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(三)

 最悪の事態にならずに済んだらしいが、凄雀は、彩子の背中に、焦りが招いた事態の後退を感じた。

「哀れな、話しだな……」

 凄雀は広い教務卓を回り、手にした薄いカードに一度触れ、机にかるく腰を掛けた。

 右手の白い壁面には、厚さが10センチ、2メートル四方ほどの透明なガラスケースが取り付けられていた。

 ふわりと、壁の白が滲み、鮮やかな色彩が浮かび上がってくる。ケースの中央に、額が固定されている。

 中から一人の、少女といってもいいほど若い女性が、凄雀を見つめている。

「ほお……。これは」

 戸口から、驚嘆の声が漏れる。

「すばらしい作品ですな。門外漢の私にも価値はわかります。どういった高名な方が作したものですかな?」

「さして名のある画家ではありませんよ。描いた者の名も不明なら、描かれた年代もまったく不明です」

 型通りの挨拶を、断っておいたはずだった。生憎と、穏やかで知的な声の主が誰か見当もつかない。誰であろうと動じるような性格ではないので、かまいはしないが。

「見た通り、作風は複雑で判別もつきません」

 相手は、納得するように低く唸った。

「これを含めて、四枚の絵しか残さなかったそうです。

 ひっそりと描かれ、長い間人目に触れず、一種異様な伝説も伴っている品です」

「よくご存知ですね」

「好事家の中には、法外な値段でも買い取りたいと探し続けている者も居るそうです。

 これは、春を描いた一枚だそうです。所在が明確なのは、この一枚きり。不思議の多いのも魅力の一つでしょうね」

「まさしく春の女神ですな。衣装から察するところ、平安朝にも見受けますが」

「名は緑舞姫(みぶき)。実在の娘で、言い伝えでは、この姫に恋焦がれた男が描き上げたそうです」

「それでは、平安朝の作? まさか、平安時代にこのような技法があるとは思えませんが」

「恋の一念に、技は無関係でしょう。

 彼女のすべてを写し取るために、男はもてる全てを絵に込めた。同じ男なら、その気持ち、わからなくもありません。違いますか?」

「無理からぬでしょうな。私も、もう少し若ければ、同じ気になれたかもしれません」

 凄雀は額の中に住まう少女から、視線を引き離した。

 戸口を二歩ほど入った場所で、大半が白髪に染まりかけた紳士が、凄雀に向き直った。

 声音同様、穏やかな面差しは、深く刻まれた皺さえ上品に見せている。

「篠屋です。今は教頭職を預かっております。

 学園長代行へのご就任、おめでとうございます。心よりお待ちいたしておりました」

 丁寧な会釈と、柔らかい笑み。

「こちらこそ。ですが、堅苦しいことはご容赦願います。これを確かめに来ただけのつもりです」

「では、お久し振りでしたと、申し上げなければなりませんな。無事、ご帰宅なさったと聞いて、職員一同も大変喜びました」

 凄雀は、苦笑した。

「驚かれたでしょうね」

「いいえ。学園長のご心痛を考えると、私も心底安堵しました。代行として就任いただけると聞いて、この老躯の肩の荷が降りる思いでした」

 噛み締めるように、篠屋は目を細めた。

「私の力など微力なものです。

 凄雀遼然(りょうぜん)です。こちらこそ、どうぞよろしく」

 凄雀は手を差し出し、二人は握手を交わした。

「いかがですかな? 学園は、どこも変わってはおりませんでしょう?」

「ええ。確かに。変化は無いようですね。旧きを知るものには悪くない。むしろ、居心地さえよいでしょう」

「他人事のようにおっしゃるんですね」

 凄雀も学園の卒業生で、学園内を賑わした者の一人だった。当時、教務主任であった篠屋の記憶は鮮明だ。

「過去の私と今は歴然として異なるものです。代行とはいえ、学園の長を引き受けたのですからね。一群で飼い慣らされていた頃とは、話しは別です」

 篠屋の目に鈍い色が浮かんだ。

