おかしな一日
数日前に過ぎ去って行った梅雨を思い出す。連日降り注いでいた雨とうだるような蒸し暑さに僕のやる気もめっぽう下がっていた。対照的に元気なのはカタツムリやカエルといった非人気的小動物の面々で、道中を蠢くその姿に余計に活力が減退したものだ。生憎僕も大多数の人間に漏れず哺乳類愛好派の両生類並びに爬虫類嫌いの一人であったために鬱陶しさしか感じることはなかったのだ。しかし春ごろには僕の通う大学に新たに入学してきた新入生の活気が眩しいとぐずぐずしていたような気もするし、ついでに言えば暑かろうが寒かろうが晴れてようが文句はある。今は蒸し暑さを通り越して突き刺さるような暑さを孕む七月であるが、例に漏れず基本的に不満しかない。
僕はどうも思考を浪費する悪癖がこびりついているということに気が付いたのはつい最近である。取り留めもないことを次々と思い浮かべることで時間と活力を大きく失うという点で非効率的だ。今頃梅雨時や春の頃の僕のやる気を比較することで何が生まれるというのか。【思考癖】という言葉は思考の癖……つまり考え方の癖という意味だけど、僕の場合考えること自体が癖になっている。
「あっつ……」
思考から飛び出した声が漏れる。本日も雲一つない快晴であり、日光は容赦なく地上に降り注いでいる。僕は今室内にいるとはいえ七月の暑さは室内外関係なしに人々にまとわりつき、僕も漏れなく被害者の一人だ。目の前の大きな木製机の中央やや左に置かれたオンボロ小型扇風機が巻き起こす微弱な風が今の僕の唯一の冷房であるが、更年期扇風機は生暖かい風を僕に提供することしか出来ずしっとりと僕の額も汗ばむ。最近前髪を伸ばしすぎたせいか、前髪が汗により額に吸い付く感触が気持ち悪い。白いシャツのボタンを2つめまで開けながら襟元をパタパタさせてささやかな冷をとると同時に、視線をなんとなく彷徨わせた。
8畳程度の古びた部屋。フローリングの床の上には、部屋の右に取り付けられている窓と、左の壁際に置かれた横長椅子。他には小さな横長机が点々と置かれている。入口には木製の引き戸が設けられているが、現在開けっ放し。今は歩道と道路。さらに道路の向こう側の歩道とお向かいの住宅が映し出されている。石畳の玄関には僕の革靴と、この建物の「所有者」である人間の草履が並べられている。玄関から入って正面、一番奥の壁際には椅子に腰かけた僕と大きな木製長机。玄関と僕の間には棚やら机といった家具は置かれておらず、一メートル程の幅のある道が出来上がっており、来訪者を僕が正面から出迎えることの出来る造りとなっている。部屋の高さはおおよそ三メートル。天井には古びた蛍光灯が数本。現在は玄関から入って右側に取り付けられた窓から差し込み、部屋明るく染める日光の存在により出番はない。
そして何よりこの部屋で特徴となっているのは、点々と配備されている小さな横長机の上に置かれた「駄菓子」の数々……。随分と部屋を見回したけれど、すなわちこの部屋は「駄菓子屋」として機能している。というところだけがこの部屋の重要点だろう。
そして店を見渡す僕はしがない大学生二年生であり、この駄菓子屋のアルバイトでもある。ちなみに玄関から入って最初の部屋……つまり今僕のいるこの部屋こそ駄菓子屋だが、建物全体で見ると古びた2階建て木造建築であり、店主である老婆(年齢不詳)の自宅でもある。ちなみにその老婆……通称「小梅さん」は現在僕の背中側にあるドアを隔てたリビングで今頃お茶でもすすっているところであろう。もしくは最近購入したらしいゾンビを駆逐するゲームの続きをしているだろうか。八十を超えているというのに元気な婆さんである。
