表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/7

(七)


 翌朝、彩子は普段よりもかなり早く家を出た。

 夏場に生い茂った雑草が、飛鷹家の庭がひどく目立つ。

 その中で、早咲きのコスモスが背を伸ばし花を咲かせている。一束摘んでも、明日にもまた花開いて、なんとか庭の見栄えを保ってくれるのは、飛鷹家を切り回す立場の彩子には『救い』である。

 薄桃色に、牡丹色。頼り無げだが風ら逆らわず、ゆらゆらと折れることのない芯の強い花。薄くはかない花びらは、秋の桜と呼ばれるには相応しい優美さをもっている。

 学園長室の殺風景さには、このくらいが丁度良いだろうというのが、彩子の勝手な憶測だった。

 大きな花瓶に飾ってみると、ただの当て推量でもなかったことにも、気分は良かった。

「昨日送ってもらった、お礼がわりよね」

 それ以上の意味はない。念を入れて自分に断るというのも、おかしな話だ。

 凄雀の関心を随分と引いていることだけが、一番気掛かりだった。

 早くもひとひら、執務卓に花びらが散り落ちる。手を伸ばして拾ったそこで、置かれていた薄いカードに手が触れた。見慣れないカードであった。

 花びらを欠けさせた一輪を引き抜き、部屋を出ようと振り返った。

「!」

 忽然と壁に一枚の絵が、浮かび上がっている。

 画面一杯に狂おしく舞踊るのは、恐らく花弁。その背景を、潔いほど鮮やかな濃い緑が占めている。

 春、としか考えられなかった。桜の花が散り乱れ、春の終わりを惜しむ季節。

 その中心には一人の少女が立ち尽くす。

 別れを告げに来た春の女神の如く、艶やかな黒髪を風に打たれるままに流している。

 青みがかった黒い大きな瞳と、ほんのりと紅潮した白磁の肌、大人の女を真似たようなな紅い唇。平安朝の着物姿で、凛と立つ彼女は、少女でありながら、優しい面差しでありながら、強烈な意志を放ってそこに居た。瞬き一つ見せず。

 彼女の意志の問い掛けに、彩子は怯みそうな自分を感じた。

「気に入ってもらえたかな?」

 戸口に立つ凄雀は、期待するように小首を傾げた。

「申し訳ありません。私、勝手に」

「いや、かえって嬉しいよ。この絵の反応を聞くことを、当分の楽しみにするつもりでね」

 絵に注ぐ凄雀の視線は、驚くほど柔らかい。

「この人は、御鷹姫ですか?」

「それは、どういう姫君だろう?」

「……。お忘れになったんですか?」

 御鷹姫(みたかひめ)。この学園の関係者なら、知らないはずのない名前だった。学園内の旧講堂脇に、彼女を祀る敷地がある。この土地に根付いた講組織、白楼講と結び付いて、長く彼女は祀られてきた。

「白楼祭の主神です。悲恋の内に非業の最期を遂げたという実在の姫君で、毎年秋には学園で鎮魂祭を」

 凄雀は部屋を横切って、薄いブリーフケースを机上に乗せた。小さくうなずいた。

「そう。そんな姫君もいたね。

 でも、彼女は異国人の子供とかで、たしか波打つ金髪という話しではなかったかな?」

「……。そんなの初めて聞きました」

「? ならば、それは私の聞き違いだな。すっかり学生時代のことを忘れているくらいだから」

 疑い深い目をした彩子に、凄雀は努めて柔らかい目をしてみせた。

「非業の死を遂げたというのは、不思議と共通しているな。その姫君の名は、右下の署名と同じものだ」

 目を凝らして読み取ると、み・ぶ・き。

「緑、舞う……」

 凄雀は促した。

「緑舞う、后。それか姫と読めばいいんですか?」

「初めはそう呼ばれていたらしいが。その絵の題名は、緑舞う、鬼。緑舞鬼」

 鬼。背筋を、形のない冷たいものが滑り落ちる。

「一人の男の為に、鬼となってしまった少女。

 愛する男を破滅に追いやり、自分も果てた、烈火気丈な実在の姫だ。

 相手は、低い身分の貴族ながら、時の帝の寵愛を受けて右大臣にまで立身出世を果たした男。自分のさらなる野心の為に、零落していた彼女を帝に差し出したのだという。

 もとの出会いは損得のない、孤独な男が天真爛漫な少女に慰めを見出していただけだった。

 恐らく、愛すればこその想いで、男の策謀に手を貸したのだろう。激しすぎる、真っ直ぐな愛情が、企てた当人を自虐の念から破滅へと突き落とすことになる未来にさえ、あまりにも純粋過ぎて、気付くこともなく。

