少女と少年の時計
それは、一目惚れだった。まさか実際にそんなことが有り得るとは思わず、だけれど実際にあったのだからそうなのだろうと納得した。まさに未知の経験。テレビの中でしか聞かない現象が、自分を襲うだなんて、全く予想しなかった。
しかしそれよりも、だ。
一目惚れをすると、恋をすると、人は変わってしまうらしい。
平凡だった風景が、急に色づいて見える。四六時中、好きな人のことについて考える。少しでも自分がよく見えるように、身だしなみだとか、性格だとか、悪い所を直して格好つけるようになる。
恋って、不思議だ。
今まで感じていたことが、全て真逆になって感じる。自分が自分じゃなくなる。ちょっとだけ臆病になって、そしてまた冒険に出る。
そんな不思議な現象に、少年は罹ってしまった。
初めて出会ったのは中学一年生の時だ。
片田舎の町でのどかに、だけど何処か退屈に過ごしていた少年は、外によく出歩く子だった。毎日面白い事を探しては、それを放り投げ、もっと刺激的なものを求めて彷徨った。
外に出れば近所の人が必ず挨拶してくるし、お店の人は食べ物をお裾分けしてくれる。散歩中のポチは、ご主人様よりも少年の方に懐いてしまうくらい、彼は頻繁に出没し、田舎の町で可愛がられていた。
そんな少年のマイブームは釣りだった。
川のほとりで、ただ一人優雅に過ごすそのマイブームは、周囲からどれだけおじさん臭いと言われても、飽きなかった。
なんたって、大きい魚が釣れた時の達成感は今までにないくらい、充実したものだったのだ。小魚をたくさん釣るのもいい。バケツいっぱいに小魚を泳がせて、眺めるのはとても楽しい。だけど、大きな魚を釣り上げた時の感動は、そんなものではなかった。
例えるなら、必死に練習して、運動会のかけっこで一位を取ったあの時と似ている。足の遅い自分が、毎日両親に見てほしいと練習した成果があげられた時のような。そんな感動が、釣りで満たされていた。
だから、その日も少年は学校帰りに釣りに興じて、バケツの中を満たしていた。
手慣れた様子で釣竿に餌をつけて、川にぽちゃん、と投げ入れる。しばらくじっと待つ。その繰り返しが、今日も行われるかと思いきや、その日は違った。
突然後ろから声がしたのだ。
「わあ、いっぱい釣れたのね」
少年はびっくりして釣竿を落としてしまい、慌てて拾った。そして後ろを振り返って、何だなんだとその声の主を探す。
すると、そこには美少女が立っていた。
肩まで伸ばしたストレートの髪は、艶があって綺麗だ。夕日に照らされた肌はそれでも白い事が分かるほど、透けている。大きな目は、きらきらと輝き、唇はぷっくりと膨らんで可愛らしい。全体的に線が細く、華奢で、気づいたら消えてしまいそうな少女だった。
セーラー服を着ているあたり、歳は近いと思う。だけど、何処の学校なのかは分からない。少年よりも落ち着いた雰囲気は、高校生くらいに見えた。
「あれ、なんで答えてくれないの?もしかして、邪魔だった?」
落ち着いた、それでいて人に安心感を与える声で少女は言う。少年はしばし少女を凝視して、やがてハッとなったように首を振った。その頬が少しだけ赤い事は、夕日意外知らない。
「そ、そんなことない。大丈夫」
「そっか、それなら良かった。ねえ、最近よくここにいるよね?毎日釣りをしているの?」
「うん。趣味なんだ」
「へえ……ねえ、良かったら私に教えてくれない?私も、釣りしてみたいな」
そう言って、花のように笑う彼女はまるで天使のようで。
少年は、すっかり心を奪われてしまったのだ。
それから少女は毎日川のほとりにやってきて、少年と釣りをした。少年は張り切って釣りを教え、釣れなければ自分の魚をあげる、少女が釣れれば自分の事のように喜ぶ、といった日々を送る。そうして二人で過ごす日々は、なるほど田舎の町には似つかわしくないほどの刺激的な日々だった。
