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掴めない雲

作者: 山中小春

「君は何度やっても数学が苦手なようですね。昨日、教えた問題をまた間違っていますよ。」でたらめな数字をただ何となく、思いつくままに羅列しただけの答案用紙に青いスリッチのペンで×印をつけながら、そうため息をつく、ここの塾の講師。広瀬なつ。身長180cmと細身の体型で、薄いピンクのフレームの眼鏡を掛けている新米講師。なつから、返された×だらけの答案を眺めながら、私は心の中で思った。私は、数学が出来るようになりたいとか、有名な偏差値の高い学校を目指しているわけではない。

ただ、なつの横顔を見たかっただけだ。あの寂しそうな横顔をこの目でずっと見てみたい。そう思って、この塾に入ったのだ。

そんな私は勿論赤ペンで解説を書き写そうともせずに、「先生は、夏生まれなんですか??」とふと頭に浮かんだ質問をなつに投げ掛けた。×だらけの答案用紙に、゛なつ゛と書き連ねながら。そうして、横顔をこっそり覗き見する。

淡いオフホワイトのYシャツをパリッと格好良く着こなし、第2ボタンまで開け放たれた胸元に見とれていると、ワインレッドの細いタイプのネクタイの延長線上にのびる喉仏がかすかに動いた。

「どうなんでしょうね。」

期待していたのに、なつの口から出た台詞はたったのこれだけで、私を落胆させた。7月か8月か、はたまた9月の頭か…と頭の中で連想していたというのに…。まるで他人事のように、なつにそう、かわされてしまった。「自分の誕生日なのに覚えてないわけ…。」゛ないじゃない゛と言おうとしたとき、課題をポンと渡された。

「私のプライベート事情など、聞いたところで数学が出来るようになるわけでもないでしょう。さぁ、次の問題を解いて下さい。」

なつに淡々とそう言われて、シャープペンを一応は握ってみたものの、ただの一問も解けない。私は、別な生徒に教えている、なつの後ろ姿や、私のすぐ脇に置かれた、クルクル回る丸椅子の上に無造作に広げられている、なつのペンケースを見ていた。 多くの先生や生徒が筒型や長方形のキャラクター物を持っている中、彼の筆箱は、一風変わっていた。消しゴム、シャープペン、赤や緑の三色ボールペンと中身は至って普通だが、助六に入った太巻きやかんぴょう巻きのようにクルクルと巻いて、最後に紐で結ぶタイプなのである。しかも、素材が麻布で、縄文土器に描かれた文様のような模様がプリントされている。そのとき、「出来ましたか??」彼は、私を名前も名字も呼ばずに唐突にこちらへ向いた。私が我に返って、「わかりません。」と言うと、「向上心がありませんね、君は…。」と軽く苦笑いをされた。彼は呆れながらも、か細い手でシャープペンを握りながら、三平方の定理云々を丁寧に教えてくれたけれど、私はずっと指先しか見ておらず、内容はちっとも頭に入ってこなかった。

すると突然、彼の汗がポトリと私の頬に滴り落ちた。

「すみませんね。」彼はポケットから、無地の白いハンカチを出して、私に向かっておずおずといった感じで差し出してきた。

「ありがとう。」私はそうお礼を言ったけれど、ハンカチでは汗を拭おうとはせずに右手の人差し指で、その滴をすくって、ペロリと舌にすべらせた。塩辛い。

「なつの味がする。」私が言うとなつは、困ったように笑っていた。

「先生と呼びなさい。」ただ一言そう言って、私の左手からハンカチをそっと抜き取り、再びポケットへしまってしまった。 そのうちにチャイムが鳴ると、彼は宿題の箇所に丸印をつけて、言った。「教科書を見ながらでもいいですから、きちんとやって来て下さい。」私はそれには答えようとはせずに、「なつの誕生日はいつなの??」と尋ねた。彼は笑って、「君の誕生日はいつですか??」と逆に質問してきた。