何故僕がその小梅さんの元でバイトを始めたかというと、一年前、とにかく楽なバイトを探していた僕にとって偶然自宅近くのこの駄菓子屋の表に貼り出されていた「アルバイト募集」の紙が非常に魅力的であっただけであり、特別な理由は一切ない。給料は県内の最低賃金を百円近く下回っており、最近話題のブラック企業の定義に給料面のみならあてはまりそうだが、仕事内容の生ぬるさの方が、向上心が零を通り越してマイナスに振り切っている僕にとっては重要な要素であり特別気にならなかった。そもそもお金があっても両親に最低限の生活費を献上したら後はたまに服を買って、友人達との食事に行って……。そんなところだろうか。自分の生活の非充実っぷりに心が痛いが、きっと節約はいいことだ。うん。そうだよね。うん。
勤務時間は最寄りの小学校の放課時刻間近である三時から閉店時間の七時までの四時間を週に三日。そろそろ小さなピーク時がやってくるのだが、最近の子供たち(僕も世間から見れば相当しそうではある)は駄菓子よりも携帯ゲーム機を用いてヒゲのおっさんをカートに乗せて競わせたり、動物の徘徊する危険な村でスローライフを送ったりすることの方が魅力的であるらしい。僕が子供の頃はもう少し駄菓子屋のニーズは高かったような気がするけれど。まぁ案外有害な添加物たっぷりの駄菓子を貪るよりは健康的なのか……どっちもどっちか。最近は梅雨時の雨の増加に伴い小さなお客様達の来客数は減少していたが、やはり天気がいいと子供たちの野外活動は活発化するらしく、来客数の増加にもつながり店もそこそこの忙しさをみせていた。
とはいっても所詮は古びた駄菓子屋。客一人に対しての金銭のやりとりの規模は高くて三桁。基本は二桁程度の小規模っぷりであり、四桁、すなわち千円台の買い物が行われることは皆無だ。そのためお会計の計算はレジといった文明器具は通さずに、僕のあまり性能のよろしくない右脳を活用した暗算。時々スマートフォンアプリの電卓によって行われる。そのため記録が残らない訳であり、レジの違算を咎められるということがないので「お兄ちゃんこれ頂戴!」と小さな手からカウンターに置かれた数種類の駄菓子と小銭の価値が釣り合っていなくとも「はっはっは10円足りねーよ馬鹿」等と野暮な事は言わず見逃すこともある。付け上がって何度もお金を誤魔化そうとするクソガキ系小学生は流石に見逃してあげないが。
そんな小さなピーク時も勤務開始一時間経過……午後四時頃になると店を賑わせていた子供たちの高い声も少なくなり、暗算作業をしなくてもよくなった僕は額の汗を拭って一息つくと発注リストの記入作業に移る。発注とはいっても驚くほど適当な作業であり、少なくなった駄菓子名をリストに書き込むだけの作業である。あとは小梅さんと業者さんにお任せだ。そしてこのお会計とも呼べるかどうか怪しいレジ係と、いい加減な発注作業が僕の全仕事内容であった。この仕事内容でバイト代まで貰って。ただでさえ時代の流れで来客数も減少状況にあるこの店が潰れないのかと以前小梅さんに問いかけたことがあったが、金ならある。の一言で一蹴されてしまった。なんとなく背景が気になったけど下手に追求してクビになるのも嫌なのでほぉそうですかととりあえず頷いておいた記憶がある。まだこの楽な職場を離れたくはなかった。
古びたフローリングをみしみしと軋ませながらはしゃぐ子供たちはやはり時間と共に少なくなっていく。発注作業もものの三十分程で終了してしまい、いよいよ僕のやることもなくなってきた。暇と文句を垂れるのは欲深いかもしれないが、マズローの欲求階層説でも述べられているように自己実現の欲求を果たすという最も人間らしい欲求を満たすべく僕はもっと人の役に立つような仕事をしたいのである。真昼に比べれば少し柔らかくなったとはいえ、未だ部屋に差し込む夏の日差しを窓越しに見つめながら本心と真逆の事を考えて暇を思考で弄ぶ。例の思考癖だ。元々顔見知り以上になった人間に