「といっても、私には安楽な庭を猟園にする気はありません。変化のないのにこしたことはない。好き好んでついた地位でもありませんし、今だに執着もない。

 今まで通り、教頭に全権をお任せします」

 自分から、張り子の置物になることを申し出た。何にせよ、承認の判を押すだけの退屈な仕事には違いない。

 就任の手配をしたのは母親だった。それほど、凄雀をこの街に引き止めておきたかったのだ。

「ただ、一つだけ。私から頼みがあります」

「どうぞ。おっしゃって下さい」

「不在とはいえ、父の在任中は学園の名に傷がつくような不祥事の起きることのないように願います。

 これは、親を思う気持ちからの言葉と、受け取っていただけるでしょうが」

「勿論。心中お察しします。

 変わらず、精一杯の努力を捧げるつもりです。ご安心を」

 再び、丁寧に腰を折った。

 老躯と謙遜するほど、年をとっているとは思えなかった。知識人のもつ聡明さと、経験年数に裏打ちされた自負心が彼の中で昇華されて、自信に満ちた好人物と写った。

 細身のスーツと糊の利いた純白のカラーが、嫌味なく似合う紳士である。

「ところで、教育者の立場から、今度の転入生はどうですか? 無理を言った手前、心配です」

 篠屋は思い当たって、表情を明るくした。

「成績証明書と身上書を拝見しました。優良な生徒のようです。学力も良好。身よりのないながらも、明朗な性格のようですし、問題は何もないかと思います」

「それを聞いて安心しました」

 後ろ手に組んで、篠屋は絵に向き直った。

「山がお好きだとお聞きしていましたので、この絵は意外でした」

「山は、もうたくさんです」

 凄雀は、篠屋の表情を眺めながら慎重に返した。

「地上を這いずっているのは、飽き飽きだとおっしゃったのではないのですか?」

「?」

「学園長から聞きました。地上を這い回るのは飽き飽きだとぬかしおってと、時々こぼしておられました。あなたが山で、遭難なさった後のことですが。

 かなり、ご心痛だったのでしょうね」

「それを聞いては、なお償いに精進しなければならないな」

 やや弱った真面目な目をしてみせた。

「お母上の、ご容態はいかがですかな?」

「容態? ああ。教頭もご存知でしたか」

「事実を知る者はそれほど多くはありませんが、夫人に接する機会のある者は、承知しています」

「そうですか。お気遣いを感謝します。

 実は言えば、ここへ戻ったのは一週間ほど前ですので、あまり勝手がわからない状態です。

 母の言う通りに振舞うのが、精一杯です」

「それが一番の薬でしょう」

「わたしから見れば、変わりのないように見えて、つい失念するほどです」

「待ち望んでいたあなたが帰ってきて、あの方には、これ以上の自然な生活はありえないのでしょう」

 もう一度篠屋は、奇妙に視線を引き付ける絵を眺めた。

「今となっては、忘れたいと願うのは当然ですね。失礼をしました」



「ここまででいいよ。君は、先に帰った方がいい」

「上坂君……」

「殴り合いをするんじゃないかと思ってるんだろう?

 子供の喧嘩のような真似はしない。悪いけれど、君より付き合いは長いんだ。きっとわかってくれる。

 第一、相手がちがう。秋津に殴りかかるなら、その前にもう一人、確実に倒れてなきゃならない奴がいる」

 凄雀は、廊下から響いてくる無防備な会話に耳を傾けた。学園長室はもぬけの空だと確信しているらしい。

 女子生徒の声が、上坂に追いすがる。

「それは誰のこと? 何があったの?

 隠し事なんてしないで……。心配だわ」

「まだ言えない。誰にもね」

 二人は、お互いの気持ちを推し量るように沈黙した。

「僕はこの学園が大切なんだ。ここで君にも逢えた。だから、できる限り守りたい。事を大きくしないうちに……」

 上坂の真剣さは、安穏とした学生には不釣合いなほど、密やかで力強い。

「わかったわ……。でも必ず、今夜、電話をして?

