スキのカタチ (7)
「サユリさん、水泳の方はまだ続けるつもりなの?」
お母さまの声には何の感情も乗っていない。怒るのでもなく、責めるのでもなく。ただ淡々と事実を確認している。それは判っている。判ってはいるが、その言葉はちくちくとサユリの胸に刺さってくる。
続けるつもりです。泳ぐことが出来る限りは。
水の中にいる時、サユリは全てから解放されて、自由になれる気がした。全身を覆う冷たく滑らかな感触は、優しく抱き締めてくれる逞しい両腕。気を許せばすぐにでも体の中に侵入しようとして来る、性急な唇。「だめよ」とつぶやくように息を吐くと、生きるための拒絶は泡となって水面へと消える。
そうだ、水に抱かれているのだ。水から求められるままに、飛び込んでいく。ざん、という音と白い飛沫が、サユリの身体を受け入れる。またここに来てしまった。冷たい感触が身体を撫でる。手指の隙間にまで入り込む、愛おしくもくすぐったい流れ。
最初にそう感じたのがいつなのか、良く覚えていない。身体の外が全て満たされている感覚というものに、サユリは幼い頃から魅せられた。自分が余すところなく何かの中に取り込まれることが、とても心地よかった。
しかも、動けない訳ではない。抱かれていても、四肢は好きなように動かせる。されるがままにかき分けられ、かき混ぜられる、サユリの思う通りに、サユリの身体は水の中を滅茶苦茶に出来る。
自由だった。束縛されつつも自由。それが素晴らしく楽しかった。水はサユリの恋人。受け入れ、取り込み、溺れさせようとしてくるところを、時に優しく、時に厳しくあしらって、文字通り泳いでいく。
色々な習い事をさせられた。性に合うもの、合わないもの、楽しいもの、楽しくないもの、とにかく色々なことをさせられた。試してみた。うまく出来ることも、全く出来ないこともあった。
ただ、胸を張って好きだと言えるものは、水泳以外には無かった。水に抱かれて泳ぐことは、サユリにとっては逢瀬だった。プールに行くことは、恋人との甘いひと時だった。
「サユリさん、水泳の方はまだ続けるつもりなの?」
好きであることと、才能を示すことは別なことだ。下手の横好き。いや、サユリにしてみれば速く泳ぐことに興味などまるで無かった。水の中を進むことは、彼女の自由の証であり、愛の語らいだった。
時間も、お金も、サユリにとってはいくらかけても惜しみの無いものだった。ただ、それがお母さまにとってはどうか、ということだ。結果の出ない習い事に、一体どんな意味が、価値があるというのか。
お母さまは結果を求める人だ。数々の習い事の遍歴も、サユリの可能性を知るためのものだった。お母さまが興味があるのは、サユリが「うまく出来るもの」であって、「愛するもの」ではない。こんなことのためにコストをかけるサユリのことを、お母さまはどのように見ているのだろうか。
好きなんです。この一言で済ませられるなら良かっただろう。サユリの家は、残念ながらそんなに甘い家庭ではない。サユリ自身、結果を出すことにこだわりが無い訳ではない。このままではいけない。愛に溺れるだけでは、何にもならない。
いっそのこと、本当に溺れてしまおうかと考えたこともある。全部を受け入れてしまうだけだ。伸ばされてくる手を拒絶せず、身体の中に入ってくるのに任せてしまえばいい。肺の中まで満たされて、きっとサユリは水と一つになれる。水面の向こうにキラキラと光る天井の明かりを見つめながら、窒息の快楽と共に沈んでいければ。
冷たいプールの底で、水の言葉に耳を傾ける。サユリを、受け入れてくれるだろうか。押しつぶしてくれるだろうか。溶けて一つになってくれるだろうか。耳鳴りしかしない。水はきっと言葉を持っていない。
水の中で命を散らす考えは、残念ながらあまり現実味を帯びなかった。サユリには、失うものが多すぎた。生きることはあまりにも魅力的だった。どんなに好きでも、命を懸けるほどのものではないのかと、少し寂しくなった。
