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(五)


「次は、稜明学園前」

 車内アナウンスに、彩子はドキリとした。今日、三橋の声を振り切ったバス停だ。

 そっと、右隣に顔を向ける。四つ年上の兄、勝司(かつし)は懐かしそうに、見えてくる稜明学園を眺めている。少し見ないうちに、顔立ちから少年っぽさが消えかけている。もともと頑丈そうな顎の輪郭が父親にそっくりだった。老けて見えるのも早いかもしれない。弁護士を目指す兄には、利点になる可能性もなくはないのだが。

 上京してアパートに一人暮らし。炊事洗濯家事全般を、最近の若者には珍しく、完璧にこなせる男だった。

 それもこれも母親を失ってからの二年ほどで、鍛えられたものだ。父娘二人暮らしになる彩子に家事を仕込んだのも、実は彼の努力の賜物だった。

 わかってる……。焦ったら、ダメだってこと。

 勝司は去年の春、大学に休学届けを出した。彩子の為に、彩子を肉親として守る為に、自分の夢を延期した。

 そんな思いやりも辛くて沈んでいた彩子に、兄が何度となく繰り返した言葉。焦るな、その一言。

 去年の今頃、彩子は逆に兄を説得した。自分は大丈夫だから、焦らないから、大学に復学して欲しいと。

 自宅の、細やかだが重要な改築が素早く手配された。風呂釜を自動点火装置に、ガス台は元栓を閉めて、電気調理器に買い換えた。

 母親代わりに入院中の彩子の世話をしてくれた賀嶋の母親に、これからもどうぞよろしくお願いしますと、丁寧に頼みに出掛けたのも兄だった。

 事件捜査に振り回されている父親に代わって、彼が父であり母でもあった。久し振りに帰郷している兄に、少しはちゃんとやっていると、彩子は安心させたかった。埃を被った電気調理器を見て、勝司は言葉には出さないが喜んでいたのだ。

「あのね、兄さん……。ごめんね。

 あたし、今日、火が怖いの……」

 彩子は目を伏せた。

「ん……、そうか。

 よし。任せろ。久し振りに、俺が腕を奮って、うまい夕飯を食わせてやるからな」

 大きな手が無造作に彩子の肩を叩いた。勝司の膝の上で、食料品を詰めたビニールがガサガサと音を立てる。勝司の夏のパジャマを買いに駅前まで出掛けた帰りだ。

 理由を問い詰めたりしないのは、父と同じだ。そんなことすら忘れて、勝手に距離を作った自分が情けなかった。

「? 何だ?」

 勝司の不審な声に、彩子も窓の外を見た。左に折れた路地の数メートル先で、パトカーが野次馬に埋まっている。

「事故だな。稜学の学生じゃなければいいんだが」

 職員玄関にあたる北門の辺りだ。左前部が極端に潰れている軽トラックが放置されている。停留所が近いのでスピードが落ちた。事故現場特有の異様な気配を感じる余裕ができる。人垣を離れた場所に、眩しいほど美しい白銀のセダンが停車していた。

「気味が悪いよな」

 事故に対する好奇心がわだかまる中、二人連れの若者がバス停で乗り込んできた。その一人が顔をしかめた。

「いくらなんでもさ、無人のトラックが平地であんな突っ込み方するかよ……。人一人が死んだんだぜ」

 耳をそばだてるのは、彩子一人ではないはずだった。

「まあな。あの潰れ方は、アクセルを一杯に踏んだとしか思えないけどな」

「轢き逃げだよな。すぐに捕まるのにさ」

「だとすると、犯人はとことん几帳面な奴ってことになるな。事故って逃げ出すのに、キーを抜いてドアにロックまでしていくくらいだからな」

「……本気で、無人だったなんて思ってんのかよ」

「でなけりゃ、幽霊だよな。なんか恨みでも買ってたんじゃないのか? 最近の高校生はよくわからんからな」

 彩子は思わず手を握りしめた。誰だろう? 稜学の生徒である確率は、現場を考えれば一番高い。轢き逃げ? それとも、無人トラックの暴走事故?

「彩子。つまらないことに、また頭を突っ込むんじゃないぞ」

 勝司は正面を向いたまま、はっきりと漏らした。

 人の生死はつまらないこと、じゃない。犯罪者を擁護する立場に立とうとする勝司にとって、至上の命題のはずだ。

 けれど、そう言い切らなければならない願い。

「うん。……もう、いいの。あんなことしない」

 うなずいて、頭を兄の広い肩に押し当てた。

 ここに居る。どこにも、飛んでいかないから。

 彩子を案じてくれた人達の顔を思い起こして、騒ぐ胸を押さえつける。悲惨な事故、悲劇的で決着のつかない凶悪事件など、日常途絶えることなく起きている。その一つ一つに憤り、追求したいと考えるのは彩子の勝手だが、行動に移すのは彼女の義務ではない。警察の管轄だ。

 なのに体中が研ぎ澄まされて引き付けられる。なぜ、どうして、誰がひどいことを? ちゃんと罪を償って!