 無茶はしないで」

「ああ。そうするよ」

 心を残して、小さな足音は引き返し、階段を下ってゆく。

 足音が消えるのと、上坂が開け放したままのドアに気付くのは、どうやら同時だったようだ。

「そこで、何をしている?」

「この通りだが」

 厳しい詰問が、凄雀の横顔に向けられる。

 相手の横柄な態度に、上坂も対応を慇懃丁寧なものに替えた。

「この部屋は、理事長不在のため閉鎖されている理事長室です。当学園の関係者以外は立ち入り禁止になっています。

 それに、あなたは当学園の保管書類を許可無く見ておられるようですね」

 一歩、部屋に踏み込む男子生徒は、生真面目だが人好きのしそうな顔立ちだ。壁から引き出されたファイリング・システムを一瞥する。

「今すぐ、ここを出て下さい」

「君の方は? 何者だ?」

 凄雀は、手にした卒業アルバムを閉じた。

「当学園の生徒副会長上坂です。

 どうぞ、それを棚にしまって、退出なさって下さい。

「私は命じられる覚えはない。今日から私が、ここの主だ」

 上坂は、釈然とせず、聞き返した。

「……どういうことですか?」

凄雀遼然(りょうぜん)。現学園長の一子だ。実質的には9月1日から、理事長兼学園長代行として就任する。

 元に戻さなくとも異存はないな」

「代行ということは、理事長の容態はお悪いんですか?」

 顔色を変える上坂を、チラリと見返した。

「いや。経過は良好という話しだ」

 そういえば、凄雀は、まだ父親を見舞っていないことに初めて気付いた。目の前の上坂は、ほっとしている。

「そうですか。よかった」

「親父さんは、生徒に好かれているということかな?」

 意地悪く聞き返す。

「嫌われてはいないとだけ、ご子息には申し上げます」

「管理者と馴れ合うのは、避けたいわけだな」

 当の管理者に返答のしようがなく、上坂は気まずく口を閉ざした。

「図星か。こんなところでも、骨のある奴は居るようだな。

 ますます、息抜きができそうだ」

「息抜き……ですか?」

 唖然と、してしまった。追い討ちをかけるように、凄雀はアルバムを付き付け、開け放しの棚を指した。

 無言の指示通り、上坂は卒業アルバムを受け取り、キャビネットにしまい込む。軽くスライドさせると、扉の継ぎ目すら木目の中に消えた。

『息抜き』の言葉を思い返し、凄雀を盗み見た。

 部屋の新しい主は、今度は廊下に出て、窓辺から外を見下ろしている。真昼の白い光を浴びて、彫りの深い顔立ちに、くっきりと陰影が刻まれる。

 ふと、右手壁際の見覚えのないガラスケースに気を引かれる。釘付けになった。

「気に入ってもらえたかな?」

 凄雀の声。自信を含んだ響きに、上坂は思わずうなずいていた。声も出せず、見入った。



 上坂の漏らした言葉に、凄雀は内心満足した。同志に近い意味で、上坂には好感が持てたのだ。

 飛鷹彩子が、もう一人の男子生徒と正門に向かう姿を見送って、凄雀は部屋へ引き返した。

 上坂はホッとしたように、すぐに退出した。右へ引き返さず、真っ直ぐ左の奥の部屋へと、彼は向かった。

 篠屋も、同じ方向へ向かった。

 この棟の奥に、どういった部屋があるのか。いくら記憶を辿っても、思い出せるはずのない凄雀であった。



 凄雀には並んで歩いているように見えた二人連れ。事実は正反対に、会話は一方通行が続いている。

「心配だなぁ。途中でまた、何かあったら、やだなぁ」

 大袈裟に嘆くのは三橋翔。彩子がふりきろうと早足にしても、立派に育った三橋のスパンは楽々ついてくる。

「送るだけだからさ。デートしよっとか、ハラ減ったからどっかで御飯しよっとか、言わないからさっ?」

 正門を出た左手、やや離れた位置に停車するダークグリーンの車が、三橋の通学の足だ。遠距離通学ゆえのブルジョア待遇を、本人は渋々使っている。

 今日は好都合だ。同じ左手のバス停留所に向かうのだ。車の横を通り過ぎる時に、とにかく乗せてしまえばいい。

「……何が起きるっていうの?

 もうあんなバカな真似、しないわよ……!」

 正門を抜けると、彩子は右に曲がって走り出した。

 ヤバイ……。

 彩子が向かう方角にも、30メートルほど先に停留所がある。その先で、黄色信号にバスが停車した。

「あれ、少し遠回りだろ? 乗るなよ」

 追い付いた三橋は時刻表を確認する。こちらのバス停に止まる車だ。彩子は押し黙って、三橋を無視している。

 日除けがないのでここは暑い。三橋は額の汗を拭うついでに、前髪を跳ね上げる。お手上げだ。

「兄貴が帰省してるんだろ? 今日は外に食いに行けよ?

 料理はするんじゃないぞ。

 理由なんか話さなくてもいいから、兄貴に甘えてろ。

 今日くらい絶対に火に近付くな。頼むから、彩子。

 ! 聞―てんのかよ!?」

 銀色の車体が風を持ってきた。目の前に開いた昇降口に、白いブラウスが吸い込まれる。

「大丈夫だって。すぐ元通りになるさ……」

 熱気を掻き回して、バスは走り去る。

 こんなふうに彩子の耳を素通りしたかもしれない、弱々しい言葉だった。今更それが情けなくなる。

「ハ……。俺なんかが、何十回、何百回、何千回、ダイジョーブッて言ったって、あいつにはなんの足しにもなんないんだからな。役不足は辛いぜ、ほんとに」

 彩子が、急にガラス細工の人形のように思えた。

 力を込め過ぎたら砕ける。掴まえていなければ落ちて、やはり壊れてゆく。

 彩子の中には消せない炎が燻っている。砕けたガラスは吹き出る炎に飲まれ、きっと跡形も無く焼き尽くされる。





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