スキのカタチ (4)
先輩のフルートは、とても素敵だった。
中学の入学式、吹奏楽部の演奏を見て、チサトは一目でフルートに心惹かれた。曲目は「君の瞳に恋してる」。フルートソロで一人前に立った先輩は、誰よりも輝いていた。
それまで、チサトはフルートなんてぴかぴかしてるだけで、横笛と大して変わらないものだと考えていた。ふすー、っと力が抜けるような音を出して、見た目だけ派手で、合奏では目立たない、いてもいなくても変わらない。その程度のイメージだった。
先輩の演奏を聞いて、チサトの世界は広がった。なんて力強いのだろう。なんて響き渡るのだろう。フルートが支えるのではなく、フルートが全ての音を引っ張っている。
ああなりたい。素直に憧れた。自分にも、出来るだろうか。気が付いたら、吹奏楽部に入部していた。
吹奏楽部の部活は、残念ながら実のあるものではなかった。入学式の演奏を聴いただけでは判らなかったが、部活動の実体は酷いものだった。
顧問の音楽教師と別に、外部からのコーチが来ていて、この二人の対立が凄まじかった。練習に使う曲すらまともに決まらず、何も出来ない時間ばかりが積みあがる。その癖、練習は毎日のように行われた。
そんな空気なので、部員達もやる気を失い始めていた。チサトの憧れの先輩は、三年生で、もう夏には引退してしまう。先輩がいる間は、チサトは熱心にフルートを練習した。先輩も真剣にチサトに向きあい、丁寧に教えてくれた。たった数ヶ月の間だったが、チサトにとっては厳しくてもとても楽しい時間だった。
それも、結局夏が過ぎるまでのことだった。先輩が部活に来なくなり、一番まとまりのあった三年生が居なくなると、部内の空気は一変してしまった。もう誰も真面目に練習しようともしない。練習量の不足から、まともな演奏すらこなすことが出来ない。
毎日、部活だけはある。音楽室に行く、パート練習の教室に行く。そこで何をするかと言えば、ただだらだらと時間を潰すだけだ。下手に練習なんて始めれば「お前、何勝手に始めてんの?」と目を付けられる。チサトは周りの視線を気にしながら、仲間たちに合わせて何もせずに毎日を過ごした。
こんなんで出来っこないんだよ。そんな言葉が横行する。チサトもその通りだと思った。そもそも環境が悪すぎる。こんな状態で練習なんて出来るはずがない。上手くなんてなる訳がない。
気が付いたら、チサトは先輩への想いも、フルートへの情熱も失ってしまっていた。先輩が卒業して、何もない吹奏楽部で、部活の仲間とおしゃべりして、時間だけが潰れていく。それが日常になり、仕方ないと諦めていた。
三年生になり、入学式で演奏をすることになった。二年前に、先輩を見て憧れたあの舞台。ケースから出したフルートには、黒い斑点のような錆が浮いていた。ロクに手入れもしていなければそうなる。こんな楽器、演奏する気にもなれない。準備室の戸棚の奥底に放り投げて、チサトは仲間たちに誘われるまま、入学式の演奏をさぼった。
夏の引退が迫ったある日、部活内で騒動が起きた。二年生の一部が今のやり方に反発し、自分たちで演目を決めると言い出してきた。顧問やコーチとも激しくぶつかり合ったが、二年生たちは譲らなかった。ちゃんとした練習がしたい。より良い演奏がしたい。その熱意が伝わったのか、とうとう顧問とコーチが折れて、夏休みからの練習はきちんとした課題曲一本に絞られた。
置いていかれたのは、夏で引退するチサトの世代だった。
積み上げも無い、やる気も無い。残された時間も無い。三年生の夏、チサトは自分が何も得て来なかったことに気が付かされた。仲間たちの顔色を伺い、一緒になって遊び惚けて、結局何が残ったのだろう。音楽準備室の楽器棚。その奥深くに押し込めておいたフルートケースを引っ張り出す。そこには、錆の浮いたフルートがあった。
一度錆びついたフルートは、メンテナンスに相応のコストがかかる。いい加減なまま放置していたチサトの責任だ。先輩も言っていた。楽器を大事にしなさい、と。チサトは全てをないがしろにしてしまった。楽器も、先輩も。自分の中にあった、憧れも。
高校受験も終わり、ようやく落ち着いてきたと思っていた冬のある日、先輩から手紙が届いた。チサトのことを覚えていてくれたことにも驚いたが、その内容はもっと驚きだった。先輩は高校生ながら地域の吹奏楽団に参加していて、今度演奏会があるという。手紙には、チケットが同封されていた。
市民ホールで行われた演奏会は、素晴らしかった。トリステーザ。冒頭のフルートソロを、大人の中に混じった高校生の先輩が演奏する。チサトは涙を流した。眩しい。先輩のいる場所が、見えない。
かつて、その場所に行きたかった。憧れていた。先輩はチサトのためにフルートを教えてくれた。同じ場所に行けると、そう思っていた。
諦めて、投げ出して。
今、チサトは何をしているんだろう。何を得ることが出来たんだろう。
金管も、木管も、パーカスも。どんな音も、先輩のフルートを遮ることが出来ない。チサトの耳には、フルートしか聞こえてこない。力強くて、澄み切った、先輩の音。
演奏が終わった後、楽屋の近くをうろうろしていたチサトを、先輩が見つけてくれた。
「やあ、来てくれたんだね」
明るく笑う先輩の顔を、チサトはまともに見ることが出来なかった。
「先輩、私、フルート、ダメにしちゃったんです」
