(四)
凄雀は、思案をしていた。
母親の顔が浮かぶのが心苦しいのだ。
整髪せずに来た。という暴挙は、すでに既成事実である。
道を急ぐあまりに失念した、というのが真相だが、世間の好奇の目と口に、わざわざ晒されにゆくのも滅入る事実だった。しかし、帰り道に立ち寄って取り繕うという、姑息な真似だけはできない。
明日という日もあることだ。潔くこのままで帰る……
「……。君は?」
「失礼しました。当学園の生徒会長秋津です。
ご挨拶に参りました」
入り口で立ち尽くしていた男子生徒は、気遣う目をした。
「お疲れですか……?」
間が悪かった。気の緩みを悟られたらしい。
「堅苦しいことはいい。
どうしてもというなら、新学期にしてくれ」
凄雀は心持背筋を張った。ほんのそれだけで、印象が変化する。自負と陰り、鋭角さが増す。
目の当たりにして、秋津は緊張した。得体の知れない畏怖が、背筋を走ったのだ。
「……わかりました。それでは、これで失礼します」
警戒感を覚えた。肉の削がれた端正な顔を見返し、秋津は凄雀の視線の方向を追った。
「!」
絵に吸い込まれる感覚の後、秋津は妖気を感じた。絵の美しさから距離を置き、感情をガードする。不快だった。
凄雀の、興味を引かれた薄い笑みに気付いた。
「上坂という副会長に会った。君とは友人らしいが?」
先程と違って、親密な声音だった。
「はい。上坂との付き合いは六年ほどになります」
「なるほど。六年は長いな。
これからも、大事にするんだな」
秋津は、一礼した。
「優秀な人材が居るようなので、頼もしいよ」
信頼に、秋津は目礼で答えて身を引いた。
同じ方向に三人。学園長室から左に折れていった。
階段を登って二部屋目がこの部屋だ。この先に、記憶する限りでは五枚以上、ドアがあった気がする。
親友たちは秘められた会見に及ぶのだろう。
上坂が向かって、30分以上は経っている。待つ間、生真面目な男がどんな逡巡を繰り返しているか。過酷な時間だろうと、想像はつく。
凄雀の、『明日もあるさ』という身勝手な納得は、かつ江の提案で事実上の却下となった。
生来、スパルタとか教育ママ、といった単語とは無縁な凄雀夫人であるが、責任ある立場に立った息子を思えばこそ、三十路を過ぎたのだからを切り札に、内心の後悔を隠してお尻を叩いているのだ。
その最初の改革は、やはり身だしなみなのである。
「それでは、こちらにおいで頂けばようございます」
明瞭簡潔。最もな意見に、夫人は大喜びをした。
早速、彼が少年の頃よく通ったという散髪屋、今ではしゃれた理容院に改装されているが、その隠居した主人に白羽の矢が立てられた。
老人はいそいそと現れて、成長した姿にしばし見惚れ、手早く愛用の道具箱を広げて仕事にかかった。
凄雀の敬遠する無用な詮索もなく、単調で軽快な鋏の技に集中し続けた。時折、「最近のお若い人には、こういった風が流行りのようでしてね……」などと、見守る夫人に話しかけ、時代遅れなヘアスタイルに仕上がるのではないかという懸念を払拭してくれたりもした。
濡れ羽色の細く柔らかい艶髪である。非情に扱いにくい緩いくせもあるのに、丁寧にまとめ仕上げにかかる。
「お送りします」
上着を手に促した凄雀を、老人は感慨深げに見上げた。そうなさって下さいな。と、夫人も口元を微笑ませる。
夫人の笑みに、我に返ったように目をしばたたかせ、老人は道具箱をくるりと風呂敷に包んだ。
「すぐ近くですから、それには及びません」
小さく頭を下げて、玄関に向かう。凄雀も後について、玄関先まで見送りに出た。
台所から顔を出したかつ江が、何か夫人に言っている。
「まあまあ。前よりもっと、ご立派になられて……」
夫人の無邪気な笑い声が、大袈裟な褒め言葉に続いた。
凄雀は軽くなった襟足に手を触れた。悪くない。
石畳をゆっくりと歩く老人が、くるりと振り返った。もの言いたげな、やや濁った目が伏せられる。
「よく、お帰りになられました……。
奥様にも、喜ばしいことでした」
もう一度、頭を下げる。
何一つ、尋ねようとはしなかった老人が、実はすべてを、凄雀が隠し通そうという嘘の底まで理解しているような錯覚に、凄雀は陥った。
だが、それはただの強迫観念だったことに気付く。
実は、あの老人に至るまで、この街の多くの人間が、凄雀を含む夫人に注目し、ひっそりと見守っていたのだ。この家の苦悩を察して、声高に語らずに。
老人が帰り際に残した言葉は、これからもそうあると、励ます声に他ならない。
「遼さん。尾上さんにはもう会いに行ったの?