「お前はぼんやりしすぎている」的な言葉を浴びせられることが多々あるが、このバイトを始めてから余計に思考の海に没頭する癖がついてぼんやりするようになった。これじゃ極悪卑劣な駄菓子万引き犯を見逃してしまう。実際子供たちからすればカモなのかもしれないな。今のところ万引き小学生に出会ったことはないが、裏では好き勝手されてるのかもしれない。今度少しだけ気を付けてみてみようなんて形だけ意気込んでみるけど、明日には忘れてる可能性は大いにあるな。まぁ少しばかり怠惰な日常に刺激が欲しいとは思わなくもないんだけど。
なんて思考の無駄使いをしている内に時刻は午後五時にさしかかる。数分前に来店した二人組の女の子が綿菓子を購入すると嬉しそうに笑いあいながら巻き上がる埃を残して店を駆け出て行くと、店に残る人間は僕独りとなった。まぁこの「建物」にはもう一人いるけどノーカウントでいいだろう。客に気づかう必要もなくなったので、椅子に浅く腰かけて後ろに大きく体を逸らせる。視線は天井を捉え、背中からは骨が僅かに軋む音。口からはかすかに漏れる吐息。僕もおっさんになったなぁなんて生意気なことを考えながら体をもとに戻すと視界はぐわんと再び正面を向き、店の入り口を通して道路と向かいの民家を映し出すはず……おや。
店の入り口から見える町並みを遮る遮蔽物……いやまぁ人間なんだけど。思わずいつも垂れ流しにしている思考を止めて見とれてしまったのは、この店の来客者には珍しい、僕と同年代くらいの若い女性だったからである。別に若い女性が来ること自体は何度かあったけれども、大概はデートついでに彼氏と一緒になんとなくよりました。という場合と女友達とノスタルジーを味わいに来た場合であり、今現在店の入り口にぼんやりと突っ立っている女性のように一人での来客は非常に珍しい。ツチノコレベルだ。
服装は紺色のシャツ、その上に薄手の薄茶色のカーディガンを羽織っており、下は空色のレギンスパンツと、服装自体は割と僕が大学構内で見かける女子大生にありがちなものであり特に目を引く要素はない。どちらかといえば特徴的なのは顔の方で、一応ボブショートっぽい髪形だが毛並がボサボサで、特に毛先はあらぬ方向に向いている亜麻色の髪。全体的に小顔であり、鼻や口といったパーツも小振りなのだが、対照的に大きくくっきりとした二重の目。髪の色と同じく瞳は亜麻色であり、少々目が大きすぎることから少しだけ不気味な印象を放っている。そして小さく両端が少し吊り上った猫のような口。身長は百五十くらいだろうか。小柄な体躯と顔のパーツも相まって……
「猫みたいだな」
「はい?」
思わず思考から漏れて口から飛び出した言葉にツチノコ女が小首を傾げる。おっといけない。なおも疑問を表情に浮かべ続けるツチノコ女改め猫娘(決して妖怪の類ではないのだろうけど)に「なんでもありませんと」一言述べる。というよりグダグダと珍しい来訪者の登場に面喰っている間に猫娘と僕の距離は一メートル程の距離にまで縮まっていたことに驚く。猫娘は自身の大きな目で僕を凝視しており、その容赦のない視線は僕の羞恥心を刺激し、思わず視線を軽く逸らす。怖いお兄さんに絡まれないための対処法みたいだ。
しかしいつまでも面喰らっている必要も恥ずかしがる必要もないだろう。確かに珍しい年齢層の来訪者である上に風貌も珍しい者だけど、結局駄菓子屋に来る理由など駄菓子を購入するだけだろう。気を取り直して一度逸らした視線を再び彼女に合わ
「強盗しに来ました」
……抑揚のない高い声が僕の鼓膜を微かに揺らす。なんか目の前の突然猫娘がよくわからないことを言いだしたけど何もなかったことにしよう。カウンターの傍に置かれた数冊の小学生向け漫画冊子を手に取り、表面を軽く払って埃を落としてペラペラと頁をめくる。
「もしもーし」
距離感五十cm。呼びかけと共ににゅいっと近づく猫娘の気配を感じながら、未来の猫型ロボットとダメ小学生の漫画が掲載された頁に目を通す。
「四次元ポケット欲しいですよね」