私が戸惑っていると、「人にはね、答えたくない事もあるんです。」と言うので、慌て、「5月15日です。」と早口に言って、教室を出てきてしまった。

5月15日は明日だ。私は、なつの誕生日を聞きたかったのに。その日、私は疲れはてて、ベッドに突っ伏すなり、眠りについた。

次の日、いつものように塾へ行くと今日も、なつが私の担当だった。「こんにちは。」私がそう言うと、なつは「ああ、こんにちは。」といい、テキストを取るために腰を浮かせたが、ふと思い出したように振り向いて、

「そう言えば、誕生日オメデトウ。はる。」そう言って席を去って言った。なつ、覚えていてくれたんだ誕生日もそして、私の名前も。

私の親は単純で、はるに生まれたからと私にはると名付けた。立花はる。私のフルネームだ。良く、平仮名の名前は、意味がなさそうにみられがちだけれど、私は自分の名前が好きだ。

もしかして、なつも夏に生まれたから、夏にちなんで、<なつ>という連想もやはりここから、来たのだろう。

そんな事を考えながら、にまにましていると、なつがテキスト片手に戻ってきた。

「さぁ、始めますよ。」今日は蒸し暑い日でさすがのなつもシャツを二の腕までまくり上げていた。色白の肌に映えるようなアザを見つけたのは、まさにその時だった。

「先生、アザ…」私が指差すと、彼はああと言って「これですか。聞きたいですか。はるは知りたがり屋だから…。」

「もちろん。」私が答えると彼は、「それでは、まず課題を終わらせてしまいましょう。」と言って、いつもより、10分早く、勉強を切り上げてくれた。

そして、アザについて語り始めた。「これはですね、一言で言ってしまえば虐待のあとです。私の両親は、早くに離婚し、女手一つで私を育ててくれた母は、水商売で何とか私を養ってくれましたが、無理がたかってったのでしょう。ストレスが溜まり、やがて幼い私に暴力を振るうようになりました。アザだらけの私は、やがて逃げるように毎晩夜の街を徘徊し、児童養護施設へと引き取られました。正確には、警察から児相にですが…。あのあと、母は育児放棄の罪で捕まったようです。もっとも私は、母が悪いとは思いませんが。」私は息を呑んだ。なつがそんな過去を持っていたなんて…。「なつ…。」

「この話は今夜限りにしましょう。塾にプライベートは一切禁物です。今日はあなたが聞きたいと言いましたので特別に。それに、はるの誕生日でしたから。」なつはそう言って、「今日はもう終わりですよ。良いBirthdayを。」と講師室へと姿を消してしまった。私は、そのか細い後ろ姿をいつまでも見つめていた。

次の日、少し風邪気味であった私は、だるい身体で少し遅れて、塾へ行った。頭がズーンと重たくて、薬を飲むのも忘れて…、私は机についたものの、ぼんやりとしていた。すると、何処からともなく、なつが現れて、いつかの白いハンカチを手渡してきた。くるくると丸められたそれを開いてみると、頭痛薬と思われる痛み止めが入っていた。ハッとなつの顔を見ると、意味ありげな顔で微笑んできたので、この人は不気味な顔して…と思っていると「僕の彼女と同じ顔をしていたので、つい…。」となつが言った。

「彼女がいるの??」私が聞くと「ええ、いけませんか。彼女がいつも具合の悪いときに、あなたと同じ青ざめた顔をしているので、頭痛薬を常備してるんです。僕も良く使いますが。」