 共に、奈落に落ちた」

 その目で、その様を見てきたように、凄雀は言葉を続けた。

「たった一人の為に、人は狂鬼へとたやすく変貌する。

 人が人を狂わせるのは、ずいぶんと簡単なものとは、思わないかな?」

 美しい狂鬼。

 愛すればこその想いが、その相手を殺す。

 彼女の知らぬ間に、鬼に生まれ変わる。

「……私……」

「私の母は、歯車がずれた者の一人だ。

 そこに追い込んだ私は、それを後悔している」

「でも、学園長夫人は、代行がお戻りになったことで立ち直りました。もう、すべてが元通りに」

「それは違う。何一つ、元へは戻らない。

 私が家に帰り、親子三人が元のように会し、傍目は昔と同じには映る。

 しかし、母の歯車はズレたまま、ズレた所から回り始めただけにすぎない」

「どうして……。そんなことが言えるんですか?」

 学園長夫人が不幸だなんて、彩子には許せない。夫人は彩子の未来の姿であって欲しいのだ。

「あの人には、私の居ない三年間は完全な空白だ。

 自分勝手に、綺麗に時間を繕って、悲しい記憶を永久に葬り去っている。

 私が家に帰って元に鞘にもどったことで、本当に思い出す必要もなくなった。自分の息子が、死んだと宣告された悪夢のような日のことを。

 忘却とは、それはそれで幸福なことなのかもしれない。

 これ以上、苦しめずに済むということだけが、救いだね」

 再び頭が混乱した。狂ったままでいることが幸福なのだろうか。それが、自分なら。

 彩子も、精神の一部が病んでいる。一つだけが歪んで、ある種狂っていた。このまま、炎の恐怖に怯えて暮らすことが幸福なのだろうか。

 克服できそうにない、狂いを抱いて。常人と変わらない振りをして暮らしてゆくことは、間違ったことなのではないのか。そんな怯えが付きまとっていた。

「上坂君は、この絵を見て、いいことを言ってくれたよ。

 待ち続けている目だと。一緒に地獄に落ちても、彼は構わないそうだ」

『艶やかで美しい人だけれど、寂しそうな人だ。この目は、誰かを待ち続けている目ですね。……うらやましいな、いったいどんな男なんでしょうね。

 女神のような人にこんな思いをさせるなんて。現実にどんなに狂っていたとしても、僕なら、誰にも渡さない。落ちるなら、地獄でも、きっと構わない。

 勿論。彼女が僕を選んでくれるのなら、の話しですが』

「同じことを考える男が、ここに居てくれて嬉しかったね」

 待ち続けている、目……? 

 誰を?

 こんなにも、美しく艶やかに、凛と立ち。打ち抜くような生気を持って。

 それは、そう。狂ってしまったその日に、連れ戻してくれる誰かを。それ以前のようにはもう戻れないけれど、ありのままを、受け止めてくれる誰かを。至上の正装で、もてる限りの装いで。