なに覗き見してんだこの野郎。思わず田舎のヤンキーのような台詞が頭によぎるが、とりあえず関わらない方が吉と判断して口にはださない。一貫して小学生向け冊子を読みふける大学生という若干悲しい構図を崩さない僕に対して諦めがついたのか、猫娘はキョロキョロと辺りを見回すと、ふらふらとスナック菓子が集中して置いてある棚に向かう。窓から差し込む光を栗毛の髪が反射し、金色の光となって僕の目に写りこむ。そんな幻想的ともいえる光景を作り出した猫娘はおもむろにスナック菓子をいくつか手に取ると、そのまま玄関へと向かっていった。ありがとうございましたー。
「……じゃねえよ。なにしてるんですか」
「ぬお、生きてた」
思わず引き留める僕に対して目を丸くして呟く。彼女には僕が死んだように見えていたらしい。それなら死んだことに対して驚いてほしかったものである。とりあえずそのまま店を出て行かれても困るというか許すわけにもいかないので諦めて会話を試みることにした。
「お金、払ってください」
僕が今いいたいことの全てである。
「そんなこと言われても、私は今サイフをもっていません」
店員からの当たり前の指摘になぜか得意げに言い放つ。ただでさえ暑いというのに、気だるさが物凄い勢いで上昇していくのが自分でも分かった。これは相手にしてはいけない類の人間だ。
「それでは商品を置いて帰ってください。ていうか何しに来たんですか」
「ですから強盗です。お腹がすいたと道端の小学生に聞いたら、あそこのお兄ちゃんは優しいから何かくれると言っていました」
僕の気力を振り絞った問いかけを受け流すかのようにちょいちょいと外を指さしながら猫娘がのんびりと話す。僕も友人にはのんびりしすぎていると指摘されるが、それ以上なのではないだろうか。というよりも彼女の場合のんびりを通り越して能天気という言葉の方が当てはまりそうではあるが。
「ふむふむ。しかし強盗等という野蛮な行動に移られると、あなたの両親も悲しみますよ。観念してください。そして店員が優しいから強盗をするという倫理観は非常に嘆かわしいですよ」
「いえいえ、私の親の職業は泥棒ですので。私の行動を誇らしく思うでしょう」
「なんと、一家そろってテレビに映る日を祈ってますね。主に逮捕中継で」
不毛な会話を繰り広げる。僕が小学生頃に思っていた大学生はもっとスマートで知的な会話を繰り広げるものだと思っていたけれど。こんな意味のない冗談だらけの間抜けな会話をしている僕をみたら、小学生の頃の僕はむせび絶望するだろうか。すまんな、幼き日の僕。
過去の自分に懺悔している僕をよそに、猫娘は途端におどおどした様子で手をあたふたとさせながら言葉を紡ぎ始めた。
「あの、ちなみに両親が泥棒というのは嘘でですね、母親は栄養士、父は……」
「ああ、はい。分かってますから結構ですよ」
「え、分かってたんですか」
驚いた様子で猫娘が息をのむ。僕が真剣に先ほどのやり取りに講じていたと思っていたのか。複雑な心境だ。
「あ、でも強盗をしに来たのは本当です」
「……そこは嘘であってほしかったです」
独自のテンポで話を進めていく猫娘に思わずため息が漏れる。この場に他の客がいなくてよかった。と心から思った。やんちゃな小学生が仮にこの場にいたら自体はもっと悪化していたに違いない。とにかく客がこの猫娘しかいない今のうちにさっさと追い出すことが僕の平和なバイト生活を守る最善の選択だ。
「まぁあれです。当店強盗は取り扱っておりませんので、申し訳ございませんが他店にお問い合わせくださいませ」
我ながらバイトっぽい口調だ。勤務史上初めてのまともな接客口調に一人感動に耽っていると、猫娘は心なしか落ち込んだように肩を少し落とす。
「そうですか……。駄菓子は食べたことないので残念です。他の店に当たってみましょう」