随分と心配下さって、よくあなたの昔話しを聞いていただいたわ。
もう立派なお医者様よ。年を取るなんて早いものね」
思わず溜め息が漏れそうになった。夫人はそれを隠すように、明るく振舞った。
「尾上さんのご都合がつけば、家に及びして、お食事でもどうかしら? 母さん、腕によりをかけて作るから」
尾上という名前には覚えがあった。
「第一須賀総合病院?」
夫人は、うんうんとうなずいた。企みが楽しみでたまらないらしい。目を細くすると、少女の笑みになる人だ。
「親友、でしたね。ひどい腐れ縁の」
卒業アルバムに、思い当たる一枚があった。肩を組み合い大笑いをする凄雀ともう一人の男子生徒。色白のひょろっとした尾上の顔は、やや迷惑な苦笑いにも見えていた。
「そんな言い方。そう思っているのは、尾上さんの方ですよ」
凄雀は納得して、苦笑を返した。
わずらわしいばかりの世間だが、関わりをもってもいいと考え直していた。どうせかまびすしい学生を一群、引き受けているのだ。近所付き合い、友人付き合い。無心に暖かく微笑む夫人ごと、背負うことも彼の義務だと諦めた。
老人は髪型を変えたのと同時に、凄雀自身も整えていった。今の生活に溶け込めるように、まず一歩目を。
「近いうちに、そう伝えます」
のどかな夏の午後だ。夕餉の買い物から帰った母親は、低い生け垣の柵越しに隣家の婦人と立ち話を始めている。時折、書道教室であるという隣家から、帰宅する少女たちの賑やかな笑い声が弾けて届く。
夏の暑さは人を怠惰にする。思索に籠もると、脳裏にほんの数時間前に会った、一人の少女が現れた。
なぜあの時、飛鷹彩子に気を引かれたのか。
答えははっきりしている。同族の匂いを、嗅ぎ取ったからだ。凄雀と同族なのではなく、彼の母親と同じように病んでいる痛みを見た。
屋敷の奥から電話のベルが響いている。じきに、かつ江が現れて凄雀に取り次いだ。緊張した声だった。
「またお出掛けなの?」
改めてスーツに着替えた凄雀は、夫人に短く返した。
「学園に行ってきます」
極めて精緻に美しいフォルムをもった白銀の車を、ガレージから引き出し、夫人の真横で再び停車した。
「少し遅くなるでしょうが、心配しないで下さい」
青ざめて強張った頬が、緩い微笑みを作ろうとした。
「今夜中には、必ず戻ります」
彼女は無意識のうちに恐れている。聡明な女性なので、あからさまに恐れを口にすることはないはずだった。
出掛けていったきり、帰らないのではないかという恐怖感が、全身に毒のように回ってすくんでしまうのだ。
凄雀の言葉は、軽い口約束ではないのだ。