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(六)


『血の烙印』。凄雀はそう言い切った。

 あの事件に関して、他に何を知るのだろうか。事故当夜のように、怒りを抱かなければならない理由は何なのか。

 それとも、只の比喩だったのだろうか。

 自分は甘い人間ではないと誇示して、学生たちの緩んだ気持ちを引き締めるという手段。

 実際、始業式後の学園長代行への関心は並大抵のものではなかった。女子生徒たちがルックスに浮かれる様子を、苦々しく思っていた男子生徒までもが、真面目な顔で凄雀の噂話しをしていた。不良たちが滅多な行動は取れないと、確認しあうほどだ。

 彩子だけが、言葉通りの意味ではないかと感じていた。人を拒絶するような容貌は、凄雀が本当に憎しみ以上の行動に出てしまいそうで、怖い。

 よく似た怒りの表情を、彩子は最近見ている。捜査課の刑事である父修造が、二ヶ月前、電話を受け取った直後の表情がそうだった。

 二件目の無差別殺人事件発生の報だった。手口が4月と同様のエアライフルであることから、同一犯と後に断定された。必死に捜査を続ける警察を、せせら笑うような犯行だった。だから父は怒った。ひどく静かに、深く。

 彩子は、校門で園子と別れて左手のバス停に向かった。

 頭上からの太陽が、何もかもを埃っぽい白に眩しくかえている。始業式だけなので、午後の空いた時間には予定を入れてある。学生服のまま、真っ直ぐ向かうつもりだ。

 真向かいに日陰のないバス停。三橋を振り切った場所だと感じる前に、兄の言葉が蘇る。

『つまらないことに、また頭を突っ込むんじゃないぞ』

 三橋の態度も相変わらずだった。底が抜けたように陽気で、他愛の無い話しで声をかけてくる。つい吹き出したりすると、ますます調子に乗るのだ。呆れて彩子は、冷たくあしらってしまう。

 その上、すきあらば、恋人に立候補宣言をしてくれる。冗談まじりの態度は、彩子には非常識としか思えない。

 ごく平凡な学生生活が今日から始まる。学生の本分は勉強だ。スポーツであり、友人関係の維持である。青春に、犯罪や捜査といった項目はない。

「暑いわね。ほんとに毎日」

 独り言が口をつく。『つまらないこと』を、もう考えたくないのだ。自分自身の為にも。



「気を悪くしないでもらいたい。助手席は特別なので。

 特に親しい女性しか使えないことにしているのでね」

 凄雀はバックミラーをのぞいた。

「それとも、飛鷹君。立候補をしてくれる気はあるのかな?」

 咄嗟に、彩子はドアに張り付いた。音を立ててドアロックが落ちる。加速度に応じた自動システムだ。

「結構です……!」

 声が裏返った。弱みは禁物なのに。

「冗談だ。もう3年経ったら、本気になれるだろうが」

 ……3年後でも願い下げた。首筋を撫でられたような、鋭い流し目だった。あんなものは、されて嬉々とするような、かわいげのある女性だけにして欲しい。

 権力者に言いくるめられて、うっかり車に乗せられた自分が悲しかった。なぜか凄雀は、今日が診察日であることを知っていた。パニックに陥った頭は考えなしに、命令する口調に操られた。深夜、車で連れ去られた連城も、この調子で正気に返されたのかもしれない。