しょぼくれた猫娘。いや、サイフ持って来いよとかそもそも強盗の正しい意味を理解しているのだろうかとかそろそろ捕まるぞだとか色々と突っ込み要素が頭の中を駆け巡るが、僕にしては珍しく思考を通さずに好奇心のみで疑問が口から飛び出した。
「駄菓子、食べたことないんですか?」
純粋な疑問。その疑問は玄関に向けて歩く猫娘の耳に届いたらしく、「はい。親が栄養士なものですから。厳しい食事制限を潜り抜けてきたっす」とくるりと再び僕の方に向きなおす。
「ボクサーですかあなたは……。ふむ」
とりあえず軽い突っ込みをかましつつ思考を巡らせる。
何となく、何の根拠もないが、この猫娘は僕の生活に少しだけ「変化」を与えてくれるのではないだろうか。楽で退屈なバイト生活。怠惰な日々に満足しつつもわずかながら心の奥底で臨んでいた変化を。
改めて猫娘を見直す。当の本人もきょとんとした顔で僕を見つめる。そのぼんやりした顔からは特に意図を感じさせない。少なくとも僕のこの言葉を打算していることはないだろう……多分。
「一つだけ、奢ってあげましょう。今回限りですけど」
「ほんとうですか。わーいわい」
……正直あまり大きな変化は期待できなさそうだけど。
時刻は午後五時半。まだまだ日は落ちることなくセミの鳴き声も響き渡る中、店の左壁際の横長椅子に二人で腰かける。一つだけ奢るということで、せっかくなので店の中でも単価の高い、そこそこ世間でも有名な練り菓子を選択した。駄菓子名の他にグレープソーダ味と書かれたカラフルな包装紙を手で切り口から破っていく。二十センチ右側に座る猫娘からの期待に満ち溢れた視線が存分に注がれている。
包装紙の中から現れたのは、二つ丸いくぼみがある白いプラスチックのトレイと、二つのくぼみにそれぞれ収まった二種類の小袋。
「ん?駄菓子というものはすぐに食べられるものじゃないんですか?」
不可思議だと言わんばかりに眉を八の字にして猫娘が問いかける。
「まぁ基本はそうですけど。この駄菓子は例外です。それでは……ええと」
言葉が詰まる。話しかけようとして初めて気づいた。頭の中で勝手に猫娘で名前登録していたが、本名をまだ聞いていなかった。顔を見たまま口をぱくぱくさせる間抜けな僕の表情をみて察したのか、猫娘が口を開いた
「好きな食べ物はお寿司です。主に鯵なんかが好きですね」
「聞いてねえよ」
全く察していなかった。つれないですねと口を尖らせる猫娘を無視しつつ、必要な情報である名前だけを聞き出す。どうやら本名は「岩倉美緒」というらしい。本人曰く名字はゴツくて好きではないとのことなので、「それでは美緒さん」と口にする。そのまま駄菓子を完成させる工程を説明しようと思ったのだが、何やら目を丸くしてこちらを凝視する美緒さん。いや、元々丸く大きい瞳ではあるが、さらにサイズが拡大している。基本的には可愛らしいと言えなくもないがやはりこうなると少々不気味でもあるな。
「えーと、何か?」
「いえ、久しぶりに親以外の人に名前を呼ばれました」
「……そうですか」
はたしてそれは久しぶりに名字でなく名前を呼ばれたという意味か、久しぶりに人に呼びかけられたという意味か……。
前者か後者か彼女の性格上なんとなく想像がつくが、下手に追求して気まずい雰囲気になられても困るのでさらりと流しておいた。
「あ、私浪人なんですよ」
……自分から追加説明してくるとは思わなかった。そりゃ人と接する機会も減るか。こうなれば流す必要もないので「なるほど。どこの大学狙いですか?」と問う。流石に風貌的に高校受験ではないだろうし、浪人と言っても侍の類ではないはずだ。ちなみにその後「浪人といっても侍ではなくてですね」「分かってます」というやりとりが少しばかり行われたが割愛しよう
「父が教師ですからねぇ。県で一番頭のよい大学に行けとうるさくてうるさくて」
