(一)
記憶のズレは、どこかボタンの掛け違いとよく似ている。
しばらくの間、間違いは気付かれることがない。
ある日突然、あるべき物がそこにはない事実が突きつけられる。呆然と立ち尽くす時が、訪れる。
夫人は耳をそばだてながら、腰を浮かせた。
「あら? 車の音。
かつ江さん? 遼さん、どこかにお出掛けかしら?」
「はい、奥様。学校へお出でになるそうです」
「まあ、やっぱり。あんな格好で」
縁側から庭へ降りて、着物の裾に気を払いながら、彼女はエンジン音のある車庫に駆けつけた。
頭二つ分は背の高い、すっきりとした痩身の青年が、夫人に追い立てられて部屋に上がる。
「ですが、今日は様子を見てくる程度のつもりで」
「……。ほんとうに、堅苦しいことがお嫌いな方ね」
困り果てて、睨み付ける目。
「あ、はぁ……」
青年を座らせて、自分も正座した膝を、青年の長い足に付き寄せる。
「正式ではないにせよ、きちんと身形を整えて向かうのが、最低限のマナーですよ。
第一、生徒たちに失礼です。あなたも学園の卒業生の一人なんですからね。けじめをつけていただかないと」
「……すみません。短慮でした」
左目に大きく流れる艶やかな黒髪。気になるらしく、夫人は手を伸ばし、目にかからないように撫で上げてやる。
「遼さんも来年は30の大台に乗るんですから、もう少ししっかりして下さらないと」
「……。お母さん。私は32ですが」
「? そうだったかしら?
ねえ、かつ江さん。遼さん、まだ29よね?」
かつ江は、老眼鏡を押さえて天井を仰いだ。
「生まれ年から、数えると……、はい。今年は32歳でいらっしゃいますね」
「まあ、いやだ」
「物忘れを始めるには、早すぎますね。お母さん」
涼しい顔でうそぶいた。青年は、かつ江の運んできたスーツを受け取って、奥に引き込んだ。
「遼さん。32だとわかっていらっしゃったら、年相応に、凄雀家の長男らしく、キチンとなさいませ」
「はい、はい」
のんびりとした返事に、夫人は大きく溜め息をついた。
しげしげと、頭を傾げた。
「でも、ほんとうにそうだったかしら……。
ねぇ、今年って何年かしら?」
遮るように、青年が声をかけた。
「これで、よろしいですか?」
「よく似合って。急いで選んだ甲斐があったわ」
シックな色のオリーブサンドは、手足の長い青年の体格を引き締めて見せるので、いいバランスである。
爽やかな紺色のクレストタイが、上品に結ばれてゆく。
「あなたが遭難したらしいって聞いた時には、心臓が止まるほどの思いがしたわ……。
無事に帰ってきてくれて、ありがとう」
襟足で束ねた背に落ちる髪を、夫人は指先で丁寧に整える。散髪してから学園に向かうよう、言い含めなければならないようだった。
「……大丈夫。出来るわよ。……もう、大丈夫。
一年経ったし、一人でお料理できるようにもなったし。
それって、進歩よ。人間って、日々、変わってゆくものよ……。だから、もう平気」
深く息を吸い込んだ、恐る恐るの呟きが、聞くともなく、青年の耳に入っていた。
場違いなまでに切迫した響きに、彼はいぶかしんだ。
ここは平和で、安泰な園ではなかったか?