そのことを伝えたかった。どうしても謝りたかった。あんなにチサトのために一緒に練習してくれた先輩に、申し訳がなかった。
「うん、聞いてる。知ってる」
恥ずかしかった。悲しかった。たった数ヶ月でも、先輩はチサトのフルートの先生だった。その先生に、こうして自分の無様な姿を報告することが、耐えきれないほどに苦しかった。
「でも、チサトは今日来てくれた」
先輩に謝りたかった。先輩の姿が見たかった。
あの時と変わらずに、いや、それ以上に輝く先輩を確認したかった。
そして、こうして、許してほしかった。
「どうする?また、やってみる?」
チサトが欲しかった言葉を、先輩は与えてくれた。こんなチサトに。どうしようもないチサトに。
悔しさがこみあげてくる。何も出来なかったんじゃない、何もしなかったんだ。本当にあの場所を目指すのなら、チサトは周りのどんなものにも振り回されるべきでは無かったんだ。
諦めてしまった、投げ出してしまった。でも、いつだって取り戻すことは出来る。やり直すことは出来る。
「はい。やりたいです」
今度は諦めない。絶対に逃げ出さない。
チサトは、力強く頷いた。
屋上の日陰に、チサトと並んで腰掛ける。遠くに陽炎が見える。チサトの話を反芻する。
チサトはフルートを愛おしそうに撫でている。ええと、チサト?実はヒナ、今の話で一個だけ気になるところが。
「先輩って・・・」
「ああ、女の人だよ。ミキ先輩」
先手を打たれた。うん、あらかじめそれを言っておいてくれてたら、もうちょっと安心して話を聞けたかな。
ミキ先輩はこの高校ではなく、もっと吹奏楽部で有名な学校に入学して、音大を目指しているそうな。ははぁ、ガチ勢ですな。ヒナは良く解らないけど、そういう特技を持っているって羨ましいな、と思う。何しろそんな人に誇れるようなもの、ヒナには何も無いもん。
「私は、今更かもしれないけど、やり直したいんだ」
フルートがチサトにとってどんな意味を持つのか、良く解った。確かに特別な存在だった。チサトは中学時代に人間関係に疲れたって言ってたけど、そういうことだったのか。
お人形みたいで、ほわほわしているイメージのチサトだったけど、実は結構熱いハートの持ち主だった。ちょっと意外でヒナはびっくりした。
確かに、自分を変えたい、とは出会った当初から言っていた。それは、強い覚悟に裏打ちされた言葉だったんだ。チサトはミキ先輩のためにも、フルートを上手になりたい。ミキ先輩は聞いてる限り凄すぎる人な気もするんだけど、追いかけ続けていればいつかは届くと、ヒナも信じているよ。
「チサト、すごいなぁ」
それだけの情熱を持てるって、凄いよね。チサトの小さくて柔らかい身体に、そんなに大きくて固い意思が秘められているなんて。いや、ホント。
「そんなことないよ。ヒナちゃんだって」
ん?ヒナが何ですか?
「毎朝早く学校に来るの、大変じゃないかな、って思うし」
ちょ、ちょっと待って?ウェイト。プリーズウェイト。
確かにヒナはみんなより早く登校している。でも、その理由については実は言ってないよね。そこまで話した覚えは無い。うん。
「え?チサト、大変って?」
「あ、あのね。私、朝練でいつも早い時間から、ここでフルートの練習してるの。それで」
ちらり、とフェンスの方に視線を巡らせる。その向こうには、校門が見えている。毎朝登校時に通る場所。
あ。
あーあーあー。
そうかぁー。迂闊だった。っていうか、吹奏楽部朝早いな。確かに楽器の音とか聞こえてるもんな。そこまで意識巡らせてなかったわ。ううー、ヒナのバカ。
一学期の間、ヒナはハルと二人きりの時間が作りたくて、朝早いハルに合わせて二人で登校していた。周りからの冷やかしの視線も無い、貴重な時間。気兼ねなくハルと仲良く話が出来る、ヒナの蜂蜜タイム。
見られてたわけですね。うん、校門の辺りだし、流石に恥ずかしいことはしてないと思うよ。学校の近くではいちゃいちゃしない、って一応自戒してるし。ああー、そういえば公園デートの次の日、手をつないだっけ。校門の前で手を放して、なんか照れくさくなって、ええっと、それ以上は何もしてないよね?ね?
でもそうか、毎朝チサトに見られてたのかと思うと、これはこっ恥ずかしい。ヤメテー。今度からフルートの音色が聞こえたら警戒しよう。いや、それに限らず楽器全般アウトか。音情報大事。インプット。
「ヒナちゃんも、朝倉くんには一生懸命だなって」
うわぁ、チサトにそんなこと言われるとは思いもしなかった。なんかヘコむわ。話がエロ方向に入ると顔赤らめてるキャラだったはずなのに、こんなに逞しくなっちゃって。
「まあ、ハルは私にとってチサトのフルートみたいなもんですからね」
強がってみせる。チサトはふふって笑った。あ、なんかちょっと珍しい笑顔だ。ほんの少し、チサトの本当の表情が見えた気がする。その方がずっと可愛い。
「じゃあ負けないようにしないと」
負けませんよ。何しろ数年越しの想い。出会いからなら十年越えですからね。いよいよ相思相愛両想い、恋人関係ですから。でもまだまだ油断は出来ない。ヒナは、ハルに対して手加減するつもりは一切ないです。
諦めない。投げ出さい。どんな声にも流されない。
大切だって判ったから。失くしてはいけないって思ったから。
そうだね、チサトは、フルートに恋してるんだね。幸せになれると良いね。