特に落ち込む様子もなく淡々と答えている。それにしても県内トップの大学か。僕はそこまで偏差値の高い大学に行っているわけではないことから下手に口出ししづらい。人生の夏休みを謳歌する私立大学生の僕。恐らく今のだらけきった僕より偏差値高いんじゃないだろうか、この子。まぁ目指してるだけで彼女の頭が悪いという可能性もあるけどさ。
「大変なんですねえ」
本心をそのまま口にしてみる。我が家の教育方針は割と自由だったからな。なんだかんだで私立の大学に通わせてくれた両親を思い出す。そこまで家族仲がいいという訳ではないが、思わぬところで両親に感謝することになった。
さてさて随分と展開が横道にそれた気がする。どことなくしんみりとした空気が流れる中、気を取り直して駄菓子づくりを再開することにした。
「それではまず一とかかれた小袋をトレイにぶちまけてください」
「了解ですー」
間延びした了承が返ってくる。切り口から小袋を破くと白い粉がサラサラとトレイへと注がれていく。決して危ない薬とかじゃなくて。
微かな粉塵が甘い香りをまといながら漂い、僕らの鼻腔を刺激する。この手の駄菓子も昔はよく食べたものだ。この駄菓子を大げさに調理する、怪しげな魔女に扮したおばあさんのCMが少し会話のネタになったこともあったな。
「それじゃー次、さっき組んできたそのコップの水を付属のスポイトで一の粉に垂らしてくださいな」
「あいあいさー。なんだか小学校の授業みたいですなぁ」
「ですなぁ」
適当に相槌を打ちつつ僕の隣に置いたコップを手渡すと、美緒さん……やはり猫娘の方がしっくり来る気がする。猫娘改め美緒さん改め猫娘は楽しそうにスポイトで水をくみ上げはじめた。
ちなみに水は数分前にカウンター後ろのドアを隔てたリビング……家主兼店主である小梅さんの生活空間に入り水道から汲んできたものだ。
さぼってるのかと問われたら水分補給ですと言い訳しようと思っていたが、小梅さんはちゃぶ台に乗せた自前の新型ノートパソコンでオンラインのFPSゲームに熱中していた。僕がコップに水を入れ終わると同時に、小梅さんの操作するキャラクターが相手のキャラクターを容赦なく撃ち殺していた。それを見てニヤリとする小梅さん。末恐ろしい高齢者である。
「おっけーですよー」
数分前の回想に浸っている間に作業を終えた猫娘がぐいぐいと僕の袖をひっぱる。口元が微かに吊り上り、目が輝いている。なんだか楽しそうである。父が教師で母が栄養士。お堅い子供時代を送ってきた彼女にとってはこんな安っぽい作業でも新鮮なのかもしれない。
水を浴びてどろどろとした白い液となった一の粉。なんだか卑猥な表現であるが気にしなーい。
「そんじゃ最後に、その二つ目の小袋を混ぜ合わせて終了ですよ」
「ほいほーい」
間抜けな返事と共に二つ目の小袋を破き、先ほどの液に降り注がせていく。今度の粉は鮮やかな紫色をしており、いかにも体に悪そうな色合いから合成着色料の存在がちらつくが、このシリーズは割と天然着色料を使用しているようだ。付属のプラスチックスプーンで混ぜ合わせていくと、どろどろの液であったものが少しずつなめらかなムース状になっていくのが見ていてもわかる。「おお、おお」と感動しながらスプーンをかき回す猫娘を見るのは少し微笑ましい。興奮のあまり足をばたばたと動かしているが、僕らが腰かけている古びた横長椅子がギシギシと不穏な音を奏で始めたので、やんわりと止めておいた。さて。
「よし、それで完成ですね」
「完成ですか」
手を止めて視線がトレイから僕に向けられる。キラキラと輝く瞳とそわそわとした様子はなんとなく犬っぽかった。猫娘のくせに。……いやまぁ僕の勝手なイメージなんだけれども。
とりあえず焦らす必要も特にないので、「どうぞ召し上がれ」と一言。
「いただきますね」
その言葉を待ってたぜと言わんばかりに素早くスプーンを口元に運ぶ。口元をもごもごさせながら味を念入りに確かめているようだ。やはり栄養士の血が騒ぐのだろうか。
「うむ……む、むむ?」