彼はさらりと言った。

彼女、彼女、彼女…この二文字だけが私の脳内を慌ただしく駆け巡った。好きだったのに、なつの事…。私はすっかり、後の授業に身が入らずに終始上の空だった。

「ちっとも聞いていませんでしたね、君は…。」なつに呆れ顔で言われてしまった。

「なつの彼女さんは、いくつ??」私は、咄嗟になつに尋ねた。「私が23ですから…31になりますかね。」なつは、指折り数えてそう答えた。31歳…なつはこんなに年上の人が好みなのか…。私が何も答えられずにいると、「人妻ですからね。仕方ありません。」となつが言った。「それでもなつは、幸せなの??」気付けば私は、机から身を乗り出していた。「成り行きです。彼女も私を嫌いではないでしょうし、私もまた彼女を嫌ってはいませんから。」そう答えたなつの表情は、実際の年齢より、大分大人びてみえた。成り行きで人をそこまで果たして愛せるのだろうか。私にはとても無理だ…。私はずっと握りしめていた、メールアドレスを書いた紙をなつに突きだし、後ろも振り返らずに塾を後にした。

家に帰って、なつのくれた頭痛薬を眺めていた。結局、こんな薬を飲まなくても、なつが側にいただけで痛みはなくなっていた。なつは何か不思議な力でも持っているのだろうか。そんなことをぼんやり考えていると階下から、夕飯だと叫ぶ母の声がしたので降りていった。

再び部屋に入ったのは、入浴を済ませたあとで、濡れた髪から水滴を滴らせたまま、デスクに向かうと、暗闇で携帯が点滅していた。何気なく開いてみると、見知らぬアドレスからの受信メールだった。まさかと思い、受信BOXを開けた。

゛初めまして。

このアドレスは、はるで間違いありませんか??

もし、はるならこれからはちゃんと、先生と呼ぶように心掛けてください。


あと…お大事に☆

広瀬゛

なつがメールをくれた。それだけでただ嬉しくて、夢中で返信を打った。

゛はるです。

メールどうもありがとう。

なつの方が似合うと思います。

はる゛

でも暫く返信は来なくて、待ちくたびれた私はやがて眠りについた。


翌朝、目覚めてすぐに携帯をチェックすると受信メール1件。

゛0:32

Re:どういたしまして。

おやすみなさい。


はるで当たっていてほっとしました。

なつと呼ぶ人は、はるしか居ませんから。

nathu゛

そうなんだ。彼女さんは、なつの事を何と呼ぶのだろう。なっちゃん、広瀬さん、広瀬…

゛おはようございます。

彼女さんは何て呼んでるんですかぁ、なつの事゛

私は知りたくて、すぐに送信したけれど、塾に行く時間になっても、音沙汰がないので、それなら直接聞こうと颯爽と家を出て行った。高鳴る胸のベルを押さえながら、塾に着くと、今日の担当は、何と塾長だった。なつ、なつ、なつ…私の脳内を駆け回る。問題を解く振りをしつつ、塾長に所在を尋ねた。「な…広瀬先生は、いらっしゃらないんですか??」「何でも、急用が出来たそうで今日は1日休みだそうだよ。」と太い声が返ってきた。

その後、私は何故、休んだのかすぐにメールを送ったが、ようやく返信が返ってきたのは、夜の9:00を回ってからだった。

゛返そうと思っていたのですがすみません。風邪を引いてしまったもので、今は寝ています。

呼び方ですが…なつさんですかね゛

熱があるのかしら、私は居ても立ってもいられずに再び塾へ戻り、忘れ物をとりにきた口実で講師方の連絡先リストをこっそり、くすねてきて、道すがら、コンビニへ寄った。リンゴだのヨーグルトを買い込み、リストに記されたマンションへと急いだ。ピンポン。震える手でインターホンを押すと、暫くして、ドアがそろりそろりと開いた。部屋着姿のなつの目は驚いていた。