 たしかに、あの時も、後部座席が使われた。

 周囲の景色が後方に飛びすさってゆく。振動をまったく感じない。心地よくて、滑るソファに居る感じだ。

 気が緩む。バスを待つ間の、胸の重苦しさが消えている。

「尾上先生から、私のことをお聞きになったんですか?」

 ならば納得が行く。が、患者の秘密を、例え親友でも口に出す医師はそういないはずだった。

「身上書を見せてもらった。君のことが気になってね」

 頬がカッと熱くなる。恥ずかしさと、なぜか。

「忠告は無駄だったようだね」

 流れる動作で、左折する。新しい車の流れに滑り込み走り続ける。

「次は、もっと慎重になるべきだな」

 彩子は、何を言い出しても見透かされているようで、体がすくんだ。ただ、強張った視線を凄雀の横顔に向けることしかできなかった。



「なんだ? 私が友人に会いにゆくのが、そんなに不思議か?」

 絶対に、一緒に歩きたくない。言い出せるはずがないので、仕方なく彩子は二歩下がって後についた。思った通り、目を引く男だ。若い女性患者の視線が彩子に突き刺さった。

 おかげで、診察が気に重いと考える暇もなく、診察室に辿り着いていた。

 二ヶ月に一度が最近のペースだ。去年の春から三ヶ月入院し、夏から自宅療養に入った。毎週のように通った夏休み。兄が必ず付き添った。復学してからは月に一度。今のペースは新しい学年になってからだ。

「どうぞ。飛鷹さん」

 診察券無用の顔パスである。他の診察室と違い、ここは家庭的な内装だった。ちぐはぐな肘掛け椅子やソファが、広い部屋に散乱する大雑把なものだが、居心地はいい。

 第一須賀総合病院の中でも、比較的閑静な場所にある。

「ああ、飛鷹君。入って、適当に座っててくれよ。

 今、済むから」

 開け放したままの診察室の奥で、よれた白衣の裾が揺れている。何をしているのか、広い執務机に覆い被さるようにして、背を向けて腕を動かしている。肩ごしに見えるのは、どうみても流行りのおもちゃだ。

 凄雀が彩子の肩を引き止めた。企みを隠しきれず目が笑っている。先にずかずかと部屋に踏み込んだ。

「いい部屋だな。たいしたものだ。おまけに患者の信頼も高いようだし、まあ、及第点ギリギリというところか」

 はたりと、尾上の動きが止まる。

 振り返りざま体を起こす。彩子もびっくりするほど、目を大きく見開いて、青ざめた顔を突き出した。

「足はあるぞ」

 手招かれた彩子は、平然とする凄雀と顔色のなくなった尾上を見比べた。

「……ほんとに、お前か?」

「他に何か言えんのか」

「……先週、電話をよこしたのもお前か?」

「随分な挨拶だな。もう少し喜んでくれるかと期待していたんだが」

「こっちのセリフだ……! 人がこの5日間、どれだけ待っていたか。看護師が週明けには帰ると伝えたはずだろう?

 なんですぐ来なかった!?」

「身勝手な奴だな。ちゃんとこうして出向いてやっただろう? 気に食わん。飛鷹、帰るぞ。信用できない医者だ」

「は?」

「待てっ。その子は俺の患者だ。指一本触れるなっ」

「……。人を犯罪者のよーに言ってくれるな……」

 尾上に手を引かれて、彩子は背後に隠された。

「当たり前だ。どういう関係かは知らないが、飛鷹君。こいつとは関わるなよ。山男にゃ惚れるなよぉ、という歌があるくらいだからな」

「違いますっっ!」

「善人面した精神科医よりはましだ。女子高校生を相手にカウンセリングと称して……」

「失礼です! いくら学園長代行でも、言い過ぎだわ」

 凄雀は肩をすくめて「失敬」と呟いた。

「口も悪けりゃ態度もデカイ。本物だな。

 嫌味なくらい、凄雀そのものだよ……」

 尾上は、いからせていた肩の力を抜いた。

「ひどい悪戯だと思ってたよ。生きてるなんて、そんな奇跡、誰が起こせるかって……」

 尾上の方が背は低い。うなだれると、さらに頼り無く見える。手を差し出したのは凄雀の方だった。

「私の生徒だ。頼むぞ」

 堅い握手と、軽いジャブを交わして、彩子を見た。

「母が心配をかけた礼に、一度家に呼びたいそうだ。時間をあけておいてくれ」

「……そうか。その話しは夫人からも電話で聞いた」

 尾上の声音が陰る。

「世話になったな」

 戸口で振り返る凄雀は、親密な目をした。頭を振って微笑む尾上の顔も、学生時代に居るように若々しく輝いた。



「先週、学会でね。留守にしていたんだ」

 その土産だというチーズクッキーを彩子に勧めて、尾上はコーヒーをすすった。

 まだ、現実を信じられないといった顔をしている。

 彩子は黙って、尾上を見守った。

「今週、凄雀のお袋さんからも電話があってね。話していることがいままでのパターンと違っていたから、まさかと感じていたんだが……。ほんとに生きて帰ってくるなんて、見るまで信用できなかったな。

