スキのカタチ (1)
今年の夏は暑い。毎年のようにそう言われる。当然、今回も例外無しだ。
照りつける太陽の光は、じりじりと地上にある全てのものを焦がしていく。その熱を受けたアスファルトが、ねっちょりと靴の裏に貼りついてくる。足を上げるたびに、べり、べり、って微かな音と共に抵抗を感じる。どんだけ暑いんだ。
日陰を選んで歩いているつもりでも、熱気からは逃れることは出来ない。街路樹の切れ目から太陽を見上げて、曙川ヒナはうう、と顔の前に腕をかざした。日焼け止め、もっと強いの買おう。
いつもは登校時の高校生でにぎわう道路だが、今日この時は誰も歩いていない。もう夏休みだ。時間もお昼過ぎ。いつもと同じ道が、いつもと違って感じられる。誰もいない通学路って、ちょっとセンチメンタル?
ただ、気分に浸っていられるような環境ではない。暑い。陽炎に逃げ水というものを、ヒナは久しぶりに見た気がした。うわあ、すっかり忘れていたけど、こういうのってホントにあるもんなんだね。漫画的表現だとばかり思っていたよ。
夏休み第一週、ヒナの彼氏様である朝倉ハルは補習授業を受けている真っ最中だ。お陰様でヒナのハルと過ごす甘い夏休み計画は見事に出鼻を挫かれ、頓挫寸前。本当なら今日は水族館で涼しく楽しいひと時を過ごす予定だった。ハルの馬鹿。
まあハルだって好きで物理の補習なんて受けてる訳じゃない。お互い学力的にはちょっとアレな感じだ。ヒナが今回補習を受けずに済んだのは、ひとえにハルへの熱い愛のなせる業。ん?ちょっと待って?ハルには愛が足りないってか?
そ、そんなことはないよね。たまたま、たまたま。運の要素も大いにあり得る。ハルだって頑張ったんだよ、うん。悪いのはニュートンだ。重力なんてわざわざ数字にしなくったって、誰も困らない。よね?
それに、ハルの気持ちは夏休み前の日曜日にいっぱい受け取った。
えへへ。でへへ。いかん、顔がゆるんでくる。でも幸せだった記憶って、いつまでも思い出して浸れるもんだね。いやぁ、ヒナ嬉しかった。しばらくこの記憶だけでご飯何杯でもいけちゃう。
ずっと好きだった人との、初めての恋人のキス。ヒナ、ハルに全部預けちゃった。全身お任せコースで。ハルはちょっとビックリしてたみたい。だって、ヒナ嬉しかったんだもん。ハルとキスだよ?もう、どんだけ待ってたと思ってるの?
服装とか、色々と気に食わない要素はあったけど、キスだけなら満点。まだハルの唇の感触、思い出せる。ふふ、もうちょっと硬いイメージがあったけど、予想よりずっと柔らかかった。あと、力強かった。ハル、もう少し好きにしてくれても良かったのに。ヒナは、ハルのこと好きなんだから、大丈夫だよ。
ハルはヒナのこと、お姫様みたいに大事にしてくれてる。それも良く解った。昔からそうだよね。大事にされてて幸せなんだけど、時には強引に迫られてもみたい複雑な乙女心。なーんて。ハルがそんなことしないって判ってるから、こんなふうに思っちゃうんだろうな。ヒナは贅沢だな。
夏休みはハルの彼女としてちょっと頑張っちゃうつもりだったんだけど、まさかその前に一歩進んじゃうとはね。これはいざ夏休みに突入したら、ヒナ大人の階段八艘飛びで駆け上がっちゃうかもよ?今度こそ生活指導で大目玉喰らったりして。ははは、望むところだ。いざっ。
後ろからでっかいダンプカーがぶわぁー、と音を立てて走り抜けていった。巻き上がる熱風、粉塵、排気ガス。ぐえっほ、げっほ。あっちぃ、くそあっちぃ。なんだコラ、てめぇ、女子高生ナメんな。ぐえっほ。