「どうして、君がここにいるのですか??」

「お見舞いです。」私はそう言ってコンビニの膨らんだ袋を掲げてみせた。

「連絡先リストまで持ってきて…全くいけない生徒ですね。」私の左手に握られたリストに目を向けた彼は顔をしかめて、それでも、掃除してませんけど、構わないのなら、どうぞと私を招き入れてくれた。なつは掃除をしていないと言ったが、中に上がると余計な物が一切置かれておらず、部屋はさっぱりとしている。リビングの机には塾のテキストが山積みになっていた。私は台所を借りて、林檎を向き、なつの寝室へと運んだ。なつは枕に頭を埋めて、本を読んでいた。小難しそうな本で、いかにもなつらしいなと思った。「良かったら、食べて下さい」私が林檎の入った器を差し出すと、「どうもありがとう。君は変わっていますね。たかが塾の講師である私の所に、飛んでくるなんて。」苦笑しながら、なつはそう言って、いつもなら赤ペンを握っているはずの右手で不細工なウサギ林檎を1つ掴んで、サクッと栗鼠みたいな前歯で噛んだ。「季節じゃないはずですが…美味しいですね。どうもありがとう。」なつに二度もお礼を言われたはるは嬉しくなった。

「熱、ないんですか??」

我に返って私がそう尋ねると、彼はケロリとして、「ええ、いつもの慢性頭痛です。」と言ってのけたので、しばし面食らった。それでも一応、頭痛薬と水の入ったコップをおずおずと彼に差し出すと、「お気遣いありがとう。でも生憎5箱も買い置きがあってね。君、入りませんか??というか、昨日、あげた薬、飲みましたか??」なつは軽く首をかしげて、そう尋ねてきた。

「いいえ。なつを見たら、治っちゃいました。」今度は、私がケロリと言ってのける番だった。

「そうですか。私の彼女と同じですね。」と含み笑いで彼は答えた。

彼女…、私の膨らみかけていた風船みたいな心がその言葉で、一瞬にしてしぼんでしまった。すると、なつは何を思ったのか、「大丈夫ですよ。普段はあまり会いませんから、彼女とは…。」と言った。けれど実際に窓際に飾られた写真には、今よりも幾らか幼さの残るなつと目の綺麗な女性が寄り添うようにして、写っていた。

彼は、私の視線を追って、

「あすかさん…」

と呟いた。

「彼女さん??」と尋ねると彼は「ええ。」と静かに笑った。

「綺麗な名前ですね。」

と私が言うと、

「私は、君の名前も好きですよ。」と言われた。何だか心を読まれているみたいだ。

その時、ふと質問がひとつ浮かんだ。

「なつの名前の由来は??私、なつの名前、好きなんです。」思わずそう言った。心臓が今にも飛び出さんばかりにバクバクいっている。彼は考え込むように、ウサギ林檎をまた1つ、手に取って、サクッとかじった。

「そうですか。夏生まれだったからではありませんか??物心つく前に別れてしまったので父にも母にも聞いたことがないですけど…。」言い終えた彼の目は何処か遠くを見ていた。それは、例の寂しそうな横顔だった。 「教えてくれてありがとう。」わざとハイテンション気味に私は答えた。彼に笑顔が少し戻ってきたような気がした。

そして、私は彼にこう言った。「なつは私が守るから。なつの小さいときの傷、私が癒してあげるから!!」

私が言い終わらないうちにふっと視界が揺れて、温かい人間の温度に包まれた。なつだった。なつが右手にウサギ林檎のかけらを持ったまま、私を優しく抱きしめたのだった。

「…なつ…苦しいよ…。」

私がなつの腕の中でそう言うと、やがて静かに波が引くように手が離れた。

「ありがとう。はる。もう…その言葉だけで充分ですよ。」

その言葉に私は何故か切なくなった。どうしてこの先生は、プライベートをガチガチに固めた、隙間から、こんなにも純粋かつ無垢な心を晒け出すのだろう、しかも、私のような不真面目な生徒に…。先生は、私をどう思っているのだろう。生徒??友人??それとも…??

「先生は優し過ぎます。」

私はなつの目をまっすぐ見つめて言った。まともになつを先生と呼んだ。すると、なつもまっすぐに私を見つめ返してきた。「はるも私の彼女でもないのに、彼女でもしないことを私にしてくれますね。貴女といると良くわからない感覚に包まれます。」

彼女でもしないこと…!?