彼女によく思われたいがために何度も髪を直したり、頻繁に靴を磨いたり、筋肉をつけてみたり。たかだか一緒に釣りをするだけだというのに、少年は少女にカッコいいい自分を見せたがった。
少女はそんな少年の事などつゆ知らず、ただひたすらに釣りを楽しんだ。餌に引っかかるまでの時間は、二人だけの時間。二人は様々な事を話して、楽しそうに笑いあった。
季節によって泳ぐ魚は変わり、それがまた二人に会話を弾ませる。
「来年は、この魚を君よりもいっぱい釣ってやるんだから!」
「楽しみにしてるよ。それよりも、明日は少し別の場所で釣らない?」
「いいよ、何処に行こうか」
そんな具合に二人は交流を深め、信頼関係を築いた。
少年はその間に惚れて惚れて惚れぬいて、少女の事が片時も頭から離れないくらい、恋というものを知った。
そうして、中学生の三年間を粛々と過ごす。
少女は予想通り、高校生らしい。だが同じ高校に通いたいがために受験先をそこにしようと聞いてみたが、教えてはくれない。少女の事が好きで、何もかもを知りたくて、自分も何もかもをさらけ出そうと思っていた少年は、しかし彼女の事を知っているようで何も知らなかった。
そうして少年は、高校生になる。
高校は、少しでも世界を知るために都会にある場所を選んだ。あまり頭が良くないのは分かっているものの、必死に勉強して、少女にいい高校に行けたんだということを自慢したくて、結局少女に見合う男になりたくて。
華々しく入学した。
少女はすでに高校を卒業しているだろう。何も教えてくれない少女の事について、軽い予想をつけて何度も現実を見てきた少年は、高校の入学式の帰り、初めて少女の私服を見る。
可愛らしい真っ白なブラウス。ひらひら揺れるピンクのスカート。スカートから覗く、白い足と、女子力満点のサンダル。
美少女の彼女は、少し気恥しそうに笑って、少年に駆け寄る。
「私は今日から大学生。……君は?」
「高校生、だよ」
「なら二人にとって、大事な日だね」
釣り以外で、初めて知った彼女のこと。彼女は今、大学生。少年は、高校生。三歳差。それと、服のセンスがいい。
たった、それだけのこと。だけど、三年間一緒に過ごして、それだけのことが知れて。
少年は飛び上がるほど嬉しかった。
そして、少年は前々から決めていたことを、その日、実行することにした。
「ね、真面目に聞いてね」
「うん、どうしたの?」
「あなたが好きです。付き合ってください」
「…………ちょ、ちょっと、待って」
一世一代の告白だった。一目惚れして、三年間釣りをして彼女を更に好きになっていって、少年は彼女と結ばれたいと考えた。そして、想いを告げた。
少女は真っ赤な顔をして掌で顔を覆っていた。しゃがんで、ぷるぷると身体を小刻みに震わせた。
少年も真っ赤な顔をして返事を待つ。今か今かと、少女を見つめて。
やがて少女が上目遣いに少年を見上げて、口を開いたとき。
きっと、それは少年が人生で一番嬉しかった事に違いない。
「よろしくお願いします」
何も変わらない少女の笑顔を見て、少年は大切にすると誓った。
そう、何も変わらないままで。
それからは毎日があっという間に過ぎた。恋人関係になってから、少年と少女は更に仲を深めて、いろいろな事をした。
夏祭り、クリスマス、大晦日、バレンタイン。イベントは山のようにあって、毎日毎日飽きもせずに二人は話をして、子供のようにはしゃいで楽しんだ。
だけど、少年はふと気づく。
中学の時と比べて、大きく変わった身体を見ながら、少女を思い浮かべて、少しだけ違和感を感じた。
少女は、何も変わっていないように見えたのだ。