お母さまに反抗して、仮初の自由を得たと錯覚するためだけの行為に過ぎないのか。そう思ってなお、サユリは泳ぐことから離れられない。どうしてだろう。もう、身体が覚えてしまって、忘れられないのかもしれない。
「サユリさん、水泳の方はまだ続けるつもりなの?」
はい。申し訳ありません、お母さま。
お母さまは別に怒ってはいない。多分、サユリのことが理解出来ないのだ。サユリ自身、よく判っているはず。無駄なことをしている時間など無い、と。やるべきことは他にいくらでもある。結果の出ないことに囚われていても、何も得ることは出来ない。
この気持ちをどう言葉にすれば良いのか、サユリはいつも迷う。「好きだ」それだけで良いのかもしれない。でも、その想いは何なのだろう。この想いを持って、貫いて、その先に何があるのだろう。何もない。果てしない自己満足だけしか、そこには無い。
上手くならないことをいつまでも続けていても仕方が無い。水泳教室をやめる子がそう言っていた。正しい判断だろう。自分の他の可能性を探すことは、間違いではない。下手なことを下手なまま繰り返すことに、意味なんてきっとない。
自分のことを好きになってくれない相手を、いつまでも好きでいて何になる。どんなに愛しても届かない、言葉も返らない。そんな相手に、恋焦がれてどうするというのか。悲しいだけだ。切ないだけだ。諦めることが一番だ。じゃあ、どうやって諦めればいい。どうやって忘れればいい。今でもすぐそこにいて、求めずにはいられないのに。
水の中に入る。身体が軽くなる。手足を動かすと、流れが出来る。流れに乗って、進む。身体が自在に運ばれる。その感覚が、たまらなく心地よい。サユリを包み、望む場所へと連れて行ってくれる。サユリの意思を酌んで、水は、泳ぎはサユリに自由をくれる。
水は、サユリに結果を求めない。サユリにとっては、それはあってはならないこと。大切なのは結果だ。何も得ることなく快楽に溺れるのは、堕落でしかない。サユリにとっては許されない。サユリがサユリであるために、お母さまの望むサユリ、家の求めるサユリであるために。
強くならなければならない。
「サユリさん、水泳の方はまだ続けるつもりなの?」
はい、お母さま。泳ぐことが出来る限りは。
サユリの手足が動く限りは。サユリの身体が水を求める限りは。
嫌われることは難しい。水は、水泳は、サユリのことなんて特に何とも思ってはいない。この感情は常に一方的だ。サユリの片想い。ただひたすらに、サユリが求めているだけ。
ならば、愛せなくなってしまえばどうだろうか。求めることが出来なくなればどうだろうか。手を伸ばすことすら出来なくなってしまえば、諦めざるを得なくなるのではないか。
だから、サユリは自分を呪った。自身に呪いをかけた。愛せない身体にしてください。好きであると求める自分を、戒めてください。サユリにとって、この気持ちは毒にしかならないのです。
これは、サユリの意志。サユリの望み。サユリの願い。
好きであることを止められないのなら、好きでいられなくしてください。好きでいてはいけないと、この身体に刻み込んでください。サユリは、自分が堕落していくことを、自分では止めることが出来ないから。
泳ぐ。水に抱かれる。快楽と共に、命もまた一緒に溺れる。
死んでしまうのなら、それでもいい。その時は、この愛が本物であったと、そう思える。
諦めるのなら、それでもいい。その時は、ようやく何の役にも立たないことから足を洗えたと、そう思える。
これでいいんだ。お母さま、これでいいんですよね?サユリは、お母さまのために自らの首を自らの手で締め上げます。大丈夫です。安心してください。どのような形であれ、きっと。
もう、水泳を続けることは出来ません。
サユリの後ろに、もう一人のサユリがいる。苦しそうな顔で、サユリを羽交い絞めにしている。足元をすくい、腕を引っ張り、首を絞める。間違いなく、サユリ自身を傷つけようとする、サユリ自身の意思だ。