 きっと、学園長代行にも上坂にも、ここまではわからない。春の鬼の鬼らしさに、彩子はうなずけるものを感じ、内心笑っていた。

 限りの最上の彩りで、美しい鬼は、一人の男を絡めとり二度と手放しはしないつもり。

 この微笑みで。女であるから。

 その日の二人には、歯車の狂いも鬼であることも、もう意味はないのだ。

 権力も野心も、右大臣には価値はなく。許されるなら、この絵の中で永久の春を謳歌する。

 幸福はすぐそこにあった。緑舞鬼は悲嘆に暮れ、不遇を呪っていてもよかった。けれど彼女はこうして、凛然と微笑んでいる。

 学園長代行を仰いでみた。

 やはり。美しい鬼の隣に佇んでも不思議はない美丈夫の男性が、敗北の体で、彼女を見上げている。彼は彩子へ、微かに首を横に振った。

「逃れることは、不可能だ……」

 紅い口元を彩るのは、勝利の微笑み。狂気の果ての、最後の真実。

「美しいだろう? 君も気を楽にして、綺麗になりたまえ。

 女性は誰も、男を踏み付けにして花を開く種だ。

 私でよければ、手を貸してもいいが?」

 美貌の青年は、優しげに申し出た。

「! け、結構です……!」

「ふむ。間に合っている?」

「そ……そういうわけでは」

「年のことを気にしていては恋はできないぞ」

「気にしますっ!」

 拳を固めて震わせる彩子。

「よしよし。その元気だ。

 そうやってる方が君らしくていいぞ」

 破顔一笑。ひどく若い笑顔に、彩子は戸惑った。

「心の傷は簡単には癒えないよ。癒すには傷付いた以上の力が必要なものだ。

 傷をすり替えることは簡単だが、君には無理のようだな。それができていれば、今頃君はこんなところにはいない」

 尾上顔負けのレクチャーだ。やや強引な決め付け方で、洞察は鋭い。どうしてこんなにも親身になれるのだろう。

「方法はある。簡単なことだ。

 過去を忘れられるほど激しい恋をすることだ。打ち込んで全てを失うほど。絵の中の彼女のように。

 そうすれば悲しみは意味を失う」

「……」

「恐れていては、前には進めないぞ」

 のぞきこむ凄雀。彩子は逃げるように首を振った。

「また同じ苦しみを味わうんですか? 緑舞姫が鬼になった理由は恋や愛でしょう? 激しくて狂おしい感情だから、ずれを生んだのに」

「だから、この次は真っ直ぐに狂えばいい」

 真っ直ぐ……。

「緑舞姫は過去の彼女ではない。今を生きて、新しい恋をする女が存在するだけだ。

 違うか?」

「わかります……。あたし、わかります」

 どこか狂っていても、紛れもなく母親である学園長夫人。鬼と変貌していても、たった一人を求め続け、ついには手に入れた緑舞姫。

「君も、もう大丈夫だな」

 彼女たち自身は幸福であることに違いない。

 ならば。

「……たぶん。二人のように強くはありませんから、これから何度か悩むでしょうけど。私も幸福な人間の一人、みたい……ですから」

「役に立てたのなら嬉しいよ。行きなさい、もうじき予鈴が鳴る」

 教室へ。浮かんでくるたくさんの顔が、瞼を熱くさせる。

 簡単なことだった。狂っていても、飛鷹彩子を見守ってくれる誰かが居る限り、彼女もまた、幸せで救われた人間なのである。

 緑舞姫は、全てを敵に回しても幸福だった。最後のただ一人を確信できていたから。

 そう簡単には、ああも強くなれない。わかっているから。

 狂いの始まったその日に、うなずきを返す。焦らない。

 少しだけ、時間を。微笑みを返す力の為に。



 予測はしていたが、見事に振られた。

 やはり子供は、扱い憎い。

「幕開けが、炎の姫君と秋桜とは相応しい……。妙な符号だな」

 重い靴音が、学園長室の前に立ち止まった。

「お早うございます、教頭先生。転入生は来ましたか?」

 戸口で一礼をして、教頭は部屋に踏み入れた。

「いえ、それがまだ。何かありましたのでしょうか」

 窓の外に目を転じていた青年は、少し声を上げて教えてやった。

「あんな所に道草しているようでは、先が思いやられますね」

 教頭は同じ窓を覗き、小さくうなずいた。

 北門の花が積まれた現場に、やや痩身な少年が立ち止まっている。

 時間は気になっていたのか、腕時計を見て、足早に校内へと走り出した。

「少し、変わった生徒のようですな。何か気になることでもあるんでしょうか」

 職員朝礼に出席することも学園長の義務である。二人は揃って部屋を出た。

「さあ。何を考えていたのか。

 一風、変わっていることは事実ですよ」

 先に立つ凄雀は、冷ややかな含み笑いを漏らした。

 傍観者である彼だが、待ちわびていた役者の到着に、心が躍った。さて、繰り広げられるのは、悲劇か喜劇か。



「あのっ、すみません!

 職員室はどこでしょうか? この学校広いんですね」

 予鈴寸前で、渡り廊下を人気がないのを幸いに走り出そうとしていた飛鷹彩子は、ぎょっとして立ち止まった。

 見れば、学園の制服、学園の校章。どれも真新しい。

「職員室はこの廊下を突き当たった左の部屋。

 現在、予鈴二分前。健闘を祈ってあげるけど、廊下は走らないこと。これは校則規定にあるわよ」

 自分のことは棚に上げて釘を刺す。

 GOサイン。

「どうも」

 黒縁の、まるで似合わない眼鏡を少し上げて、相手は子供のように無邪気に目を細めた。

 転入生だ。

 細身で、整った顔で、子供のような笑顔。

 彩子は世間に疎い一年生と見た。

 二学期から登校なんて、去年の自分と同じじゃない。ま、頑張ってほしいものね。

 自分は駆け出しながら、エールを送る。

「君っ! 転入生か?」

「あ、はい! 遅れてすみません」

「しょうがないな。学園長代行への挨拶は昼休みだな。

 君の教室は2―Bだ。たしか名前は……」

 ……うちのクラス?

 彩子は振り返りたい気持ちに駆られた。

騎道(きどう)若伴(わかとも)です」



『すべての記憶は その日に還る 完』






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