦痛に耐える荒い息が漏れる。
「流石は勅任魔導官」その様子に、感嘆の声をアリシアは上げた。「人間の命一つ生け贄に捧げる呪詛なんて、常人なら即死もの、並みの魔術師でも耐えられる人間なんてほとんどいなはずなのに、痛がる程度で済むなんて」
「貴様……っ!」
「そう怖い声を出さないでって」
すとん、とアリシアは二階部分から飛び降りて着地する。
「さて、あと十二人残っている。君はどこまで耐えられるかな?」
一人の命を消費しておきながら、彼女は何ら痛痒を感じている様子はなく、ただリュシアンを試すような楽しげな目で見下ろしている。
「私と契約したくなったら、いつでも言ってくれていいからね」
そう言って、また一人の肉体が爆ぜた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
消防隊が駆けつけた時には、すでに火はヴェナリア料理店全体を包んでいた。
集まった野次馬たちを追い返しつつ、王都消防隊は懸命の消火作業と延焼防止に努めた。
とはいえ、火災の規模はそれほど大きくはなく、通報自体も火災発生の直後に行われたため、周辺の建物へ延焼するような事態は辛うじて避けられた。
日付が変わる前までに火は消し止められ、野次馬たちも三々五々と散らばっていく。
王都の一角で発生した夜間の火災は、多くの人々に省みられることなく、たまに発生する火事の一つとして処理された。
例え、地下倉庫で複数の遺体が発見されても、事件性がなければ一般市民の多くは死者を数字としか認識しないのだ。
「例のヴェナリア料理店で火災があり、地下倉庫から遺体が発見されただと?」
夜更けに部下からの報告を受けた王室機密情報局局長ハリー・ファーガソン准将は、訝しげに尋ねた。
「消防隊からの情報ですので、確実かと。遺体も、ヴェナリア情報調査局による偽装工作の一環でしょうか?」
「何を暢気なことを言っているのだ、貴様は?」大柄な諜報官は、ぎろりと部下を睨み付ける。「我々は連中の拠点を盗聴しておったのだぞ。火事の偽装はともかく、遺体の準備など連中は言っていなかったではないか」
「では、一体……?」
困惑する部下を前に、ファーガソンは不機嫌そうに顔を歪めた。
外務省が情報調査局の動向を把握している可能性は、ヴェナリア執政府情報調査局の拠点を盗聴していたファーガソンら機密情報局は把握している。しかし、問題は外務省がどのようにして、その情報を手に入れたのかということだ。
だが、これで確信が持てた。
「リュシアンの奴め、やってくれる……!」
ファーガソンの悔しげな呻きが、部屋の中に低く響いた。