「なつ、今度何処かに行こう。ドライブしよう。」

私は思わず調子に乗って、声を弾ませた。すると

「そうですね。」

と彼は答えた。そう、静かな笑みを浮かべながら…。

「いつにする??」

私がそう言ったのに

「いつがいいでしょうね。」

となつにはぐらかされてしまった。何故…??私が子供だから??彼女じゃないから??私は明日にでもドライブに行きたいのに…。私が心の中で、そんなふうにくすぶっていると、彼は思い出したように口を開いた。

「はるは、将来何になりたいですか??」

「え??」

私は開いた口が塞がらない思いだった。

「私は…保育士か児童心理司になりたいです。」

唐突で幾らか戸惑ったものの、幼い頃からの夢を挙げてみた。すると彼は

「いい夢ですね。是非、叶えて下さい。」

とにっこりと微笑んだ。私はこの機会にと思い、反対に尋ねてみることにした。

「先生の夢は、何ですか??やっぱ…先生ですか??」

何気なく尋ねてみただけなのに彼は、頭を抱え込んでから、ようやく口を開いた。律儀な人だ。

「私の夢ですか。そうですね。もっと世の中の事について、深く知りたいと思っています。人生、勉強の連続ですから。私は勉強も学校も好きなんです。一生通えたら、どんなに良いものだろうって、思いますね。でもきっと、はるは逆でしょうね。資格を取るためだけに、上の大学なり、短大なりに進むのでしょう。でもまぁ、夢を持つことは、良いことです。はるがもし、保育所を経営するところまで、昇進したのなら、私はそこで子ども向けの塾でも開きましょうか。随分先の話ですがね…。」

なつと同じ職場。想像しただけで夢のようだった。

「なつは結婚しないの??」

私の質問は、とうとうそこに行き着いた。1番聞きたかったこと。

「どうでしょうねー。先の事は何とも言えませんから。はるは少し先を急ぎがちです。今を見つめてみてはいかかですか??人生の中で青春なんて、一度きりですよ。はるらしく生きて下さいね。後悔しても、もう今の15歳のはるには戻りたくても戻れませんよ。私だって、本心は、高校生、大学生に戻りたいですから。」さらさらと彼はそう答えた。私が思っているより、なつはずっとずっと大人だった。「なつ…。」

なつの言いたいことすごく分かるよ。だけどなつは、この先あすかさんと結婚が例え叶わないと知っていても、それでもあなたは幸せなの??私みたいな子供よりも、ずっと大人のあすかさんをとるの??私の胸の奥では、そんな様々な思いがぐるぐると、まるでメリーゴーランドのごとく絶えず回り続けていた。

すると、そんな沈黙を破るかのように携帯の着メロがどこからともなく流れてきた。曲名はコブクロのSTAY。私の携帯じゃない。とすれば、なつの携帯だ。なつは、私に短く「失礼」と会釈して、電話に出た。

「もしもし??えっ、あすかさん??はい…はい…分かりました。お伺い致します。」そう言って、彼は電話を切るなり、仕事用のスーツに着替え始めた。

「あすかさんの所、行くんですか??」

「ああ、ちょっと行ってきます。適当に帰りますから、お腹が空いたら、冷蔵庫にあるもの適当に摘まんでいて下さい。」彼は手短に私に用件を伝えると、風のように去っていった。残された私は、途方に暮れてしまって、冷蔵庫から自分で買ってきたヨーグルトを取り出して、無言で食べる他なかった。あすかなんて人、居なくなればいいのに…と思いながら。