ヒナは、なるべく友達の心の中を見ないようにしてきた。何かおかしいと思っても、そこに目を向けないようにしてきた。だから、実際にサユリのこんな姿を眼前にして、胸の奥がずきずきと痛んだ。これが、今まで気付かないふりをしてきた、ヒナの友達、サユリの本当の姿。サユリの苦しみ。
それは、持っていてはいけない苦しみだ。
自分に厳しいサユリだからこそ、こんな呪いを背負ってしまったのだろう。自分に刻み付けてしまったのだろう。役に立たないものなど必要ないと、切り捨てる覚悟を持つが故の苦しみなのだろう。
でも、それはダメだ。ヒナは、そんな痛みを背負うことは間違っていると思う。
「私は、ヒナがうらやましい」
サユリ、いいんだよ。そこまでして自分を追い込まなくても良いんだ。
「ヒナは、いつも真っ直ぐだ。朝倉のことを好きだっていって、追いかけて。とても素敵な両想いで」
サユリだって、真っ直ぐに追いかけて良いんだ。好きだって言って良いんだ。ただ好きであることは、悪いことじゃないんだ。
「私は、私は」
ヒナはサユリに向かって手を伸ばした。サユリの後ろから、もう一人のサユリが睨み付けてくる。銀の鍵で消し飛ばしてしまうことは難しくない。だが、それでは何一つとして解決出来ない。サユリは、また自分自身を呪うだけだ。
好きでいて、何が悪いんだ。ヒナは奥歯を噛みしめた。ヒナがハルを好きなことと、サユリが水泳を好きなことに、違いなんてない。ただ好きでいることを否定して、結果だけを求めるなんて、絶対に間違っている。
ヒナは打算でハルのことが好きなんじゃない。ハルを好きでいれば何かが得られるわけではない。ヒナとハルが両想いなのは、お互いを大切に思っているからだ。信じているからだ。一緒にいるって、離れないって安心出来るからだ。
サユリは、結果が出ないから泳ぐことを止めてしまおうとしている。得るものが無いから別れようとしている。いや、それじゃ別れられないって、自分では判っている。好きなんだって知っている。何で知ってるのに、自分を傷つけてまで否定するんだ。
言おうよ、好きだって。それで良いんだよ。ヒナならそうする。真っ直ぐな想いは間違いなんかじゃない。そこから何も生まれないなんて決めつけちゃいけない。ううん、たとえ何も生まれなくたって構わない。好きならそれで良いんだ。好きなんだ。
サユリ。ヒナは手を伸ばす。サユリの手が微かに上がる。後ろから、ぎり、ともう一人のサユリが腕に力を込める。サユリ、自分の力でこっちに来るんだ。ヒナは、これ以上は加勢出来ない。
死んで愛を全うして、それでどうなるの?それこそ何も生まれない。諦めて、それでどうなるの?そこには後悔しか残らない。
水を、プールを見る度に思い出すだけだ。かつて、そこには大好きだった何かがあったって。何も残せなかったから切り捨てたんだって、ずっと思い続けながら生きていくの?それでいいの?
ヒナはハルのこと諦めなかった。切り捨てなかった。ずっとずっと好きでいた。だから今がある。両想いだって、自信を持って言うことが出来る。誰だってそうだよ。簡単に両想いなんて言えないよ。みんな苦しんで、悲しんで、それでも諦めなかったから、その積み重ねの上に今があるんだ。
サキも苦しんでる。今まさに苦しんでいる。忘れるか、想い続けるか、答えを出すことから逃げるために走っている。今はそれで良くても、いつかは決めなければいけない。何がサキにとっての正解なのかは、残念だけど今のヒナには判らない。ただ、ヒナはサキが諦めないことを応援するつもり。手を取って前に進もうって、追いかけ続けようって言うつもり。やらないで後悔するなんて、ヒナには考えられないから。
チサトはもう振り切った。前に進むって決めた。普段はあんなにほわほわして、はっきりしない感じなのにね。進むべき道、たどるべき道、もうチサトは全部決めている。諦めない、投げ出さない、逃げ出さない。正直すごいと思う。小さな体の中に、強い意思がある。チサトは、ヒナと同じで両想いだって断言すると思うよ。チサトの目指すところは、ヒナたちが考えるよりもずっとずっと遠くにある。でも、チサトは笑顔でフルートを吹き続けるよ。きっとね。
