(二)
悲鳴を聞き付けたのは、他にも何人か居た。
声のする方角を咄嗟に判断して、確信したのはその中でも彼だけ。テニスラケットを放り出し、呆然としている他の生徒たちを突き飛ばすようにして走り抜けた。
引き止める少女たちの声が、はっきりと近くなる。
「誰かきて! ヤダッ、彩子っ!!」
乱暴に低い茂みを蹴散らして駆け付ける。
予感通りの光景が目の前にある。焼却炉の放熱が、逆に彼の胸の奥をしんと冷え切らせた。
強く抱えて、引き離そうとしている二人の女子生徒。なのに体をよじって、彼女は手を解こうともがいている。
「三橋くんっ! 止めて、早くっ!
彩子、目を覚まして! お願い」
絞り出すような悲鳴。三橋は戸惑った。激しい痛みが込み上げてくる。手の施しようのない辛さが。
どんなに呼び掛けられても、二人の少女が泣き出しかけていても、彼女は振り返らない。開けられた炉の、40センチ四方の小さな窓を凝視して、紅い炎に焦がれて懇願していた。精一杯に伸ばした手に、炎の色が写るほど。
「いやよ……、志垣さん……。いっしょにっ……て……」
「……彩子……! ダメ! 帰ってきてっ……!」
無駄だ!
誰が呼んだって、あいつでなけりゃ……。くそっ。
彼女が、虚ろな瞳で炎に魅入られていても。
抱き締めて、大切に腕の中の虜にして、名前を呼び続けていて。それで、正気に戻せるのなら。紅蓮の呪縛から永久に解き放つことができるのなら。そうしてやろう。
たとえ、憎まれても。炎の中に飛び込もうとする狂気の願いから生み出される言葉で、呪われても。
「……いっしょにって、言ったじゃない!
いっしょに逃げなきゃ。ついてきて……、すぐ、側に行くから。あたしの後についてきて!」
「もう、終わったんだよ! みんな済んだんだ。お前だけ、そこに居ることないだろ? 彩子!」
「……どいて! どきなさいよ!」
口走りながらも、瞳は立ち塞がる三橋を映してはいない。
吹き上がる感情に任せて、彩子は少女たちの腕を振り切った。
尋常ではないパワーは、彼女の怒り。生きることへの、怒り。救わなければならないという、生への執着がなした力。ただそれは、彼女だけにしか見えない、リピートされ続ける過去。記憶の鍵を外したのは、紅蓮の炎。
呼び続けるのは、この世にはいない者の名前……。
彼女の魂は今、完了されたはずの過去に居る。
解き放たれて、真っ直ぐに向かってくる。
細い肩を、三橋の手が掴んだ。
「いいかげんに、目を覚ませ!」
頬が鳴った。
「……頼むよ……」
目を見開いたまま、彼女の動きは停止した。情けない、男の声の意味を考えているようにも見えた。
素早く立ち上がった女子生徒が、炉の扉をガシャンと閉めた。三人は、息を凝らして彼女を見守った。
「……痛……。? 痛い!」
唐突に、彩子は瞬きをした。
小さく痛みを伝えた後、ムッと瞳を鋭くして、一言、ぶった相手を責めた。
「よかった……。よかったぁ、彩子」
洋子が、ぺたんとへたりこんだ。
「いったい誰が、あなたにゴミなんか渡したの! みんな知らないはずじゃない。誰なのっ?」
小夜は、彩子の腕を掴んだ。
あたりに視線を投げた彩子は、事態を半分悟った。
「違うの。自分でするって言ったのよ。だって、あたし一人でガス台を使えるようにもなったのよ。もう一年以上経つし。ほら、たまにはリハビリしないと……ね?」
普段はおっとりした小夜が、完全に激怒している。そらすように、彩子は明るく振舞って、一人浮いているのにも気付かない。
「大丈夫よ。あんな小さな穴に、飛び込もうとするはずないじゃない。そこまで……」
「……入ろうとしてた」
「そんなはず……。今、来たばかりでしょ……?」
記憶が交錯している。というよりも、過去に引き戻されている間は欠落しているのだ。
「あなた、きっと手に大火傷をしたって、火の中を覗き込むわ。去年の冬、実験室でもそうだったじゃない」
「ほんとよ。もう少しで、手が触れるところだったし。あの人の名前、口走ってた……」
あの人の名前。その言葉に、彩子の視線は激しく揺れた。
洋子はまずかったと、口元を押さえた。
「……違うの。あたし、大丈夫だと思ったから。慣れなきゃ、進歩がないじゃない。そうでしょ?」
「あなたの大丈夫なのは、これでよくわかったわ。
けどね、いい? いいわね?
もう二度と、ここへは来ないで。わかった、彩子?」
ゆっくりと、小夜は身動ぎしない彩子を抱き締めた。
「お願いだから……」
溜め息のように、肩を震わせて囁いた。
「……ごめん……」
強張っていた体の力を、彩子は抜いた。何度もうなずいて答えにした。
「……うつけ者め。読みが甘いんだよ。
彩子は他人にガシガシ厳しくて、自分にゃ甘い奴だわよな」
好き勝手な言い様が、威圧的に彩子の頭の上に降る。
「一人で放置しちゃ、一番、めーわくな人種だよな。
やはりっ! 私めがついておらねば……」
くるっと向き直った彩子。
パンパン!
鮮やかな往復ビンタが、よく動く三橋の頬に決まった。
「痛いでしょ?」
彩子の目付きが怖い。
「……痛い、痛い。痛いです……」
大袈裟でなく、一歩身を引いた。調子に乗って近付きすぎたのが敗因と、すぐに悟った。いつもはほとんど、空振りで終わっているのだ。
「お返しっ!」
「ずっ、ずっるーい。俺がぶったとこだけ、記憶あんの?
それって、ずっるーい」
「何よ。その言い方。どっちが大うつけよっ」
吹き出した少女たちの笑い声が、二人漫才に花を添えた。
「二人とも、緊張感が続かないよね。心配して損した」
「ほんとに。もう元気になっちゃうんだから、いいリハビリよね」
「……やめて、その言い方。あいつ、励ましに取りかねないわ」
「フッ。そっか……。僕って、役に立つ人間なんだー」
ニカニカと顔を崩す三橋を睨んで、彩子はその場を足早に離れた。早く一人になりたかった。
焼却炉のある茂みから、飛鷹彩子は駆けるように抜け出してきた。目を凝らすと、彼女の瞳はさっき擦れ違った時よりも、暗く陰っている。何かすがれるものを探すように、唇をきつく引き締めたまま、旧い建物をぐるりと迂回して消えた。
窓辺から身を引き、凄雀は机上の身上書に手を伸ばした。
飛鷹彩子の身上書には、一部の報告書が添えられていた。
作成者は、第一須賀総合病院、精神科医尾上。冒頭に短くまとめられた結論は、飛鷹には後天性の精神障害があるという事実。日常の生活にはなんら支障はないが、ある一点、彼女の生活から排除しなければならない危険性が示唆されていた。
火、炎に、彼女を近づけてはならない。
炎によって打ち込まれた精神の傷は、炎によって呼び覚まされ、彼女を非正常な精神状態に陥れる。その状態は極めて自虐性が強く、放置したなら自死に至る、と。
『……大丈夫よ。前に進まなきゃ……』
乗り越えたいと願う強さの中に、凄雀は怯えを見た。彩子が焦る、怯えだ。