その頃なつは、あすかのマンションに来ていた。合鍵をドアに差し込んで開けると、電気のついていない、薄暗い廊下にあすかはうずくまっていた。

「あすかさん…。」

なつが優しく声をかけると、顔をあげて笑みを浮かべてくれた。この笑みがなつはたまらなく可愛いと思う。

「抱いて…。」

突然あすかが言った。

「え??」

なつが戸惑うと

「なてに抱いて欲しいの。」

僕はこの時、初めて彼女の手以外の場所に触れた。柔らかで艶のある茶色く長い髪、形の良い眉、マシュマロみたいなほっぺた、頼りなげなほどに細い肩、可憐な睡蓮のような乳房。僕はまず、右手て片方の乳房を優しく包み込む。彼女が感じるまで何度も。すると彼女にスーツを脱がされ、。僕の下半身があらわになる。かすかに濡れていた。そして、僕の性毛に隠れるように存在していたそれを、幸せそうに手で撫で、口に含んだり、舐め回したりしていた。気がつけば、僕も彼女の乳房にかぶりついていた。

「あ…ん…ん…」彼女の幸せそうな荒い吐息。もっともっと触れていたい。彼女の夫の変わりでもいい。しかし彼女の手は次第に僕を離れた。

「楽しかった。ありがとう。でももう、夫が帰って来る頃だから、なつさんもそろそろ帰った方がいいわ。」

物足りないと感じた僕だが、人妻に言い返せる立場でもなく、とぼとぼとあすかのマンションを後にした。自分のマンションへ戻ると、既にリビングの明かりは消えており、わずかなテーブルランプだけが灯っていた。食卓の上には、ラップのかけてある卵粥と野菜スープ、そして癖のある字体で一言、「温めて食べて下さい。」と書かれていた。僕はそれを電子レンジで温め直し、全て平らげて、寝室に向かった。昼間、僕が寝ていた場所で、今度ははるが寝息をたてている。

時計は既に11:30をさそうとしていた。はるの布団が無造作に7捲れているのが、何となく気にかかり、そっと直した。可愛い寝顔が愛しくて、「お粥、ありがとう。美味しかったです。」と思わずお礼を言ってしまった。そして、僕は居間のソファーで毛布をかぶり、眠りについた。

翌朝、小鳥のさえずりで目が覚めた僕が被っていた毛布を剥ぐと、眩しい日射しと共に味噌汁のどこか懐かしい匂いが僕の嗅覚を刺激した。普段、滅多に使うことのない備え付けのキッチンに、ぶかぶかの青いタータンチェックのエプロンをかけたはるが立っていた。僕は起き上がって、そっと彼女に近づいた。「おはよう。朝食作りですか??」僕がはるの小さな背中に向かって、そう声をかけると彼女はくるりとこちらを振り返った。「そうです。だってなつときたら、さっぱり料理作ってないでしょ。ゴミ箱にカップ麺やら出来合いの弁当の空の容器が大量に捨ててあるの、みましたよ。」

僕は裸を見られたような気分だった。この生徒は、どうしてこんなにまで僕をいたわるのだろう。単なる親切心にしては、違い過ぎるし、ひょっとして僕に好意を抱いているのか…??だとしても、僕が彼女に応えることは出来ない。例え、どんなに彼女が僕に優しく接してくれたとしても…。所詮、僕と彼女の関係は、先生と生徒なのだ。

そう、自分に言い聞かせていると明るい彼女の声が、僕の頭上にふりかかってきた。

「なつー、先食べちゃうよ。出来たよ。」

我に返り、いつもならガランとしてるはずの食卓を見ると、具だくさんの味噌汁や、炊きたての真っ白いご飯が美味しそうに湯気を立てていた。それに、なつの大好きな卵焼きも。

「ああ、どうもありがとう。」僕はそう言って、彼女の向かいに腰掛けた。そして、丁寧に両手を合わせる。

「では、いただきます。」

僕がそう言うと、彼女も僕に続いて、「いただきます。」と手を合わせた。

僕は、好物の卵焼きを器用に箸で切り分け、口に運んだ。口の中に含んだ途端、ふわっとした甘さと良く利いたダシの風味が広がる。今まで食べた卵焼きの中でも、絶品の味だった。

