源頼義、常州筑波郡大領郡司を拝命するの事
一組の男女を乗せた軍馬が山道を駆けて行く。
常陸国筑波山の南嶺に広がる丘陵地帯は「夫女ヶ原」と呼ばれ、古くから近隣の人々の憩いの場となっていた。眼前に筑波の大山を臨むこの地では春と秋にその年の豊作を祈り、収穫を祝う「嬥歌」と呼ばれる祭りが行われる。それぞれに食べ物や飲み物を持ち寄り、一日中歌や踊りを楽しむおおらかなこの集まりは地元の民のみならず近隣諸国の人々も参加しての華やかな「ハレ」の舞台であったという。
「筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも、か……」
馬上の二人の男女のうち、前に乗っている方の少女が何事か呟いた。盲目の少女は自らは手綱を取ることはなく、後ろに乗る大男に任せてその大きな体に自分を預けている。大男の方は少女の呟きにさして関心も無さげなようで、
「ああん?」
とだけ言った。
「いえ、万葉集の歌に筑波のお山を歌ったものがあったなあと思い出して。ふふ、この辺りは蚕を飼って絹糸を繰るのが盛んなんですって」
「なんだお前、読んだ本の内容をいちいち覚えてやがるのか?変わったヤツだ」
男が驚いたような呆れたような顔をして答える。覚えなければ何のために本を読むのだろうと盲目の少女は不思議がったが、この男の野生の理屈に一々問答していても仕方がないことはこの数年で嫌という程良く分かっていた。
(もう一年か。なんと時の経つことの早いものよ……)
そう思って盲目の少女……源頼義は浅くため息をついた。
遡る事一年半前、頼義は従者である坂田金平を率いて、父である常陸介源頼信の記した国解を太政官府に届けるために常陸国から京の都まで上った。国解とは官人が朝廷に提出する正式な報告書である。その先年坂東八州を舞台に広がった上総介平忠常と近隣諸国との紛争の顛末を事細かに認められた報告書を無事朝廷に提出をすませると、それを受け取った左大臣藤原道長卿より唐突に、
「式部省へ顔を出せ」
と言われ、何の事かわからずにとりあえず式部省に赴くと、そこで式部丞らしき人物と何やら面談らしき事を行い、その帰りにぽん、とこれまた何やら知らぬ書状を一巻き手渡され、何が何やらわからぬまま帰宅してその書状を金平に読んでもらったところ、なんとそれは常陸国郡司の任命書だった。
確かに地方官吏である郡司の就任には推薦者の書状と式部省の面接が必要ではあったが、先程頼義が受けた面談は「登用試験」というよりはただの茶飲み話程度に過ぎなかった。それだけでこのような重職を簡単に任命する道長も道長だが、それをあっさりと受理する式部省も式部省である。それだけ左大臣としての道長の影響力が強いのか、それとも式部省がちゃらんぽらんなのか知らないが、頼義は事のイイカゲンさに呆れかえってしまった。
律令制度下において、国土は四十余州の「国」に分けられ、各国はさらに「郡」という行政単位に区画される。郡司はその「郡」の長官であり、現代で言えば「市長」に相当する重要な役職である。郡司はさらに「四等官」という四段階の役職に分けられるのだが、頼義はその中でも最高位の「大領」に任命されていた。
(道長どのもムチャ言うなあ……)
成人したとは言えまだ十六かそこらの、しかも女性である自分にこのような大役を押し付けて、果たして地元の官吏たちの反応はいかがなものかと頼義は少し不安になってきた。
国元に戻り父に郡司任命の件を報告すると、父は驚きもせずに平然と空きがある筑波郡の郡司に就くようにその場で号令した。どうやら父もこの事をすでに織り込み済みだったようである。というかこの人が企んだんじゃないのかと頼義は少しく父を恨めしく思った。
役所の任に着けば今までのように自由に振舞って「鬼狩り」としての職務を果たせまい。忠常率いる鬼の軍勢は鳴りを潜めたものの、まだこの坂東には民を脅かす悪鬼羅刹の類は後を絶たない。頼義はそうした「鬼」達を平定するためにこの地にいるのだ。少なくとも彼女はそう自負していた。それをこのように足枷をはめられては思うようには行動できない。父はこうして事務仕事に縛り付けることで我が子を「鬼狩り」などという危険な職務から遠ざけようと画策したのではないか。頼義はそんな風に父を疑っていた。
しかし実際に郡司としての職務についてみると、意外なほどにその職務は軽かった。正直いうと「ヒマ」だった。
律令制度が強固だった時代に比べ、今は地方の行政は全て「在庁官人」と呼ばれる人たちに任され切っていた。地方の有力者から選ばれた彼らは、国司から郡の徴税権などを委託され、国司に変わってその職務を直接代行していた。国司にとっても自分の息のかかった人物に職務を任せられ、また彼らも律令制下では同族の者は同じ郡で役に就けないと決められているところを自分の親族で固めることができるというメリットもあり、このような律令制から外れた行政制度は地方において急速に広まりつつあった。この支配体制がのちに地方の武士団を形成していくきっかけになるのだが、その影響で本来の律令制度下にある郡司たちの権限は次第に有名無実化して行き、その実権は年を追うごとに縮小していった。
そのような背景もあり、郡司として就任した後も頼義は金平を率いて常陸国中を歩いて回り、その実情をつぶさに観察してきた。この一年余りで二人は国内のほとんどの地域を見て回った。
その巡察行脚から筑波郡の郡衙(庁舎)に戻ってきた時、ちょうど地元の者からの訴状が届いた。
なんでも、筑波山の麓に何者かが他所から流れて来て、周囲の村を荒らして回っているという。その姿を誰も目にしたことが無く、わずかに聞き取れる会話だけが手がかりであったが、その言葉もまた本朝のものとは全く相通じぬものであったとの報告だった。しかも、その連中は風のように現れ、風のように去っていくという。
まるで手がかりの掴めぬ蛮族の横行に、村の者たちは皆して
「佐伯じゃ、山の佐伯の仕業じゃ」
とただただ恐れおののいているだけだった。