酷い目に遭った。どうも学校の近くの空き地に何か作っているらしく、夏休み中は工事車両が良く通るらしい。学生が車道まで広がってワイワイ騒いでいる時期にまで食い込んだら、工事どころじゃ無くなるだろうからね。にしても酷い。臭い。暑い。
とりあえず、学校までもう少し。学校に着きさえすれば、この灼熱地獄とはオサラバだ。
学校では、ハルが補習授業を受けている。お昼前から、午後までみっちり。あのすだれハゲ先生の趣味なのか何なのか、かなりハードなスケジュールだ。予備校の夏期講習より厳しい。そんなに物理漬けにされてハルが理系になっちゃったらどうするんだ。ヒナ、絶対理系とか無理だから。
一応、補習という建前上、彼女であるヒナはハルの邪魔にはならないようにしているつもり。一緒に登校もしていない。補習期間中はデートとかしない。メッセージも最小限。
でもね、それだとハル分が不足しちゃうんですよ。この前夜の公園で、優しく強く抱き締めあって、お互いに好きって言って、キスなんかしちゃった仲なんですよ。今が旬じゃないですか。青春どストライクですよ。若さゆえの暴走待ったなしですよ。
・・・うん、ハルに会いたいんだ。ハルの顔が見たいんだ。それだけ。
やっぱり、折角両想いであることをちゃんと確認出来た訳だし、ヒナとしては少しでもハルと一緒の時間を増やしたい。ハルには迷惑をかけちゃうかもしれないけど、ヒナだって今まで沢山我慢してきたんだ。ハルが、ヒナの本気をちゃんと受け止めてくれるって判ったんだし、ヒナ今度こそ手加減無しで迫っちゃいたい。ふふ、こんなことを思ってるだけで、結構楽しい。
学校に着くまでに、色々と理由を考えておくつもりだったけど、なんだかどうでも良くなってきた。ハルに会いたい。それで良いじゃん。彼女が彼氏のことを恋しがって、何かいけませんかね?好きな人の近くにいたいって、悪いことですかね。
別に補習の邪魔をするつもりはないし、学校の何処かで涼んでいればいい。帰りにハルと二人で並んで歩ければ、それだけで十分。うん、想像したらとっても楽しそう。いける。白米大盛りいける。
それに夏休み中の学校って、どんななのかちょっと気にはなっている。誰もいないのか、思ったよりも賑やかなのか。人がいない教室、談話コーナー、学食、色々と興味はある。いい機会だから覗いてみたい。単なる好奇心。
毎日だと飽きそうだけど、たまにならこんな小さな冒険があっても良い。ハルを待ちながら、自分の通う学校について理解を深める。うん、素敵な理由が出来た。ヒナ冴えてる。
街路樹が途切れて、がつーんと強烈な日差しが攻撃を仕掛けてきた。一瞬くらっと来る。ああ、これが無ければ最高だったかもね。一番良いクーラー、頼む。
正門を抜けると、まず広場がある。入学式の前、クラス分けの発表があったところだ。思い出すなぁ、ハルと同じクラス、嬉しかった。まず作為性を疑っちゃったんだけど、こういうので素直に喜べなくなっちゃった自分が悲しい。ヒナは、不本意ながら神様の世界に片足を突っ込んじゃってる。
ヒナの左手には、銀の鍵とかいう不思議なアイテムが埋め込まれている。中二設定だ。もう高校生なんだから、こういうのは済ませておきたかった。まあ残っちゃってるんだから仕方が無い。ヒナの意思とは無関係。
