あなたへと降る雪<童話バージョン>
ある国の深い雪に閉ざされた山の中に、ひとりの男の人が住んでいます。名前はスヴェンといい、猟師です。短い夏の間にたくさん狩りに出かけ、長い冬は石造りの頑丈な小屋に篭って過ごすのです。
彼は一人暮らしです。親はもうなく、友人は少し離れた国の都に住んでいて時々遊びに来る程度です。彼は町があまり好きではなかったので、山の中に住んでいるのです。
一人ぼっち、それでもスヴェンは寂しくありません。彼は知っているからです。彼の近くには精霊がいて、いつも彼を見守り助けてくれているのだ、と。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
精霊は小屋の中から降り積もる雪を見てはため息をついていました。私が炎に生まれていたら、あんな雪はすぐに溶かしてあげられるのに、と。
精霊の守っている人間、スヴェンは今日も日課の雪かきをしています。一晩でうずたかく積もってしまう雪は、毎日どけておかないとなりません。玄関のドアが開かなくなるし、小屋が雪に埋もれてしまったら郵便配達の人に見過ごされてしまうからです。
精霊はよく働くスヴェンを見てまたため息をつきました。なぜわたしは水の精霊なのだろうか、と。彼の役に立ちたいのになにもできないと、精霊は毎日なげいていました。
ある日の夕方のこと、コンコン、とスヴェンの小屋の扉を叩く音が響きました。スヴェンが首をかしげているのをみて、水の精霊も同じように首をかしげました。こんな時間に一体誰だろう。スヴェンの友人はほんの二三日前に来たばかりだし、郵便局の人だって午前にしか来ないのです。
スヴェンが警戒してドアの前で様子を伺うと、ドアの外から女の子の声がしました。
「……すまない、道に迷ったのだが誰かいるなら入れてはくれないか? 休む場所もなくて難儀している。旅のものだ」
山賊かもしれないと警戒していたのにその声は小さな女の子の声だったので、スヴェンは慌ててドアを開けました。そこには確かに小さな女の子が、たった一人ぽつんと雪の中に立っていました。
スヴェンは親が一緒にいるのだろうとキョロキョロ探しました。けれども雪の中には女の子の小さな足跡一つしかなく、山はしんと静まり返っています。スヴェンが目をぱちくりさせているのをみて、女の子は笑い出しました。
「……いや、すまない。大体皆同じ反応をするので、なんだか面白くなってしまって。私は一人なんだ、残念ながら」
女の子は笑った後で、紫色の瞳をまっすぐスヴェンに向けてそういいました。
なんだか大人びた話し方をするなぁと水の精霊は思いました。スヴェンも驚いた様子で一瞬ぼんやりしていましたが、すぐに女の子を家の中に招き入れました。
家の中に入ってきた女の子を、水の精霊は壁際に浮いたままぼんやりとながめていました。着ている分厚い毛皮のコートは高級品のようで、暖かそうなブーツもはいていました。フードを被っているので、まだ顔や髪の様子はわかりません。
ふと、精霊は見られている視線を感じて身震いしました。その視線は女の子のものでした。フードの下から紫色の強い瞳がじっとこちらをみているのです。精霊は最初、女の子は壁にかかったなにかを見ているのだろうと思いました。なぜなら精霊は人間には見えないからです。でも後ろの壁を振り返ってみても、そこには石の壁以外何もありません。精霊はもう一度女の子を見ました。もしかして、自分のことが見えているのかもしれないと思いました。女の子は精霊に向かってにっこり笑うと、何もなかったようにフードを外しました。フードの下から現れたのは見事な銀の髪でした。つややかに光る銀色の髪はとても美しく、まるで貴族のようだと精霊は思いました。
スヴェンが女の子にコートやブーツを脱いで暖炉の前に干すように言いました。そしてシチューを作っているが、お腹が空いているかどうか女の子に尋ねました。女の子はシチューは大好きだと言いました。
女の子は分厚いコートやズボン、ブーツを脱いで、スヴェンに言われた通りに暖炉の前に干しました。上着を脱いだ女の子はさらに小さく見えました。精霊はまた考えました。こんな小さな女の子がたった一人でこんな雪の山を旅するのかなぁと。
精霊はゆっくりと移動し、女の子から見えない位置でじっと、観察することにしました。スヴェンと女の子は暖炉の前のテーブルに座り、お茶を飲み始めました。
女の子はアニーという名前で、十六歳だといいました。でも水の精霊は嘘をついていると思いました。スヴェンの友人の娘が夏の間にこの家に遊びに来ました。その子は十四歳だと言っていましたが、とても落ち着きがなく騒がしく、機嫌が悪かったのです。あの子があと二年たったとしても、アニーのように大人っぽくはならないだろうと思ったからです。
