泣きくたびれた笛
風が強くなり、おまけに砂を含みはじめたから、馬を下りて歩かざるを得なくなった。
視界は荒れ、荷を積んだラクダの列がすぐ傍を歩いているのも分からない。
やがて嵐と言えるぐらいになると、毛皮で顔を覆い、下を向いて進んだ。ひび割れた地面を粉っぽい煙が流れていった。
右手に手綱の感触を、後ろにお母さんの気配を絶えず確かめつつ歩く。もしも隊列から外れてこの荒原に取り残されたら、そう思うとぞっとする。
前の馬が唐突に歩みを止めて、わたしは慌てて立ち止まった。お父さんと商人の人が地図をにらみながら深刻そうな顔をしている。
嵐がごうごうと耳を覆う合間に、「方角」とか「現在地」という声が届いた。わたしは恐怖のあまり胸が縮み上がるのを感じた。目的地につけないまま日が暮れてしまっても、こんなところで野営ができるはずない。
その時、風の合間をぬって、重厚な音がわたしの耳に届いた。
不思議な響きで、最初は牛の鳴き声かと思った。けれどそれよりもずっと間延びしたなめらかな音だった。それは何かを知らせるようにわななき、やがて小さくなって嵐にかき消えた。
お父さんたちのぼやけた影が音のしたほうを向いて、しきりに何かをまくしたてている。
「ボルン」。そう聞こえた。聞いたことのあるような、ないような。
やがて隊列は音の方角を向いて進行を再開した。
わたしにはお父さんたちがわらにすがっているようにしか思えなかったけど、進んでいくにつれ風が弱まっていき、しばらく歩いたあとで誰かが、「町だ」と叫んだ。隊列が立ち止まった。
うなり声が止んで、金色の空の下に、高く築かれた城砦がゆっくりと姿を現した。土くれが転がるだけの地平線はそこで終わっていて、砂で固められた階段がりっぱな城門に続いていた。
✳︎
北方の国が拡大して、緩衝地帯が変わった。
それを知らずに境界を踏み越えたせいで、向こう側の蛇のような目をした人たちが武器をぎらつかせてやってきた。
仕方なくルートを変更したら道に迷い、砂嵐に遭った。
状況を説明すると、城門はすんなりと開いた。
そびえ立つ砦の表面をなぞってみると思ったよりさらさらしていて、わたしたちの東のほうのとは違った。
すぐに水で身体を洗いたい気分だったけど、宿に着いても休むわけには行かなかった。市場で売買する許可をもらったというので、明日からでも「お祭り」に参加できるように急いで荷物を下ろさなくてはならなかった。
今まで来た中で、いちばん大きな町だと思った。道路は舗装され、形の整った日干しレンガの塀がどこまでも続く。外とは違い、硬い葉の植物も道沿いに植えられている。
それに賑やかだった。人だかりは騒々しく、往来はこれまで見たどの町よりも激しい。
お店が並ぶ向こうには、丸いドーム上の屋根に尖塔が突き立った、見たこともない形の建物が連なっている。
冒険心がうずいた。心の中で、不安よりも好奇心のほうが勝っているのを感じた。
「ねえ、お祭りってなに?」荷台から荷物を下ろしながらお母さんに尋ねた。
「みんなでお店を出したりして遊ぶことよ」
「どうしてそんなことするの?」
お母さんは少し考えて、「何かを記念したり、祝ったりするためかな」
それから、「だめよ行っちゃ」と先に言われた。
行っていい? とまさに言おうとしていたから、驚くのと同時に、むっとした。
今日だけでも十分こわい思いをしたのだから、その見返りが少しくらいはあってもいいはずだ。
「どうしてだめなの?」
はいこれ、と両腕に荷物を乗せられる。
「中まで運んでね」
「ねえ、どうして?」
浮き足立った町の雰囲気から、その「お祭り」というのが楽しいものだということは明らかだった。わたしだけ参加できないというのはおかしい。
「よそ者だから?」
「そうよ」とお母さんはきっぱりと言った。「分かったらさっさと運びなさい。日が暮れるわよ」
わたしは絶句した。
別に無理を言っているわけではない。わたしも馬鹿じゃないから、できることとできないことの判別はつけられるつもりだ。
少し外に出て町の行事に参加するくらい、できないはずがない。