手に入れたのは中学の時。その頃はリアル中二で言い訳出来たのにな。出所はお父さんの海外出張のお土産。なんかふっるーいアニメかなんかでありそうだよね、そういう設定。ガッカリしてくる。
銀の鍵は神様の国に通じるものらしい。鍵の守護者であるナシュトの導きによって、共に神の園カダスを目指そうぞ、っていうのが望ましい展開だったのかな。さあ、銀髪イケメンの神官ナシュト共に少女よ立て、みたいな。
まあヒナは断っちゃったんだけどね。いらねーし。
そしたら解約出来ないとか言い出してきた。携帯の二年縛りより酷い。アンケートなら何枚でも記入してあげるから、さっさと退会させてほしい。あのね、今日び神様の国なんて誰でも行きたいとか思う訳じゃないから。舐めんな。
消せないって言うから仕方なく試しに使ってみたら、銀の鍵の力の酷いことったらない。人の心を読む、操る、書き換える。人権なんて欠片も無い。しかも思春期ど真ん中の中学生の心の中なんて、カオスも良い所だ。思い出すだけで気分が悪くなる。
そもそも心の中なんて、各人の自由な世界だ。覗かれて良い思いなんてしない。操って、書き換えて、それで何をするというのか。どんな理由であれ、人の心に誰かが直接干渉するなんて、気味の良い話じゃない。
よって、この力は基本封印。ただし、銀の鍵の力はそれだけじゃなくて、意図せず見えないモノが見えたりして非常にわずらわしい。確かに便利に使わせてもらうこともあるけど、積極的にこれで何かしようという気にはなかなかなれない。ヒナから離れられなくなったナシュトには少しは同情するけれど、残念ながらこの神様は人間的なことに理解が無さすぎるので、こちらも実際に顔を合わせるとむかついてくるだけだ。
クソ暑い中そんなことばかり考えていても何の得にもならない。ヒナはさっさと昇降口の方に向かった。途中、渡り廊下が頭上を通っている。日陰だ、日陰。ひゃっほい。
渡り廊下の柱の所に、何人かの生徒が座り込んでいた。揃いのユニフォームを着ているから、体育会系の部活だろう。男子と女子で別れてグループになっている。おおう、なんだか生足がいっぱい。露出度高いな。ファンサービスか。
どうやら陸上部みたいだ。ショートカットとポニーテールの宝庫。そういうマニアがいればたまらんのではないですかね。ああ、ポーニーテールと言えば、走り高跳びの選手はやっぱりポニーテールだと不利だったりするんですかね。ヒナ、ちょっと気になる。
うわぁ、あんなショートパンツで胡坐かいて座っちゃったりするんだ。すいません、ヒナには陸上部無理そうです。ただでさえ走るの遅いのに、その格好でいろとか死にそう。いや、死ねとか言われそう。暑いのはわかるいいだけど、せめてジャージの下履こうよ。目のやり場に困る。
「やあ、ヒナ」
突然声をかけられて飛び上がるほど驚いた。そ、そんなにジロジロ見てません。はしたないとか思ってません。みなさん脚綺麗ですね、えへ、えへ。
スラリとした長身の女の子が手を振っている。女の子、だよね。細い、そしてカッコいい。陸上部の露出全開のユニフォームをいやらしくなく、スマートに着こなしている。この王子様っぷりは、他に類を見ない。
「サキ、やっほー」
クラスメイトのサキだ。そういえば陸上部だったっけ。綺麗に日焼けしてる。筋肉質だけど締まっていてしなやかな四肢が眩しい。ショートカットに猫目、いいよね、正にネコ科の肉食獣。ヒナが女の子なら放っておかないよ、ってアレ?
