スキのカタチ (5)
屋上を後にして、ヒナは格技棟の方に向かった。いつまでもチサトの邪魔をしている訳にはいかないし。大事なフルートとの逢瀬だ。仲良くいちゃいちゃしてください。
サキとチサトに遭っちゃったし、こうなったら後はサユリだよね。コンプリートしておこう。目指すのは格技棟。その上にある屋内プールだ。ウチの学校はこの屋内プールがあるので、体育の授業には必ず水泳がある。水泳が嫌いな人にはかなり不評。ただ、余所の高校では小雨が降っても外で水泳をやらされる、なんて話を聞かされると、温水プールな分マシなのかな、とか思ったりもする。どうなんだろうね。
夏休み中、屋内プールは一般生徒でも利用出来るようになっている。お金かけずに安く涼むには便利な気もする。でも、それでわざわざ学校のプールに来るって子はいるのかね。小学校じゃないんだからさ。
水着なんて持って来てないし、とりあえず上履きと靴下を脱いでプールサイドまで出てみる。あ、足先の消毒層だけは通らないといけないのか。うひゃあ、冷たい。気持ちいいー。
塩素の匂い。水音。エコーする声。うん、プールだね。湿度が高い。こうなると水に入りたくなってくるよなぁ。
結構な数の生徒がいる。みんな一般生徒じゃないね。五十メートルプールの半分が自由遊泳ゾーンになってて、そちらには誰もいない。水色の底が波に踊ってゆらゆらしてるだけ。残り半分は、部活で使用されるエリア。
水泳部のみなさんだ。
屋内温水プールなんて設備があるのも、それなりの規模の水泳部があるから。サユリに聞いた話だと、結構な数の部員がいるらしい。大会とかで強い選手もいたり、ジム代わりに使う人もいたりと、自由な雰囲気なんだとか。ヒナもダイエット感覚で良いならちょっと参加してみたいかな。
一応、ヒナは泳げる。小学校の頃、恥ずかしながらハルに教わった。ハルは運動は得意だからね。泳ぐのも上手くって、溺れてるのか泳いでるのかはっきりしないヒナに、正しい平泳ぎを教えてくれた。お陰様で、今に至るまでまともに出来る数少ない運動の一つになっている。ありがとう、ハル。
女子の水着姿が眩しい。みんな学校指定の水着とは違って、もうちょっと際どい競泳水着だ。おおう、いいねえ。眼福眼福。男子がブーメランなのがちょっと気になる。視界に入らないでほしい。これがあるから水泳部はちょっと考えちゃうんだよ。ヒナは男子の肉体美に何かを感じたりはしない。ハルなら別腹。そうだ、今度ハルとプールに行こう。
壁に水面の照り返しが映る。ホイッスルの音に合わせて、生徒が飛び込む。弾ける水飛沫。
とりあえずプールサイドにあるベンチに腰掛けることにした。いやあ、ちょっと涼みに来るにはなかなか良いんじゃない、ここ。男子が来るには少しばかり根性というか、変な目で見られても何とも思わない図太い神経が必要になりそうだけど。
激しいバタフライも良いけど、背泳ぎがまたいいよね。女子の背泳ぎって、体のラインがそのまんま水面に出る。うーん、水の抵抗が少ない方が早かったりするのかしら。美しい流線型。なんだかオッサンみたいな目線になってきた。
「やあ、ヒナ」
ぼんやりしてたら、サユリの方からヒナを見つけてくれた。そうだそうだ、サユリの顔を見ようと思ってたんだ。水着女子の群れにすっかり心を奪われてしまっていた。
「やっほー、サユリ」
紺色の競泳水着に包まれたナイスバディがやって来る。高い身長。ストレートに長い髪は首の後ろで結い上げてある。眼鏡かけてないと少し印象変わるね。でもまあ、どこからどう見ても女子高生っぽくない。なんだろう、専門職?
くすっ、て笑う笑顔からして、十代じゃない感じ。美人っていうのは年齢不詳になるな。普通に綺麗で見惚れそうになる。これを見に来たんです。満足。
「朝倉の補習待ちか?」
はい、そうです。サキにもチサトにも言われたからね。もうビクともしないよ。
サユリはクラスでの仲良しグループのリーダー格だ。ヒナもサユリには頭が上がらないというか、一目置いている。雰囲気もあるんだけど、頭の回転が早いし、どんなことでも筋を通してくれる。考え方もしっかりしていて、一緒にいて心地よい。なんていうか、何事にも信頼が置ける感じだ。
中学の頃、ヒナは銀の鍵で他人の心を色々と覗いてきた。人には多面性がある。表裏があるっていうのは当たり前のことだ。
サユリみたいなタイプは、多分何かと雑多なことを内面に押し隠している。真面目な子ほど中に溜め込んでいるものだ。サユリはヒナに歩み寄って、色々と話したり、構ったりとしてくれる。そこにはあまり裏側の存在を感じさせない。不思議な人だ。ヒナは友達に銀の鍵の力を使わないって決めたから、サユリとは真正面から向き合うように努力している。良いリハビリになってると思うし、実際サユリは良い友人だ。
「もう、夏休みの予定狂っちゃって困ってるよ」
「ヒナも大変だな。大方サキとチサトのところにも行って来たんだろう?」
う、サユリには何でもお見通しだな。銀の鍵なんか無くても、ヒナの考えることなんてみんな解ってそう。いつも大体こうなる。サユリはヒナの二歩ぐらい先を歩いて、得意げに種明かししてくる。サユリはヒナのこと、随分とお気に入りだよね。
「ごめんごめん、ほら、そこから校庭が良く見えるんだよ」
ヒナの後ろ、大きなガラス面の後ろは校庭だ。陸上部が練習しているのが見える。サキが走っている姿も視認出来た。
「吹奏楽部も音出ししてるしさ。二人にはもう会って来てるかなって、そう思っただけだ」
図星です。クラスメイトを探して最初に訪れるには、プールは敷居が高いもんね。わざわざここまでサユリの顔を拝みに来るってことは、他の二人には邂逅済みってことになります。初歩的な問題だよ、ワトソン君。
「サユリはヒナのことなら何でもわかっちゃうね」
いやもう、割と本気でそう思ってますよ。
「朝倉ほどじゃないだろう。朝倉も、今頃早く補習を終わらせてヒナに会いたいと思っているよ」
うがー、そういうこと言わないでよ。そりゃまあ、そう思っててくれればいいけどさ。うん、思ってくれてるかな。くれてるよね?サユリ、その辺はどうなの?明智君?