怒りたい衝動をぐっとこらえた。馬の手入れをし、井戸から水を汲んでパンを焼き、仕事を全て終えた。そのときにはもう、空はすっかり暗くなっていた。
こういうことは一度や二度ではなかった。鷹を飼いたいと言ったときも、友達ができたからもう少しこの町にいたいと言ったときもそうだった。理由を聞いても「言ってもわからない」とかはっきりしない返事ばかりで、それに比べたら今日の「よそ者だから」は少なくとも具体的な分ずっとましなほうだ。
「本当は草原が途切れる所まで通れていたはずだったんだが」お父さんが言った。
「関所が使えないんじゃ、話にならない」
「それでこんな所まで来てしまったのね」とお母さん。「いつになったら出られるのかしら? この町から」
「明日、出発する別の隊商を見つけたから、それに参加しよう」
二人の会話は、わたしにはよく分からなかった。どうしてそんなに早くこの町を出たがっているのか分からなかった。
だけどわたしはいらいらしていたから、それ以上考えることはしなかった。食事を終えると、おやすみなさいと言って、わざと大きな音を立てながら自分の部屋のある二階に上がった。
新しい部屋の窓はすごく小さかった。廊下からひさしに飛び降り、大通りがある方角を向くと、足元に、乾いた土と家畜のにおいをはらんだ柔らかい闇夜が広がった。
冷たい風が吹くと、砂っぽい空気とともに大通りの喧騒が届いてくる。陽気な楽器の音。平たい屋根が並ぶ向こうの、こうこうとした灯りと人の動きがぼんやりと見える。
飲み込めない何かがふつふつと胸の奥に積もっているのを感じた。
砂漠越えの疲れはどこかに吹っ飛んでいた。意を決して、近くの太い枝に飛び移り、そこから反対側の枝に移動して馬小屋の屋根に飛び降りた。
✳︎
歩けば歩くほどざわめきは大きくなっていく。
狭い裏道を何度も引っかかりながら進み、ついに本通りへ出ると、そのあまりのまぶしさと熱気に目がくらんだ。
暗がりに明滅するちりちりとした光彩の中を歩く沢山の人。馬や羊の声。刺繍が豊かにほどこされた布飾り。
人いきれの向こう側には、見慣れないものばかりが立ち並んでいた。
それなのにわたしの足は、裏道をちょっとはみ出したところから進もうとしなかった。市場を歩いたことは何度もあったけど、こんな大勢の人の流れを見るのは初めてだった。
きれいな服で身を包んだ同い年くらいの子供たちが目の前を横切り、さらさらの髪のつんとする香料がにおった。
それでわたしは、自分の着ている服が薄く土汚れを残していることに気付いた。おまけに髪は嵐に吹きさらしでそのままだったので、あの子たちと比べるべくもない。
お母さんでも誰でもいいから連れてくればよかった、と思った。
通りの向かい側を見ると、土釜の上に巨大な鍋が置かれ、客の目の前で焼き飯が作られ始めた。たちまち肉と野菜と米の焦げる香りがあたりに漂いだした。
火にあぶられて照りあがる黒い鉄鍋をぼんやりと見つめていると、
「お前そこでなにしてんだ?」という声がして、振り向くと少年だった。
精霊が着るような真っ白い絹の衣に身を包んで、だけど油のしたたる串焼きを頬張りながら、こちらを見ていた。背は同じくらい。
きれいな目だった。
「見ない顔だな。遊牧民か?」
首を振る。
「じゃあ、隊商の人?」
「それも違う」とわたしは言った。
「隊商に混じって、品物の護衛をしてるの」
「護衛? お前が?」
少年はおおげさな反応をした。上品そうな格好をしているのに、粗っぽい喋り方をする子だと思った。
通りのほうを見て、
「それより、なんでこんなところでじっとしてるんだ?」
わたしがそれに答えられずにいると、
「お金持ってないのか?」
と言って、少年はわたしが返事をする前に近くの出店に駆け出した。そしてすぐに両手に器を持って帰ってきた。
「ほら」
「……ありがとう」中は野菜のほかいろいろな物が混じったどろどろのスープだった。
おそるおそる口に運ぶと塩からい小麦粉の味がした。ちょっと驚いたけど、慣れるとすぐにおいしくなった。