もちろん、女性は男性より成長が早い分、すぐに成長を止める。代わりに男性は中学生頃から目覚ましい成長を遂げて、大きな体を持つ。
だから、そこまで気にするほどでもないのだけれど。
少女は一度も髪を切った話をしないし、何より高校生の頃と何一つ見た目が変わっていない気がした。
だが、付き合って何年も経った今でも、自分の事を話したがらない少女の事を考えれば、こっそりそういったケアをしているのかもしれない。
少年は一人でにそう思い直すと、気にするのはやめた。
しかし、それも不安に変わる。
少年が少年じゃなくなり、成人男性と成長した二十代半ば頃に、彼は就職をした。大手企業の事務に入り、サラリーマンとして四苦八苦しながら働いている。
そんな中、少女は女性らしさを兼ね備えた美しい人になっているか――、と言われればそうでもなかった。
少女は、少女のままだった。
いつも通り、自分の事を何一つ明かさないままで恋人関係を続けて、少年がその不安に気付くのは当然の帰結と思えた。
何も話してくれない少女は、ただただ美しい、あの川のほとりで出会った姿のまま、少年に寄り添っているのだ。
それで可笑しさを覚えないほうが可笑しいというもの。
疑問を覚え始めた少年は、しかし変わらぬ少女への愛を武器に、一歩を踏み出すことをした。
「聞きたいことがあるんだ」
休日、あの日で会った川のほとりにて。何も知らなかったあの頃に戻らないように、久々に釣りをしながら、少年は、真剣な顔をして、聞いた。
「君は、何かを隠しているよね。それは、僕には話してくれないの?」
少女はしばし何を言われたのか分からないように目を瞬かせ、そして少年の顔を凝視した。髭も生え始め、少しずつ老け始めた愛しい彼の存在を。
そして、酷く言いづらそうに、少女は、言った。
「どうして、そんなことを言うの?」
「……君の見た目が、全く変わっていないから、かな。それと、こんなに何年も一緒に居るのに、僕は君の事をほとんど知らないんだ。これじゃ、結婚を申し込みたくても出来ないよ」
冗談交じりに言ったつもりなのに、少女はそれを聞いて、顔を俯かせた。いつの間にか餌に魚が食いついていることにも気づかず、ただただ、押し黙った。
やがて魚が逃げ出したころ、ようやく少女は口を開く。
「私ね、成長しないの」
それは、淡々とした口調だった。まるで明日の天気を話すかのように、何でもないように。
少年は少しだけ少女の顔を見て、そしてもはや動かないであろう釣竿を取り上げた。そして、努めて冷静に問いかけた。
「……病気?」
「まさか。全然元気。そういう、医学的なものじゃなくて、ね」
少女は取り上げられた釣竿を見つめ、そして少年の持つ釣竿を取り上げて垂らす。餌を取り付けて、魚が釣れるのを待つ。
そんな時間が、何よりも愛おしかった。
なのに。
「魔法、みたいな?私、過去にショックな出来事があって。それで、気づいたら、成長しなくなってた。なんかね、私が思うに、私の時計は止まっちゃったんじゃないかなって」
「時計?」
「そう。みんなそれぞれ、自分の中に時計を持ってるの。どんなに辛い事があっても、嬉しい事があっても、人間の感情一つでその人の時間を止めてしまわないように、時計はその人を進ませてくれる、そういうのを、持ってるんだよ」
「だけど君は止まった?」
「そう。……どうしてか、止まっちゃった。私の時計は、電池が切れちゃったのかも。あまりにもショックすぎて、壊しちゃったのかも。気づいたら、もう五十年もこの姿のままなんだ」
にわかには信じがたい話だった。だが、それでも信じるしかなかった。
なんたって、十年一緒に過ごしているのに何一つ変わっていない彼女が目の前に居るのだから。
「だから、さ」
それよりも、だ。
少年にとって、少女のその後の言葉の方が信じられなかった。