「はるは、料理が上手ですね。」僕がそう言って誉めると、彼女は顔を赤らめた。

「そんなことないですよー。」

「まぁ、久しぶりにまともな食事が頂けて、嬉しいです。」僕はそう答えて、味噌汁を啜った。

「何なら私、毎日作りに来ますよ。」

卵焼きを頬張りながらそう応える彼女の顔は、喜びに満ちていた。

「もし、私がいつか頼むようなことがあれば、その時はお願いします。」

僕もまたそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。

「ピンポーン」

その時、和やかなムードを引き裂くかのように玄関のチャイムが鳴り響いた。僕が玄関に向かうと、昨夜聞いたばかりの声がドア越しから聞こえた。

「なつさん、いる??あすかだけど。入るわよ。」

僕が開けるより先にドアは、あすかの合鍵によって開けられ、昨夜より幾分明るい顔が覗く。「上がるわよ。あら、お客さん??」

あすかは、チラッとはるの白いスニーカーに目を落としたが、気に止めることなくズカズカとリビングに向かう。僕は慌てて、後を追いかけた。案の定、あすかとはるは、お互い奇抜な雰囲気を醸し出して、向かいあっていた。

「誰、この子。なつさん、私に黙って二股かけてたのね??」

あすかの目がキッと僕を睨む。僕は慌てて否定した。

「ち、違う。この子は僕の生徒だ。勉強を教えていたんだよ。」

「ふーん。でも幾らなつさんの生徒だからって、自宅に招くこともないんじゃないかしら。勉強なら、尚更のこと塾で教えれば良いだけのことよ。」

「ち…。」

僕が2回目の否定を口にしかけた時、

「ごめんなさい。勝手に来てしまって。帰りますから。広瀬先生、どうもありがとうございました。」はるだった。肩が小刻みに震えており、睫毛が濡れていた。早足ではるは、玄関へと向かう。


僕が向かうより、先にあすかがはるを追いかけた。

「やめろよ。」

僕の叫びも虚しく、はるはあすかの手によって、捕らえられた。

「ちょっと待ってよ。」怯える目ではるが振り向くと、あすかの目は恐ろしく光っており、思わず目をそらしたくなった。

「なつさんが本気であなたを好きになると思ってる??」

そんなあすかの問いかけに、はるは何も応えることが出来ずにいた。

「いい??なつさんは、あなたみたいな子供は相手にしないわ。私は人妻だけど、心の底から、彼を愛してるの。あなたに本当の愛が分かるはずないわ。」

あすかは物凄い剣幕で、そうまくし立てた。それでも、私は怯まずに口を開いた。

「でもご結婚なさっているあすかさんは、なつを幸せには出来ないでしょう。あすかさんにとっては良くても、なつを苦しめるだけではないでしょうか。なつとの再婚を考えているなら、別ですけど…。」

言い終わらないうちに私の頬にビンタが飛んできた。

「わかったような口利かないでよ。小娘のくせに。」

顔を真っ赤して、勝ち誇たような顔であすかは、そう言い放った。

僕は、それ以上2人を見過ごすことが出来ずに、

「やめろよ。もう2人ともやめろよ。」

と両者の肩を抱いた。

「俺が悪いんだ。俺、塾辞めるから。」

え…なつが塾を辞める。はるは頭の中が真っ白になった。喜んだのはあすかだった。

「ええ。そのとおりよ。こんな小娘の授業、受け持つことないわ。あら、いけない、出勤の時間だわ。」とあすかは呟き、手短かに昨夜のお礼の旨を早口なつに伝えると、足早にその場を去って行った。

残された私たちは、お互いしばらく無言だった。多分、私もなつも同じ心境だったのだろう。やがて、しびれを切らしたようになつが口を開いた。

「はる…ごめんなさいね。僕…塾は辞めますけど、 はるは、これからも頑張って下さいね。」「やだ。そんなの。やめないで…なつ。なつがやめるなら、私も塾やめるよ。」

たまらなくなって、私はそう叫んだ。

「はる…良く聞いて下さい。」なつは、静かに私を見つめた。真っ直ぐに、そして寂しそうに。

「いいですか。私と君の関係は、言うまでもない、先生と生徒の関係です。今回の外泊は、目をつぶりますが、もうお見舞はしないように、同時に私の自宅にもむやみに足を運ばないように約束して下さい。以前にも他人のプライベートにはあんまり、足を突っ込まないように言ったでしょう。いいですね。」