するとその時、背後でどよめきが起き、大通りの人だかりが割れて、奥から祭壇を載せた隊列が現れた。
きらびやかな装飾をまとった車が、馬よりも少し小さい、耳の垂れた動物の緩慢な足取りに引かれていく。
「子馬?」とわたしが呟いたのを聞いて、少年が「ロバだよ」と教えてくれた。
「おとなしいから、大事なものを運ぶのに使われてる。今みたいに。あと観光とか」
「ふうん……」
わたしは物珍しげにそのお尻を追いかけていた。
そんな様子を見てか、少年は「ここのお祭り初めてか」と聞いた。わたしはうなずいた。
すると彼は、「それじゃあ俺が案内してやる」とわたしの手をつかんだ。
「えっ」
「はぐれるなよ」
そう言って構わず群れの中に飛び込む。
だけど少年は、水を泳ぐ魚のようにするりするりと巧みに人の隙間をぬって進んでいく。
しかもお店の場所を記憶しているのか、人ごみに覆われて看板も見えないはずなのにぴたりと目当ての所で抜け出せているようだ。
それにやたらと顔が売れていて、どこに行ってもお店の人がにこやかに彼を迎えた。
「全部ただだから遠慮すんなよ」と少年は言った。
揚げて棒に巻いた砂糖菓子や、中にいろんなものが入った丸いお肉を食べた。お腹がふくれると広場で出し物を見た。王様が、旅先で異国の女性と結婚する影芝居。主人の合図に合わせて動きを変えるねずみ、何本ものナイフを同時に操る芸……。
五つ目か六つ目に寄ったところは少し変わっていて、ずっと向こうの壁に向かって人が弓を構えていた。
なにをしているのかはすぐ分かって、「射的って言ってな」と少年が説明を始めるが早いかわたしは「やる」と言った。
「あの目印を狙えばいいんでしょ?」
「そうだけど、初めての人がやるのは危ないだろ」
忠告も聞かず、弓矢を借りて前に出る。難しい的ほどいい景品がもらえるというから、一番小さいやつを狙う。
弓はかなり硬かったけれど、どうにかうまく当てられた。獲物と違って動かないからずっと簡単だった。
印の真ん中に矢が突き立ったときには、おおと静かな歓声が沸いた。少年も目を丸くしていた。
景品はガラス細工の飾りがついたネックレスで、少年は「子供だまし」と期待はずれの顔をした。だけどわたしはそのガラス玉の中の欠片がとてもきれいだったので気に入った。
「首にかけて」と頼まれ、少年はわたしの後ろに回った。
「このネックレスは?」と言われ、わたしはすでに首にかけていたもののことを思い出した。
「お守り?」
「うん」
親に渡され、小さいときから肌身離さずぶらさげているものだった。
「この下にかけるから、一回外すぞ」と少年は丁寧な動作でお守りをわたしの首から外す。
それからお守りにつけられた木製の飾りをちらりと見て、顔をわずかにこわばらせた。
「どうしたの?」と聞いても、すぐに「何でもない」と言ってわたしを振り向かせた。
外に出ると、やっぱり人はいっぱいで、光にぼやけた看板を見ていると、熱に浮かされたようにふわふわした気分になった。
次はどこに行く? と聞かれて、口がうまく回らずに答えられなかった。しまいには足元がふらついて、うまく歩けなくなった。
「大丈夫?」少年のひんやりとした手がおでこを触る。
「ちょっと、休みたい」とようやく言えた。
少年はわたしの手をゆっくりと引いて、すぐに裏道に入った。泥や糞のにおいをかき分けて進んでいくうちに喧騒は背中を離れていき、暗い前方には石造りの大きな建物が見えて、気付くと冷たい階段を上っていた。
上りきると、涼しい風が吹き抜けた。砦の上にいた。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう」岩の丸い突き出しに腰掛ける。
上から見る祭りの景色は壮観だった。宿舎からは消えかかった火のようにしか見えなかった町の灯りが、眼下に広がる一面を照らしていた。
「ここには毎日来てる」と少年は言った。「でも同じ日に二回くるのは初めてだな」
「ここで何してるの?」
少年は上着から、薄緑色の、やけに表面のつるつるした長笛を取り出した。「この練習をしてる。式典で演奏するから」