信じたくなかった。
だって。
「私と、別れよう」
そんなこと、言われたら。
誰だって、信じられないじゃないか。
真実を明かしたその次の日から、少女は姿を消した。
ずっと慣れ親しんだ田舎から、彼女の姿が消えて、少年は驚き、焦った。
いきなり消えた最愛の人。時間が止まってしまった少女。
彼女はきっと、五十年もの間、一人ぼっちで寂しい思いをしながら生きていたに違いない。だというのに、その寂しさを再び求めるように消えてしまった。
正体を知られてしまったからには、一緒に居られません。
まるで、雪女の話のような、現実。
だけど、少年はそれで終わりにする気はなかった。
十代の後半から、今まで。ずっと、彼女と過ごしてきたのだ。
彼女に惚れて、彼女を幸せにして、彼女と生きたいと誓ったのだ。
だから、諦めない。
少年は、少女を探すことにする。
仕事をしながら、ほうぼうを探し回り、必死になった。
職場を転々とし、愛した故郷を離れ、一人で都会を渡り歩いた。
知らない町、知らない人々。
酷ければ人が全くいないであろう場所にも向かった。
だけど、見つからない。
見つからない。
途方に暮れた、三十代後半。彼女を探し始めて、十年。
そんな時、とある噂を耳にするようになった。
故郷の田舎町で、美しい少女が時折釣りを嗜んでいるという。
まさか、と少年は耳を疑った。逃げるように消えた少女が、あの町に戻るなんて思えない。
だけど、その噂を見逃せるほど、少年は少年ではなくなっていた。
あらゆる可能性を潰していく、大人の考え方。
それを駆使して、少年は、あの川のほとりに舞い戻って来た。
そして、見つけるのだ。
最愛の少女を。
「見つけた」
「……なんで。遠くに行ったんじゃ」
「君が居ると聞いて、戻って来たんだ」
「どうして?どうして私のために、そこまでするの?私を探して遠くの地へ行ったんでしょ?そんなこと、しなくたって……!」
「君が好きだから」
その言葉に、少女は泣きそうな顔を浮かべた。
どうしようもないくらいに、肩を震わせて、何かを言いたげに。
そこまで真摯になってくれる彼から、離れたくなくて。
「私を好きになっても、一緒に居ても。貴方は一人で一生を終えてしまうんだよ……」
「うん」
「私は、貴方と一緒に歳を取れないんだよ……」
「うん」
「私を探して、十年を無駄に過ごしてしまったんだよ……」
「それは違う」
きっぱりと言い切った少年は、剃ったばかりの顎を撫でて、少女と目を合わせる。
「無駄なんかじゃない。君を探す十年は、君と過ごした日々と一緒で、とてもかけがえのないものだった」
「どうして」
「だって、最愛の人のために動けるなんて、幸せ以外の何物でもないだろ?」
だから。
少年は、ポケットから小さな箱を取り出して、中身を少女にせる。中で輝くのはシルバーリング。ベタかな、と思ったけど。やっぱりこれが一番いいと信じて。
「僕と結婚してください。僕は、貴方と生きたい」
プロポーズをした。
少女はみるみるうちに目に涙をためて、それが零れないように必死にこらえた。そして少年の、もう少年ではない顔を見つめて頷いた。
「私で、よければ。……お願いします」
それは、いつかの日に似ていた。川のほとりで、節目を迎えた二人が、恋人になる、あの日に。
何も変わらない少女と、何も知らない少年の二人が、出会ったあの日に。
夕日に照らされて、二人は抱きしめあう。一生離さない、とでもいう様に。時計の針を動かすかのように、少年は、大人びていく少女の背中をぎゅっと抱き締めた。
華奢で、美しくて、だけどしわが少しだけ見えたその顔に額をコツン、と当てた。
君は、気づいているかな。
もう、時計が直ったことに。
そうして少女は、少年と時計を動かしたのでした。