 第一、自慢じゃないが、山から帰ると真っ先にあいつは俺を尋ねてきていた。両親ともあいつの冒険癖を喜んじゃいなかったから、一番喜んでやる俺を支えに思ってくれていると、勝手に自負していたからね。

 この何日かは、結構傷付いていた。悪戯だって、決め付けていながら……」

「良かった、ですね。諦めていた人が帰ってくるなんて。

 こんなにいいことないわ」

 彩子の言葉に、尾上は目尻に皺をつくってうなずいた。

「医者としても嬉しいよ。患者が一人減ってくれたようで」

「?」

 逆にカウンセリングされていた立場を、尾上は建て直しにかかった。凄雀夫人のケースは、彩子にとっていい結果をもたらすかもしれない。自分の生徒だと断って帰った凄雀も、期待があるのだろう。この好機を逃すなと。

「凄雀夫人は電話で言ったんだ。息子が帰ってきたとね」

『息子が帰って参りましたの。お陰様で、怪我一つなく。

 あの子、毎日毎日、私に付き合わされて、もううんざりしているんじゃないかしら。今度、お暇な時間にでも顔を見においでになってくださいましな』

「学園長夫人は先生の患者さんですか?」

「そう。君よりも古い。凄雀の遭難事故直後からの患者だ。

 あの頃、ここに赴任直後のインターンでしかなかったが、あの家によく出入りしていたから、異変に気付くことができた。夫人がズレる寸前から、見守ることができた。

 医者としては価値があって幸運な症例だったが、あの頃は必死だったな。あらゆる手段を試したよ。

 夫人は、俺が凄雀の親友だから、俺の言葉に違和感をもつはずがない。そう思って、何度も足を運んで話術を尽くした。なんとか凄雀が死んだ事実を認識させようと、再現芝居を打ったりもしたよ」

 尾上は過去の自分を照れた。記憶を噛み締めるように、遠くを眺めやった。

「母親というものは、強いね。親子の情がどれほど強固なのか、勉強させられたのはこっちの方だった。

 夫人は受け入れてはくれなかった。それどころか、泣き芝居をする俺を、笑って慰めてくれた」

『あの子なら、ちゃんと帰ってきますわ。

 今から心配なさらないで。遼さんの予定だと、帰国は明後日あたりでしょう? 真っ直ぐあなたの所へ向かって、二人して酔い潰れて。ここへ帰るのはその次ね』

 苦い絶望が、記憶の底から昇ってくる。

 そう言いながら、凄雀以外のことならば、まったく正常に夫人は認識するのだ。夫人が拒否をするのは、凄雀を永久に失ったという恐ろしい衝撃のみだ。

「あの人は、自分の中の時間を止めてしまったんだ」

 凄雀に関する限り、凄雀夫人の住む季節には変化がない。

 真夏でも真冬でも、ふとしたすきに、冬山高地で苦闘する息子を案じたり、励ましたり。

 あまりの哀れに、周囲は諦めた。凄雀の話題は禁忌となり、何事もなかったと日常を紡ぎ、三年を過ぎてきた。

 彩子は目を伏せた。一人孤高にいる夫人よりも、周囲の方が辛いのだ。日常生活が平静なほど、違和感を思い知らされることは、大きな痛みとなる。彩子自身、何度となく喪失感に襲われてきた。