「……それ、今日の昼間も吹いてた?」
少年はうなずいた。「砂嵐がひどくなったからすぐやめたけど」
やっぱりそうだった。
わたしは自分たちがそれに大分助けられていたことを言おうとしたけど、重く腹の底を震わすような音がそれをさえぎった。
少年が砦の外を向いて、笛を吹き鳴らし始めていた。
荒原はごつごつと黒い岩肌の影ばかりで、昼間の砂塵がうそのように晴れ上がった夜空の光も、深い暗闇に届いていなかった。反対側の町の様子とは大違いで、暗くて陰気で恐ろしかった。
わたしはそのとき初めて、少年が普通の人でないという印象を抱いた。
何枚も重ねて作られた重厚な衣装、そこからのぞくきれいな肌、繊細な指先、閉じたり開いたり半分だけ閉じたりする四つの穴、それに合わせて形を変える笛の音、鮮明な星空、おぼろげな町の光……少年も含めた全てが作り物めいていた。
わたしがこの町で思い出を作るために、神様がよこした使いなのだと思った。
やがて音はか細く消えるようにして演奏を終えた。
「ボルンっていうの? その楽器」と言ってみたら、何で知ってるんだ、とすごく驚いた顔をした。
「この地にはない素材で出来てるんだ。ずっと昔に、東の草原に住む民族がこの国と交流するときに贈ったものなんだって」
と少年は言う。「だから俺は、いつも東を向いて吹くんだ」
そんなものを、どうしてこの子は持ってるんだろう。
「あなたは何者なの?」とわたしは意を決して聞いた。
「唯一神――の代理人――の後継者」と少年は早口に言った。
うまく聞き取れなかったけど、「神」とか「後継者」とかは聞こえた。
そんな人がどうしてわたしと、とは聞けなかった。
彼のまとう孤独さが、無言でわたしに語りかけていた。
「やっぱり驚かないんだな」と少年は笑った。だって、よくわからないし。
✳︎
「式典って何?」
宿への帰り道、少年に送ってもらいながらたずねた。
「最後に、神にお祈りするんだ。広場に集まって」
「町の人全員が?」わたしは驚いて、上から見た光景を思い出した。あれだけの人数が一度に集まる光景は想像できない。
ふと気付くと、祭りも終わりに向かっている様子で、人々の動きに新たな焦燥が見られ始めていた。
店の片づけが行われる中で、楽団が列をなして通りを歩いていく。
「いつから始まるの?」という質問に、彼はまじめな顔でわたしを見て、言った。
「お前は、行かないほうがいいと思う。いや、行っちゃだめだ」
一瞬、耳を疑った。
わたしはショックで言葉を失った。
(お母さんと同じことを)
「どうして?」と、同じことを返そうとする自分が悔しかった。
「そっか」と小さく答えた。
少年はわたしが打ちひしがれているのにも気付かないようで、
「いつこの町を出る?」
「明日、夜明け前くらいに」とわたしは投げやりに答えた。
「早いな」
「うん」
そのとき、広場の方角で大きな音がした。太鼓の音だった。音楽が鳴り出し、歓声がわっと高まった。
それを聞いて、しきりに広場の状態を気にしていた少年は慌てた様子で「すぐ戻る」と言って駆け出してしまった。
飾り屋の前に置いていかれたわたしは、仕方がないので店先にしゃがみこみ、並べられたアクセサリーをぼんやりと見つめた。そうしながら、頭では別のことを考えていた。
(演奏するとか言ってた……それを見られるのが恥ずかしいから? それとも人が一杯集まるのが危ないから? やっぱりわたしがよそ者だから? だから行っちゃだめなの? どれにしたって、訳も話してくれないのはどういうことなんだろう)
そこまで考えていたが、陳列したアクセサリーの中に、鉄板か木版か分からないけれど模様の刻まれた飾りがあるのを見つけて、それらに目を引かれた。
色んな種類と形があるのに、どれも共通して、文字や動物の絵がぐにゃぐにゃに歪んでうまく模様になっているのが不思議だった。
自分のお守りと見比べてみるとそれがよく分かった。
(というか、この絵の人は誰なんだろう?)
改めてじっくりと見るのは初めてだった。ひしがたの薄板に、人物の顔のようなものがはっきりと彫りこまれている。
(神様?)