 その想いが、去年の春、彩子も含めてもう一人の刑事を悲劇に巻き込むことになった。志垣刑事は殉職し、彩子は精神に炎の傷を残した。忘れられない、忘れ去りたい過去であり、記憶だ。

 今は、兄の肩の暖かさだけが、彩子を現実に引き止める。

 憤る感情のままに、動き出したりしない。刑事の真似事は正当な担当者に委ねる。でなければまた、彼女の大好きな人達を悲しませる。

 甘える仕種を黙って受け止めながら、勝司も複雑な感情を持て余していた。車内の好奇心はすでに、跡形もなく失せているのに、妹の心はまだ事故現場にある。



 辛うじて、夜半過ぎの最終ローカルニュースで、稜明学園近くの事故が報道された。短く淡々と、一人の少年の死が告げられた。顔写真は、彩子もよく見知った顔。

『稜明学園三年生、上坂智規(とものり)さんが……』

 勝司は友人宅に出掛けて留守だ。父親は今夜も超過夜勤。ニュース画面を、彩子は誰に気兼ねすることもなく、食い入るように見つめた。

 ニュースは事故の詳細を、トラックの暴走とだけ語って終わった。次のニュースへ移る顔立ちは平坦だった。

 彩子はスニーカーを引っ掛けて、玄関を飛び出した。

 途中でほぐれた靴紐が、うまく縛れなかった。過ごしやすい夏の夜なのに、指先が強張った。大きく息を吐く。

「少し見てくるだけ……。ありがちな野次馬よ……」

 つぶやいた言葉とは正反対に、磁石に引き付けられるよりも強く、何かに背中を押され学園に辿り着いた。

 現場である北門へ曲がろうとして、彩子は息を止めた。

 車のヘッドライトがこちらを向いている。金網に手をかけ、彩子は体を低くした。

 北門の右手門柱に向いて、少女が一人、立ち尽くしている。彫像のように静止していた肩先がふいに震え、肩までの髪は振り乱された。低い嗚咽が漏れる。指先が、積み上げにれた花束に伸びてゆく。

 ヘッドライトを遮って、長身の影が、倒れ込む寸前の彼女を引き止めた。

「……上坂君……、どう……して……?」

 掠れた声。同じ名前を何度も繰り返す。ヒステリックな悲鳴に変わる前に、長身の青年の手が彼女の瞼を覆った。

 突然の暗闇に、彼女は声を無くした。

「ここには誰もいない。わかるな?」

 冷たい、感情のない口調だった。威圧感に押されたのか、少女はこくんと顎を引いた。

 青年は彼女の手を引いて、後部座席のドアを開けた。名残惜しく花束を振り返る彼女に、少し時間を与えて、再び容赦の無い口調で促した。

 彩子はさらに小さくしゃがんだ。窓に額をつけてさめざめと泣き崩れる少女が、目の前を通り過ぎてゆく。

 白銀のセダンは、ウィンカー無しで左に折れる。

 一瞬の光線が切り抜いた、操る青年の顔立ちが、彩子の目に焼き付いていた。

 ぺたりと、彩子はアスファルトに座り込んだ。

 貴人の怒り形相だ。高貴な人がその高潔さにより感情を秘め込み、澱のように消し切れない感情が、否応無しに静かな表に滲み出したような顔立ちだった。

 誰が、なぜ、何の為に? なぜ彼でなければならなかったのか?

 彩子と同じ疑問を、走り去る二人も持っているはず。

 少女は呆然とし、青年は貴人の顔で憤っている。

 彼女には理由がある。上坂の恋人であったはずの、連城真梨という同じ学園の三年生だ。

 青年は、連城の知人なのだろうか? 髪型が変わっているが、昼間、肩をぶつけた相手だった。別人のようだ。あの時は微かに、柔らかい印象があったのに。

 気を取り直して、勢いをつけて立ち上がった。

 なんにせよ、連城は上坂の死の衝撃から自分を取り戻したのだ。これから時間をかけて、事実を見つめ直すだろう。

 上坂は、悼んでくれる二人によって孤独を免れる。ほとんど面識のない彩子の出る幕はない。蚊帳の外。部外者だ。

 真実の追及は、大人に任せておけばいいのだ。

「また、やっちゃったな……」

 急に自分が、滑稽に思えた。



 新学期開始。体育館で始業式の開始を待つ学生たちは、二つの話題でざわめいていた。

 一つは、生徒会副会長上坂の事故死。

 捜査の決着はついている。軽トラックの運転手は、事故当時、北門向かいの住宅前に車を止め、家人を相手にエアコンの取り扱いを説明していた。彼はギアもかけ、ドアロックも確かめて離れたと主張した。