楽園の匂いは、凄雀には居心地の悪いものだった。
正面の時代錯誤に古めかしい建物の向こうから、時折、賑やかな声が流れてくる。今日は夏休み最後の全校召集日であるはずだ。午前中で帰宅する、学生たちの下校時間を外して出掛けてきたつもりだった。放課後の校内は、思っていたよりも静かだ。
だから余計、奇妙に耳に残る。
正午前の頭上からの陽射しが、左手、職員駐車場の縁から奥へ点々と茂る落葉樹を煌かせている。
低い茂みに囲まれた一番奥に、上へ突き出た焼却炉らしき煙突。その向こうには細長く続くプレハブの建物がうかがえる。盛夏の暑さをものともせずに、体操服の学生たちがたむろしている。
なんの感慨もなく、彼等を眺めながら足を進める。彼等と自分の世界は、年齢の開きも含めて、隔たりがありすぎる。彼が歩み寄ることができるなら、この先、何ヶ月かを退屈に暮らさずに済むのだろう。
ふと、悪戯っ気が起きる。何気ないふうに歩調を緩め、右手からてくてくと歩いてくる人影を待った。
肩が腕に触れる。
「! すみません!」
やはり、呟いた少女と同じ声だった。驚いた拍子に、彼女は両手で持ち上げていたゴミ箱を手落とした。
「こちらもうっかりしていた。少し懐かしかったのでね」
頼り無くよろめいた少女の腕を掴んで、支えた。
「私こそ、ぼんやりしていて。あの……、前しか目に入らなくて。失礼しました」
ぺこりと頭を下げて、頬を赤くする。心在らずだった自分に動揺したのか、視線に落ち着きが失われている。
「夏休みなのに、たいへんな量だな」
「学園祭の準備です。取り掛かりの早いクラスもいて、丁度その特別室の当番ですから」
彼女は、中身をひっくり返さなかった幸運を見下ろして、ほっとしている。
「あそこへ?」
「いえ、大丈夫です。お構いなく。失礼します」
凄雀が伸ばす手を引き止め、また彼女は歩き出した。
「気を付けて……」
低い声に、彼女はピンと背筋を伸ばした。くるりと振り返って、不思議そうな顔をしている。
自然なウェーブの、肩に触れる長さの髪は、日に照らされて幾分赤く見える。凄雀には、鮮やかで衝動的な赤が連想できた。くっきりと引かれた眉も、彼女を生き生きと見せる。正反対に、瞳は心許無いまま、揺れている。
胸のネームプレートは『飛鷹』と刻印されている。
飛鷹……。
物問いたげな彼女を置いて、彼は歩き出した。
数歩後に、追いかけるように、呟きが聞こえてきた。
「……。気を付けて……か。
……大丈夫よ、彩子。前に進まなきゃ」
外観同様、建物の内部も重厚な造りになっていた。
職員玄関を抜け、上部を白い漆喰で固めた高い天井を見上げ、タイムスリップしたような感触を、凄雀は全身で味わった。
明治後期の建築か。当時なら最もモダン、最新の設計だったのに違いない。恐らく創立当初の建物なのだろう。歴史と伝統を誇る優秀校、稜明学園を決然と象徴していた。
凄雀の姿に、一人の女性事務員が対応に現れた。
「教頭先生や他の先生方は、生徒指導の打ち合わせで、ただいま会議中ですが……」
「取り付けを確認に来ただけです。正式な挨拶は休み明けで結構です。そう伝えて下さい。
絵の方は、終わりましたか?」
「はい。先ほどに」
若い事務員は、緊張しながらも凄雀に見惚れている。襟足で束ねただけの髪に好奇心が集中しているのだ。
長髪に、サマーセーターと濃紫の麻のパンツといういでたちよりも、トラッドなスーツの方が印象のよさは遥かに上である。門前払いされかねないところだった。
「あの……」
凄雀が尋ねかけると、期待に満ちた視線が返る。
「何でしょうか?」
「どっちでしょう、部屋は」
ぽかんと、聞き違えたかしらという、表情に変わった。
「そちらの、階段を上った、右手ですが……」
「どうも。学園長室どころか、自分の教室の見当もつきませんよ。ひどい卒業生です」
愛想悪いを、即座に彼女は浮かべた。
「それと。身上書を持ってきてもらえませんか。一人。
名前は……飛鷹、さいこ」
「わかりました。すぐにお持ちします」
見た目通りの頑丈な造りで、木製の階段はきしみもせずに、凄雀を受け入れた。
「ねえ。焼却炉の方に行ったの。彩子じゃなかった?」
細い長身の女生徒は、濡れたモップを壁に立て掛けて、眉をひそめながら尋ねた。校舎脇の足洗い場である。
「まさか。彩子が行けるわけないじゃない。あれから、まだ一年しか経ってないんだし。彩子がダメなの、みんな知ってるじゃない。ゴミを捨てさせるわけないよ」
「……行ってくる。見間違えじゃないわ。
洋子もついて来て。もしもの時は、私一人じゃ手に負えないもの」
「え? まさか……、そんな。あ、小夜っ!」
走り出した女生徒の後を、真上からの陽射しを恨めしげに見上げてから追いかけた。焼却炉に火が入っている。ここより暑いことは請け合いだ。