味わいながら唸り声を上げる猫娘。目が細まったり眉を八の字に顰めたり、ころころと表情が変わる。しかしこの反応はどうも……
「どうですか?」
「おいしくはないです」
「……まぁ所詮駄菓子だしねぇ」
ばっさりである。百円程度とはいえ人から奢ってもらったものに簡単にケチをつけるとは。別に僕が作った手料理をけなされてるわけじゃないからいいんだけれども。
少し複雑な心境の僕をしり目にもう一口。今度は味わいながら視線を彷徨わせている。そんなに辺りを見回しても駄菓子とほこりくらいしか見えないぜと内心思いつつ、あー、何話そうかなーと気まずい沈黙回避のために思考をめぐらせる。
「でも」
「ん?」
動きを止める猫娘。一旦スプーンをトレイに置き戻すと、顔を綻ばせながら僕に向き直る。
「面白い味です」
それだけ言うと再び練り菓子を口に運び始める。再び一口一口味を確かめながら。これほど真剣に駄菓子を味わって食べる人間はこの世にどれだけいるのだろうか。
間抜けに真剣な彼女の様子を見ていると、味にケチをつけられようが美味しく食べられようが、心底どうでもよくなって欠伸が漏れる。気が付けばいい意味で普段以上に脱力している僕がいた。
時刻は六時前、未だに明るさも暑さも衰えない夏の夕方。おそらく本日最後の客であろう男子小学生を見送ると、僕はぼんやりと今日の出来事……主に猫娘とのやりとりを思い出す。
数十分前の出来事ではあるが、あまりに普段のバイト生活とはかけ離れた出来事であったためいまいち現実味がない。遠い思い出の中の一つのような気がしてくる。
あのあと駄菓子を食べ終えた猫娘は、「勉強するかー」と突然いきりたち、「面白かったです。ありがとうございました」と軽くお辞儀をするとゴミを片手にふらふらと店を出て行った。二人腰かけていた横長椅子から一人分の重力が解放される。
……まぁ、こんなもんだよな。突然の出来事に驚きつつ、日常に微かな変化を望んでいた僕は一人店に残されため息をつく。あの変人とはもう少し話してみたかったけれど。
とはいえ元々平凡な生活を愛する僕である。普段とは少し違う一日を送れただけ十分かと自分に言い聞かせると、軽い落胆を心の中から浄化するよう努める。
そんなことより帰ったら何しようかな。そういえば心理学のレポート提出期限が迫っていたような気がする、ここはひとつ教科書を読みなおして……
「のわっ」
情けない声を上げる。僕の視線の先には、玄関口から顔だけを覗かせる猫娘の姿。体が建物に隠されて顔だけを浮かばせるその光景はさながら幽霊のようであった。驚きのあまり反応に先を越されて言葉がでない僕よりも早く、猫娘が自前の高い声を店に響かせる。
「このお店はとても気に入りました。また近いうちに来てもいいですか?」
……一瞬の沈黙。僕の虚を突いた猫娘の問いかけ。
僕は玄関から僕の反応を待ちわびる猫娘に向けて、普段無駄遣いする思考を止めて、代わりに普段ほとんど力を入れることのない声帯に少しだけ活を入れて。
「またのご来店をいつでもお待ちしております」
精一杯の接客語を彼女に送った。
似合わねー。と吹き出しあう猫娘と僕。
その直後背後の壁、すなわちリビングから壁ドン(やかましいと壁越しに抗議の念を送る方)された。小梅さんにとっては耳障りだったらしい。
……と、まぁこんな出来事があった。今思うと何熱くなってんだ僕と悶絶したくなるが、何はともあれただでさえ好きだった穏やかな日常に、ほんの少しの変化をもたらすことには成功した……っぽい。
あの時駄菓子を奢らなかったら……。案外今回の些細な変化に限らず、人生を変えるのは一瞬の判断なのかもしれない。どうやら僕は今回良い判断をしたようだ。
そういえば僕バイトだし、いない日もあるんだけど。その辺説明したほうがよかったかな。なんてことを思いつつ、再びカウンターに置かれた小型扇風機の前で頬付き、あの変人と再び会話できる日を静かに待ち望むのであった。