彼の目は、真剣そのものだった。私は涙をこらえられずにいた。涙が頬をつたる。

「…私は、あなたが好きでした。あなたがいたから、塾にも通い始めたの。」

「知っていましたよ。」

私の心を読んでいたのだろうか、なつは静かにそう答えた。

「なつはこれから、どうするんですか??」

私がそう尋ねると、

「自分探しの旅に出ます。」

と爽やかに返された。

「また、いつかどこかで会えるでしょう??必ず会えるでしょう??そしたら、今度こそ何処かに…。」

私が言い終わらないうちに、なつの声がかぶさった。

「焦りは禁物ですよ。会えるといいですね。その時を楽しみに待っています。」

彼は、例の寂しそうな笑みを浮かべると、じゃあと言って、自分の部屋に戻って行った。

「なつ…。」

私はしばらく、彼の部屋のドアの前にうずくまり、いつまでも泣きじゃくっていた。


翌日、なつに会いたくてたまらなくなった私は、泣き腫らした目で塾へ向かった。

そっとドアを開けると、電気もついておらず、ガランとしていた。やっぱり来てないか…。私が帰ろうと再び靴に足をいれかけたとき、背後から声がした。

まさかと思い、後ろを振り向くといつものスーツ姿のなつだった。「良かった。怒ってしまってもう来てくれないのではないかと思っていました。」

特に約束を交わしたわけでもないのに、彼はいつになく優しくそう言って微笑んだ。

「私はなつに会えるのなら、例え毎日だって来ますよ。」

これは本当だった。祝日でも休日でも、いつだってかまやしないと本気で思った。

「君が何と言おうと、私は塾を辞めますし、彼女とも別れないでしょうね。」

私が何と願おうが、彼の決心が揺らぐことは決してなかった。途端に私は、たまらなくなってその場にしゃがみ込んだ。みるみるうちに床のカーペットが水玉模様に彩られていく。

いつまでもそうしていると、耳元で何かがかさばった音がした。驚いて思わず顔を上げると、なつが私の前にしゃがんで何かを差し出していた。良くみると水色のシンプルな封筒のようだった。

「君に手紙を書きました。多分旅に出たら、メールも通じなくなると思いますし。」

「なつが手紙…??ありがとう」

私は両手で丁寧に封筒を受け取り、胸いっぱいに深呼吸した。なつの匂いが身体に染み付いた気がした。

「さあ、君に手紙も渡せた事ですし、私は帰りますか」

彼はそう言って、両手いっぱいに荷物を抱え、ドアノブに手を掛けた。

「いつまでも君らしく、堂々と胸を張って生きなさい。」くるりと彼は振り向いて、そんな言葉を投げ掛けてくれた。私の顔は涙でグシャグシャだっが、無理矢理笑顔を作り、微笑んだ。

「はい。」

「じゃあ、またいつか。それまでお元気で。」

カツカツカツ…彼の革靴の音が次第に遠ざかってゆく。ああ、今彼と私の歩んできた道は、別れ道に入ったのだな、と思った。きっとまた、いつか交わる可能性のある道…。窓越しから、そっと外を覗くと、真っ青な空の上に真っ白な雲がたったひとつ、ぽつんと浮かんでいた。

それは、まるでたった今、旅へでたなつのように、はるには見えたのであった。





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[気になる点] 「私は、別な生徒に…ケースを見ていた。」の文章は少しくどいと思います。「無理がたかる」のではなく「無理がたたる」です。他にもいくつかの誤字がありました。 [一言] 文法事項を守ると読み…
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