足元を影が覆った。彼が戻ったのかと思い、顔を上げると違った。お店の主人らしき男がこっちを見ていた。
こわい顔だった。
「何だお前、その首飾り」
「え?」
わたしに言ってるの、と思った。
男は顔を引きつらせ、わたしに向かって大声で怒鳴った。「―――派の人間が何でここにいる」、と言ったみたいだけど男が何を言っているのか分からなかった。
背後で、人の流れがぴたりと止まった。刺すような視線を全身に感じ、わたしはただにらまれた獲物のように身体を強張らせた。
危険が迫っていると言うことだけは確かだった。けれども足は恐怖に凍りついていたし、頭は真っ白だった。昨日の映像が思い出され、自分をにらむ蛇のような目が脳裏に浮び、涙がじわりとにじみ出た。
その瞬間、手にぎゅっと熱を感じたかと思うと、ぐいと乱暴に引っ張られた。
少年が包囲を破り、通りを駆け抜けるのを必死に追いかけた。
それからどこをどう走ったのかも分からず、気付けば最初に出会った場所にいた。
人はもう少なかった。薄暗い道に残り火がちかちかと点滅し、巨大な鉄釜は役目を終えたように油を光らせ、相も変わらず遠くで太鼓が鳴り響いていた。
一度引っ込んだ涙はせきが崩れたみたいにあふれ出して、今度は止まらなかった。
何を言ったのかよく覚えていない。ただひたすら、不幸な自分の境遇への怨念を吐き出した。土地を転々とすること、凍えるような夜、草もない土地、辛い弓の練習、馬の振動、砂嵐、蛇の目――その全てが憎くて、言葉の限り撒き散らした。少年は黙ってそれを聞いていた。
それからわたしは、ことの発端たる首飾りのお守りを外し、その場に捨てようとして、
「それはだめだ」と少年に止められた。
腕をつかむ力は強くて、わたしはそれを振り払おうとしてしばらくもつれ合った。けれど疲れきってぐったりするまで少年は決して離さなかった。
太鼓の音は激しさを増し、乾いた夜の空気を急き立てるように震わせていた。
わたしは地面にしゃがみこみながら、少年が白い絹の衣服に着替え、香水のにおいを漂わせ、うっすらと化粧もしていたことに気付いた。
だけど今ので台無しだ、と思った。
そう言ったら、「これぐらい大丈夫だ」と少年は言った。
「ここから帰れるか?」
「…うん」
それを聞くと、少年はさっと広場のほうを振り返り、そのまま走り出した。
白い後ろ姿が暗闇にはためき、消えていった。
もときた道は行きよりも暗がりが深く、慎重に進んでいても何度もけつまづいた。
馬小屋の上から木に飛び移り、二階まで戻る。中は静かで、みんなには気付かれてないようだった。布団に入っても眠れず、そのまま夜明けが来るのを待った。かすかに響く太鼓の音は止まなかった。そこに笛の音が混じっていたかは分からない。
✳︎
青い朝焼けが、まばらに生えた草に影を落としていて、吐く息が砂気を交えて白く流れていった。
逃げるように脱出した早朝の町は昨夜の片付けに忙しく、熱冷めやらぬ様子だった。
穏やかな上下の振動がこんこんと眠気をもよおす。身体がふらついて、何度も馬からずり落ちそうになる。
「どうした寝不足か? しゃきっとしろ」後ろから叱咤の声が飛んでくる。
馬上にまたがって俯瞰する、無機質な大地がもう懐かしくて、それが悲しかった。
その時だった。おもむろに、低く間延びした音が、大気をぶるぶると奮わせた。
眠気や、ぼんやりと夢のように浮かんでいた昨日の映像は、その巨大で柔らかい音に塗りつぶされた。馬が目覚めるような声でいなないた。
音は、昨日聞いたのよりずっとかすれていて、ときどき途切れかけた。がさついた必死の音色だった。大人たちには聞こえていないみたいだ。
振り返ると、手のひらくらいの大きさになった城門の上で、指先ほどの点になった少年がいた。
大きく手を振ったところで、少年からは見えないだろう。よっぽど昨日のガラスのネックレスを矢尻に巻いて、少年の足元に突き立ててやろうかと思った。
前方を見た。
ひびわれた大地が果てしなく広がっていた。
笛の音は荒々しく波立ちながら、荒野の隅から隅まで響き渡らんとうなり続けた。