サユリは知らないかもしれないけど、タエって子がいるんだ。彼女も色々あってこじれていたんだけど、前に進む道を選んだみたい。届かない星じゃないって、気が付いたんだね。手を伸ばしてみようって、好きでい続けてみようって、そう信じたんだ。タエの未来は判らない。タエ自身、多分不安しか持っていない。それが判っていても、タエは一歩を踏み出したんだ。失うばかりで、何も得ることない可能性すらある未来へ、歩き出したんだ。
サユリ、結果なんて判らないよ。目に見える結果が全部じゃない。サユリが好きなことを、どうして諦めてしまうの?好きなら、胸を張って好きだって言いなよ。何も無い?何も残らない?そんなことない。
好きだって気持ちは、ちゃんと残ってるじゃないか。
ヒナは、ハルのことが好き。この気持ちだけは本物。誰にも負けない。誰にも譲らない。理由とか、そんなことどうでも良い。今、ヒナは、ハルのことが、好きなんだ。この気持ちは、絶対に何者にも否定出来ない。
サユリだって同じだ。泳ぐこと、好きなんでしょ?その気持ちが本物なら、誰にも譲っちゃ駄目だ。否定しちゃ駄目だ。理由なんて関係ない。好きなものは好きなんだ。気持ちだけは誰にも失くせないんだ。
さあ、サユリ、手を出して。その背中のモノ、振り払って。ヒナが味方してあげる。ヒナが助けてあげる。サユリの気持ちは本物なんだって、ヒナが認めてあげる。
「ヒナ、私は」
大丈夫。ヒナには判る。サユリの想いはちゃんと本物だ。純粋に好きって気持ちがある。認めてあげようよ。自分自身をさ。
下手の横好きって、なんか嫌な言葉だよね。諦めが悪いみたいでさ。別にいいじゃないね、好きでやってるんだから。大きなお世話だよ。
泳いでいるサユリを見て感じたこと、正直に言っていい?サユリはね、きっと水と、水泳と両想いだよ。そうじゃなきゃ、あんな素敵な顔はしない。多分、ヒナがハルと一緒にいる時、似たような顔してるんじゃないかな。ちょっとドキッとしちゃった。サユリも、女の子なんだなって。
お母さんのこと、とても気にしてるんだね。でも、なんとなくだけど、お母さんは判ってくれる気がする。本気でサユリの水泳を否定するつもりなら、とっくにやめさせていると思う。それに、必要ならそこでもヒナが味方してあげる。ヒナだけじゃなくて、サキも、チサトも味方になってくれる。
みんな、サユリの友達だから。
友達がやりたいこと、好きなこと、応援しない訳がないでしょ?
サユリは、ヒナがハルとお付き合いを始めた時、「おめでとう」って言ってくれた。嬉しかったよ。だから、お返しじゃないけど、ヒナもサユリのこと応援する。サユリが笑顔で、楽しくいられるように、ヒナは力を貸す。そう決めた。
さ、おいで、サユリ。もう自分を許してあげて。ヒナのこと、うらやましいんでしょ?好きなことを好きって言いたいんでしょ?
いいよ。好きって、言いなよ。
「ヒナは、本当に真っ直ぐだな」
サユリが笑った。初めて見る笑顔。屈託のない、素直で弾けるような、眩しい笑顔。今までのような、作られたものじゃない。年相応の、十代の女の子の顔。ああ、可愛いなぁ。実はサユリって、グループの中で一番の美人ってだけじゃなくて、一番可愛い女子なんじゃないの?
その背後で、もう一人のサユリが消えていく。ごめんね、あなたの在り方を否定してしまって。でも、放っておいたらサユリ自身の命が危なかった。この選択が正しかったのかどうか、今のヒナには判らない。ただ、ヒナはサユリに、友達に、笑顔で生きていてほしかったんだ。
「そうだ、私は泳ぐことが好きなんだ。諦めたくない。愛してしまっているんだ」
ヒナの手を、サユリが握る。うん、これで良かった。少なくとも、ヒナはそう思う。
好きって気持ちを裏切らない。それが、ヒナの生き方なんだから。