サユリはにやにやしていた。くっそー。
「からかわないでよ」
「ふふ、ヒナは朝倉に対して真っ直ぐだからな。それが羨ましいんだよ」
なんですか、それは。
まあね、ヒナはハルに対しては真っ直ぐですよ。そうするって決めたから。変に脇から攻めたって良いことないもん。幼馴染っていう関係でありながら、それでいてちゃんとお互いに好きでいるって、楽じゃないんだよ。常に近くにいて、なおかつそれ以上に意識していないと。ヒナもヒナなりに考えてるんだから。
中学時代とか、少し距離を置いてる期間があって、やっぱりちょっと寂しかった。ハルは部活に入れ込んでいたし、ヒナは銀の鍵のせいでテンパってたし。それに、中学生男女であんまり仲良くし過ぎてると噂になりそうだしで、距離感すっごい大変だった。一歩間違えれば、あの辺りで二人の関係は壊れていたかもしれない。
でも、踏み込んでくれたのはハルだった。同じ高校受けるなら勉強会しようって。人目なんて気にしないで、ヒナと二人でいようって言ってくれた。ヒナも銀の鍵で色々あった時期だったから、いやあ、もうね、嬉しかったね。でへへ。あの時のハルもとっても素敵で、ヒナは絶対一緒に合格しようって頑張っちゃったもん。
ハルはいつもヒナに対して真っ直ぐでいてくれる。ヒナもハルに対して真っ直ぐだ。だから今幸せ。周りから何を言われようが気にしません。バカップル上等。いいの、ヒナは、ハルのことが好きなんだから。
なんて、デレデレした顔をサユリに見られてしまった。あー、すいません、なんでもないです。
「素敵な両想いだと思うよ」
わきゃー。
絶対呆れたでしょ。ごちそうさまって思ったでしょ。しょうがないの。今絶賛恋人祭りの真っ最中なの。
「じゃあ、休憩終わるから、これで」
颯爽と手を振ってサユリが去っていく。ううう、スポーツジム通いのOLみたいだな。くそう、サキとは違ってこっちもまたカッコいい。
折角だしサユリの泳ぎも見学させていってもらいますよ。自分ではお遊びって言ってたけど、どんなもんなんですかね。さあ、見せてもらいましょうか。
飛び込み台の上にサユリが立つ。スタイルも良いし、それだけで絵になる。はぁ。ガチでため息が出た。
短いホイッスルが鳴った。ふわっと、そして鋭角に水面に突き刺さる。流れるような動き。そのまま水の中を無音で進む。潜水が長い。ギリギリで浮上、その時にはもうクロールの形が出来ている。
華麗で、それでいて力強い8ビート。結構速い。見た目と裏腹に激しい泳ぎだ。息継ぎの度に見えるサユリの顔は、恍惚としている。普段あまり見せない表情。なんというか。
女の子の、顔。
気が付いたらもう五十メートルを泳ぎ切ろうとしている。ターンだ。身体を小さく折り曲げ、くるり、と回転させる。また無音の時間。水面に姿が見えた時には、もうクロールの体勢。全く乱れない。美しく、完成された泳ぎ。
これがエンジョイ勢とかウソでしょ。すごすぎる。危うくヒナはお気楽で水泳部に入って大恥かくところだったよ。あぶねー。
しかし、サユリは何かにつけて完璧だ。頭も良い。成績だってヒナとは比べ物にならないくらい良い。運動もばっちり。スタイルも容姿も申し分ない。何もかも持っている。
サユリに足りないものなんて、何もないんだろうな。ヒナとしてはちょっとうらやましい。うーん、何かくれるっていうなら何をもらおうか。切実に足りないのは学力かな。でもバストもうちょっとあった方がハル喜ぶかな。身長も捨て難い。いやハルより高いと困るか。なんだこの不毛な願望。
雑念に塗れてサユリを眺めていたら、それが見えた。白い泡の中から、にゅうっと伸びる黒い腕。サユリの足元に纏わりつくみたいにして掴み掛かる。
なんだ、あれ。
驚いて立ち上がった時には、もう遅かった。乱暴なホイッスルの音。水泳部員たちが飛び込んでいる。ヒナは、呆然とその場に立ち尽くした。え?嘘でしょう?
サユリは、プールの底に沈んでいた。本当に、一瞬の出来事だった。