 言葉通り、車は完全な密室で、ハンドルにはドライバーの指紋だけが残され、ギアもかかったままだった。アスファルトのスリップ痕も、車が勝手に移動した、走ったのではなく追突を受けたように飛び出したことを示していた。

 警察は不可解な事故と断定した。完璧に不可解だと照明された、事故だった。

 学生たちは噂の最後を決まった言葉で締めくくった。

「オカルトだよな……」

 上坂への悪意はなかった。むしろ、女子生徒たちの同情は連城へ集中した。もう一つ、気変わりの早いグループは、正反対の話題にもざわついていた。

「新しい学園長が来てるらしいよ」

「違うわよ。ただの代行。学園長の息子だって」

「だったら結構、若いじゃない?」

「三年前に、冬山で遭難して死んだと思われてたのに、奇跡の生還。すごいよね」

 若い男性、というだけで、女子生徒たちははしゃいでいる。彩子は情報通の親友、青木園子を突いた。

「ほんとらしいわよ。20日の全校召集日に来てたみたい。

 秋津会長が挨拶に出向いたらしいって、生徒会幹部からの情報だから確かな話し。

 それにね、職員駐車場に高そうでセンスのいい車が止まってるのよ。うちの教師にあんなの乗り回せそうな人いないじゃない? 結構、噂通りのルックスかもね」

 さすがに詳しい。園子の情報は、あらぬ噂とは一線を画している。

「ほんとに学園長の息子なの?」

「ん。例の『奇跡の生還』ね。ちょっと信じられないよね。

 本当なら三年前に死んでるはずじゃない。ヒマラヤ山脈の万年雪の中で。その、凄雀……、名前何だっけ?」

 彩子は首を振った。

「それが思い出せないのよね。あの頃毎日、捜索のニュースを見てたはずなのに」

「そうそう。派手に捜索活動してた。この学園を売ってでも捜索を続行させるんじゃないかって、噂も流れたし。

 一人息子だから辛かったでしょうね。学園長夫人は、精神に異常をきたしたほどだって」

「そうなの? 知らなかった……」

 園子は、理解できないといった顔をして続けた。

「本当に凄雀某なら、『奇跡の生還』も事実ってことになるわね。ひっかかるのは、マスコミが喜ぶ話題なのに、地元の新聞すら取り上げなかったこと、なのよね」

 ぞろぞろと体育館に教師たちが入ってくる。生徒たちは列を整え、しんと静まる。千人近い好奇心が待ちわびる中、教頭とともに長身の青年が姿を現した。

 彩子だけが目を見張った。20日の深夜、連城を事故現場から連れ出した男。その真昼に、初対面でありながら『気を付けて』と、彩子と擦れ違った男だ。

 今はゆったりと、自分を紹介する教頭を眺め、学生たちを見渡している。

 凄雀は壇上で開口一番、上坂の名前を上げた。

 無感動に見渡す瞳が冷え冷えとしている。

「君達も承知の通り、8月20日、上坂副会長がこの学園の北門で亡くなった。事故死、だそうだ」

 短い静寂が置かれた。言葉の重みに耐えかねて、女子生徒のすすり泣きが漏れる。虚しい緊張感が流れた。

「この日は奇遇にも、私が教職者として、はじめてここへ足を踏み入れた日でもあった。

 故意にせよ、偶然にせよ。私のささやかな記念日に、血の烙印を押した存在を、私は少なからず憎むだろう。

 例えそれが、何者かにとっての必然、もしくは、宿命の必然であったとしても。そんなことは私には無関係だ。

 私の憤りはすでに消すことはできない。

 諸君にも承知しておいてほしい。

 私は教職者である以前に、そういった人間だ」

 静まり返る直中で、彩子は凄雀を凝視し続けた。

 何が言いたいのだろうか? 彼は、警察の捜査に疑問をもっている? なぜ、そんなにも憤る必要があるのだろう。

 いくら学園長代行の地位にいようと、彼も彩子と同じ傍観者なはずだ。噂通り、死地から3年ぶりに生還した男ならば、上坂と深い間柄であるはずもない。

「以上だ。少し大人気なかったが」

 凄雀は演壇から、秋津会長を顧みた。

 鋭い視線を少し、笑ったように緩める。あまりにも険しく整った微笑は、ひどく読み取りにくかった。

「いえ。上坂になりかわって、お気持ちに感謝します」

 秋津は丁寧に一礼した。語尾が少し震えていたと、彩子は感じた。




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