スヴェンも十六歳の女の子がたった一人で旅をしているのを不思議に思って尋ねました。女の子は友達を探しているのだと答えました。親は心配していないかと尋ねると、心配していたけど送り出してくれたと言いました。本当に不思議な女の子です。話し方も大人のような、男の人のような様子で、でも顔はとても幼くてとても不思議です。アニーはじっと暖炉を見つめていました。水の精霊はその暖炉に小さな炎の精霊が居ついていることを知っていました。炎の精霊はアニーの紫の瞳に見つめられ、居心地悪そうに震えました。
スヴェンがシチューを食べようと女の子に言いました。でもその前に手を洗うことにしました。スヴェンは女の子に言いました、家の水は不思議と温かいんだ、と自慢げに。アニーは冷たくかじかんだ手を水につけてほっと笑いました。確かにその水はお湯のように温かかったからです。
水の精霊はそのスヴェンの様子を見て感激しました。温かい水を引っ張ってきたのは精霊だったからです。寒い寒いこの場所で暮らすのに、水が温かくてとても役に立つんだとスヴェンは言いました。精霊は嬉しくなって踊りたくなりましたが、スヴェンとアニーが一緒にシチューを食べ始めたのを見ていたら、そんな気分ではなくなってしまいました。
わたしもスヴェンとご飯を食べたい。話をしたい。見てもらいたい。そう思いました。
けれどもそうできないことは精霊にも分かっていました。なにしろ精霊なのです。人間には見えず、スヴェンにはここにいることさえも知ってもらうことは出来ません。精霊は楽しそうに会話をするスヴェンとアニーを見ていられずに、窓の外を眺めました。
風が強くなって、雪を舞い上げています。一面の白い世界が広がっていました。精霊はあの中に出て行って、氷になってしまいたいと思いました。もしも炎の精霊だったら、寒い外でもスヴェンを温めてあげられたのに。水の精霊にはそんなことは出来ません。水の精霊にできたのはあの温かい水を引っ張ってくることや、スヴェンの頭の上に降る雪を、直前で水に変えて溶かしてしまうことくらいでした。せめて親戚である雪たちが降るのをとめることができればと、一度風に頼んで空の上まで上ったこともありました。けれども何も出来ないばかりか自分が雪になって落ちてきてしまったのです。
ちっとも役に立たないわたしは、もういないほうがいいのではないかと、水の精霊は悲しい思いでいっぱいになりました。
「……そんなに自分を卑下することもないだろうに」
悩んでいた水の精霊に声をかけたのはアニーでした。いつの間にか食事は終わり、アニーは壁際で悲しんでいた精霊を見上げていました。精霊は思いました。アニーには間違いなく自分の姿が見えているんだと。そうです、アニーは精霊を見ることができる少数の人間の一人でした。アニーは精霊に名前を尋ねました。しかし精霊には名前がありません。アニーはひとりで何かを考えた後、精霊に言いました。精霊をスヴェンに見えるようにしてあげる、と。
それを聞いて精霊は聞き間違いをしているのかと思いました。そんなことができるとは思わなかったからです。精霊が驚いている間に、アニーはキッチンにいたスヴェンを連れて来ました。アニーは暖炉の前に干しておいた服を身に着け始めました。それを見てスヴェンは吹雪の中出て行くのは危険だと引き止めました。けれどもアニーはスヴェンのいうことを聞かず、逆にスヴェンに問いかけました。これまでに起きた不思議なことを教えてくれと。スヴェンは何を聞かれているのか分かりませんでした。けれどもアニーはスヴェンしか知らないことを言い当てました。頭の上にはなぜか雪が積もらないということを。スヴェンは驚いて、そのほかにあった不思議な出来事を話しました。
夏の間狩りに出かけて、喉が渇くとすぐ泉が見つかることや、子供の頃に大きな湖で溺れたのに助かったこと、そしてこの家の周りだけ他より積もる雪が少ないことを話しました。
それを聞いてアニーは感心したように頷きました。水の精霊はスヴェンのためにたくさんのことをしていたからです。そしてアニーはまたスヴェンに尋ねました。それをやってくれたものに会いたくはないか、と。
アニーは精霊とは言いませんでした。けれどもスヴェンはそれは全て精霊のおかげだと知っていました。そしてスヴェンはいつも精霊に感謝してその日のことを日記に書き付けていたので、本当はとても精霊に会いたかったのです。
水の精霊は驚きました。まさかスヴェンが精霊の存在を信じ、感謝してくれているとは思わなかったからです。水の精霊はスヴェンを守るために生まれました。だからスヴェンに気付かれなくてもずっと彼を守ることは当たり前だったのです。
アニーはスヴェンに精霊を見る方法を教えました。それはとても簡単なことです。名前を付けるのです。
水の精霊はそんなことで、と驚きましたが、アニーはスヴェンと精霊の間でだけ成り立つ方法だと笑いました。精霊は緊張しながらスヴェンを見守りました。彼が名前を付けてくれるのだとドキドキして待ちました。