「あのまま一生、停止した時間の中にいるはずだったのに。

 怖いね。凄雀は簡単に、修復してしまった」

 息が詰まった。過去と現在を繋ぐことができた夫人が、彩子には羨ましい。夫人は二度と、病むことはないのだ。

「素敵な話し。ほんとうに良かったですね」

 回転椅子を軋ませて、尾上はレースのカーテンごしに夏の空を仰いだ。

「泣けるなら、そうした方がいい。涙は感情が生きている証明だ」

 彩子は指先で目尻を拭った。肩で息を整えて、言った。

「先生の方こそ。遠慮なく、嬉し泣きして下さい」

「そんな年じゃないよ、僕は」

 一滴の涙の分だけ、彩子の感情は生きている。溢れる涙はどこへ行ったのか。去年の春、志垣が亡くなったと知らされた時、泣き続けた分はどこからきたのか。あの日で、彩子は自分の感情が枯れたのだと思えるようになっていた。

 あれから、溢れるほど泣いたことは一度もない。

「きっと、学園長夫人はお幸せですよね」

 そうあって欲しい。

「もうメロメロに幸せそうな声だったな」

 尾上の声も晴れ晴れとしている。また椅子を軋ませて、小さなドラバーを取り上げて、おもちゃに取りかかる。

「それ、どうしたんですか?」

「ん。小児病棟の入院患者に依頼されてね。暇そうなお兄ちゃんに見えたんだろうね」

 頼まれると断り切れない、人のいい性格なのだ。

 ここに来るまでは、彩子の気は重い。自分が異常であることを思い知らされるようで嫌悪している。

 入ってしまえば、尾上の暖かさに巻き取られ、この上もなく居心地のいい殻になってしまう。

 殻を破り出る勇気は、同時に生きる為の力に変わる。尾上との一見他愛のない会話の中で、少しずつ自分を知ってゆく。緩い速度で変えられてゆき、今の彩子がいる。

 これからもその繰り返し、焦ってはいけない。でも……。

 ほんとうに彩子を変えられるのは、医者ではないと、当の尾上は告げたことがある。

「学園長夫人のように、私も、幸せになれる時が来るんでしょうか……」

 確かめたい。その答えが、今日部屋を出てゆく力に変わる。

「君は、そんなにも不幸なのかい?」

 責めてはいなかった。なのに、彩子は強く首を振った。

「いえ……。いいえ。幸せです。私を守ろうとしていてくれる人達に囲まれて幸せだと思います。

 ただ、自分でもどうしようもなく、その人達を不幸にしてしまう。そんな時は、私も不幸なんです」

「具体的に言ってくれないかな。どんなふうに君が回りの人間を不幸にしているのか。状況によっては君の思い違いかもしれないだろう?」

 何も知らないから、尾上は涼しい顔でそういえるのだ。

「飛鷹君は、思い詰めすぎるよ。焦らなくても大丈夫。

 君は模範的な患者の一人だよ」

「……焦って……」

「何を?」

 尾上は手を止めた。立ち上がる。

「……ごめんなさい、先生。私、約束を守れなかった。

 火を……、焼却炉に……」

 動悸が速くなる。胸が締め付けられる。

「知っていたよ」

 顔を上げると、二筋、涙がすべり落ちた。

「三橋君が、その日の午後に電話をかけてくれた。

 大事な話しだからと、無理やりうちの看護師に繋がせて」

 彩子は目を見張って、頬を押さえた。つぶやいた唇の形は、『嘘?』。

「どうすればよかったんでしょう、と。彼の名誉のためには、君には話さない方がいいのかもしれないが」

「言ってください」

 すぐに聞きただした。

「初めて聞くような声で、切羽詰まった言葉だった。あんな真似をして良かったのかと、気にしていた。

 それと、あいつなら、もっと旨くやれたはずなのにと、あれは自分にだな。つぶやいていた」

 震え始める唇を掌で押さえて、声を押し殺した。

「……どっちが、バカよ……」

 涙はそれ以上零れなかった。

 優しさは、応えられる可能性の見えない彩子には、苦しいばかりだった。もしかしたら、ずっとこのまま、狂いを抱いたままかもしれないのに。

 期待されること事態、今は彩子には耐えられない。


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