サキはクラスの仲良しグループの一人。グループの、っていうかクラスの女子の王子様だ。その辺の男子なんか目じゃ無いくらいカッコよくて、スマートで、紳士で、エレガント。でも女の子としても十分可愛いとヒナは思ってる。サキ、たまにすっごい良い顔することあるんだよね。
両親が美容師で、家が美容院ってこともあって、おしゃれにも色々と詳しい。それがまた女子に人気の秘訣。ヒナやチサトはいつもサキに髪をすいてもらったり、ちょっといじってもらったりしている。これが良いアレンジなんだ。ワンポイントで可愛く見せるセンスの良さに、いつも感心させられる。サキ、自分では似合わないなんて言うけど、やっぱり可愛いよなぁ。
「ヒナ、今日はどうしたの?」
あははあ、やっぱり訊くよね。補習は回避したって、夏休み入る前に言ってあったし。ヒナ帰宅部だし、図書室で勉強するタイプでもないよね。あはは。
「えーと、ちょっと、ハルの様子をね」
サキは、ああ、と笑顔を浮かべた。ううう、彼氏の顔見に来ました、って結構恥ずいな。まさかサキとこんなところで会うとは思ってもみなかった。なんだろうこれ、変な告白よりつらい。
「ヒナは健気で可愛いな」
そういうこと言わないでー。サキに言われると、妙な感じ。王子様、お戯れを。ヒナには心に決めた人が。うわぁ、洒落にならん。王子様カッコいな。バレンタインの時にはおこぼれにあずかろう。絶対箱一杯に貰うクチだよね。
照れ隠しもあって、ちょっと失礼かもしれないけどサキのユニフォーム姿を眺めまわしてしまった。ん、こうやって見るとサキ、ちゃんと女の子だね。勝手に超スレンダーだと思い込んでたけど、全然そんなこと無かった。可愛いなぁ。実は男子にも結構モテるんじゃないの?
「なんか、陸上のユニフォームって大胆だよね」
思わず口に出る。いや、だって、さあ。サキみたいに細くてシャープな感じの子は良いよ?でもヒナみたいな、なんというか、ぽわぽわした子が着れるものじゃないよ。
サキは「そんなことないよ」って言うけど、いやいやいや、そんなことあるよ。マジで勘弁して。ヒナは超文系。確かに中学ではバスケ部に入ってたけど、あれはハルがやってたからだよ。ちょっとでも話題とか合わせたかったし、近くにいたかったからって、もうバリバリに不純な動機でしたから。後で自分が運痴だって嫌というほど思い知らされましたよ。レギュラー?ヒナ、ドリンクはスモールで満足です。
「機能性とか、通気性の問題があるからね」
まあね、汗かくだろうし、動きやすい方が良いとは思うんだよ。でも、これ絶対誰かオッサンの趣味が入ってるよね。ヒナはそう疑ってる。利権とオッサンの臭いがする。間違いない。サキみたいな子がカッコよく着こなしちゃうから、むしろ浸透してしまって問題にならないのではないか。けしからん、もっとやれ。
・・・ヒナは一体何と戦ってるんだ。
「サキはなんで陸上をやってるの?」
何となく、本当に何となく頭の中に浮かんだ質問だった。特に意味なんて無い。シンプルな疑問。ヒナは部活に打ち込むってピンと来ないので、サキがどうして頑張っているのか、良くわからなかっただけ。
でも、サキには「何となく」な質問では無かったみたい。
サキの顔が、ごくたまに見せる「良い顔」になった。ああ、こんな近く、真正面から見るのは初めてだ。サキ、そんな顔するんだね。ごめんね、サキ。そんなつもりは無かったんだ。
サキは、寂しそうに笑っていた。
触れてはいけない話題だったかな。サキは確かショートトラック、短距離走だよね。走ることって、サキにとっては何か特別な意味があることなのかもしれない。それは、ヒナが聞いてはいけなかったかな。
「えっと、ゴメン、変なこと聞いた?」
「ああ、違うんだ。今ちょっとガード下がってた。こっちこそゴメン」
サキがちょいちょい、と手招きする。少し離れた柱の影。そこには、他の陸上部員たちがいない。ちょっとロマンスの香り。王子様は大胆だなぁ。
ヒナが柱に寄りかかると、背の高いサキが隣に並んだ。壁ドンとか、してくれても良いのよ?残念ながら、王子様は今乙女の顔をしていらした。サキ、可愛い。今は、ヒナが抱き締めてあげたい感じ。
「ヒナは不思議だな」
そう前置きして、サキは静かに語り始めた。蝉の声が聞こえる、暑い暑い夏の昼下がり。