スヴェンは室内を見回した後で、窓の外を見ました。そしてふっと笑みを零し、深呼吸をしました。次に目を開けたとき、彼は呟きました。
『ヴィート』と。
彼が呟いた瞬間、精霊は自分の中に力が満ち、そしてあふれ出すのを感じました。目を閉じてじっとその力の流れを感じていると、戸惑うようなスヴェンの声が聞こえました。
「……きみ、が、その……ヴィート?」
宙に浮いたままの精霊と、スヴェンの視線がぴったり合っていました。今までこんなことはありませんでした。スヴェンが自分を見ることなどずっとありえなかったのです。だから精霊には分かりました。今本当に、スヴェンに自分の姿が見えているのだと。
驚いたスヴェンの顔があまりに面白く、精霊は笑ってしまいました。そして笑っているうちに、自分が憧れの緑のドレスを着た、人間の姿をしていることに気付きました。それは暖炉の中にいる小さな丸い形をした精霊とは全く違う姿です。精霊は思いました。まさか、もしかして、人間になれたのかと。
けれどもそれは違いました。スヴェンが差し出してくれた両腕に抱きついたはずなのに、精霊はその身体をすり抜けてしまったからです。
「……ヴィート」
スヴェンは振り向いて、床にしゃがみこんだ精霊に手を貸してくれました。でもその手をつかめないことは、彼にももうわかっています。スヴェンは悲しそうな嬉しそうな、複雑な顔をしていました。
「……そう。人間にはなれないよ、決して。……じゃあ、私はこれで」
すっかり旅装を調えたアニーはそういい置いて、ドアを開けて吹雪の中へ踏み出していきました。スヴェンが慌てて追いかけようとしたけれども、すぐに小さな背中は風の中に消えてしまいました。
スヴェンが心配そうに外を眺めるのを見て、精霊は言いました。アニーには強力な精霊がいて守っているから大丈夫だと。精霊には見えました。アニーが外に出た瞬間、とてもとても強い力を持った精霊が、アニーの周りに風の結界を張ったのが。
「……不思議な、人」
「本当、だな」
精霊―ヴィートがそう呟くと、スヴェンもそれに応えました。自然とふたりの視線が合い、ヴィートは彼の瞳を見つめました。
人間にはなれなくても、今彼はわたしを見て、そして話をしている。
そのことがヴィートにとって喜びになりました。ヴィートが花のように笑うと、スヴェンは頬を掻きながら言いました。お茶は飲めるかと。そのしぐさは彼が照れているときのものだとヴィートは知っています。くすぐったい気持ちで精霊だからお茶は飲めないよと返すと、スヴェンは申し訳なさそうにごめんと言いました。ヴィートはスヴェンに伝えました。わたしは飲めないけれど、あなたがお茶を飲みながら日記を書いているのを見るのが好きだと。そういうとスヴェンは顔を赤くしながらお茶の支度をしにキッチンへ向かいました。
ヴィートはさっきまであの不思議な女の子、アニーが座っていた椅子に腰掛けました。座ったと言ってもヴィートは精霊ですから、椅子をすり抜けないように少しだけ浮いています。それでもいいとヴィートは思いました。こうしてスヴェンと話をし、彼とともにいることができるのが何より嬉しいと思いました。
分厚い窓ガラスの外は相変わらずすごい風が吹いて、雪が舞っています。アニーはどこまでいくのだろうとヴィートは思いました。もしも次に会うことがあればお礼を言わなければなりません。あの銀の髪と紫色の強い瞳をこの先忘れることはないだろうとそっと目を閉じました。
スヴェンがカチャカチャと音を立てながらポットとカップを運んできました。暖炉にかかったやかんがシューシューと白い湯気を立てています。真っ白い雪原の中の小さな家に二人。この温かい家の中でずっと、スヴェンとともにいようとヴィートは思いました。
<白>、これがあなたのつけてくれたわたしの名前。わたしはこれからもずっと、あなたの上に降る雪を溶かしていく。
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ある国の深い雪に閉ざされた山の中に、ひとりの男の人が住んでいます。名前はスヴェンといい、猟師です。短い夏の間にたくさん狩りに出かけ、長い冬は石造りの頑丈な小屋に篭って過ごすのです。
彼は一人暮らしです。親はもうなく、友人は少し離れた国の都に住んでいて時々遊びに来る程度です。彼は町があまり好きではなかったので、山の中に住んでいるのです。
一人ぼっち、それでもスヴェンは寂しくありません。彼には精霊がいるからです。他の誰にも見えなくても、彼に微笑み、話し相手になってくれる美しい水の精霊が、彼の傍にずっといるからです。
お読みくださってありがとうございました。タイトルに<童話バージョン>とあるように、このお話には<小説バージョン>が存在します。最初にお話を書いてみたらあまりに童話とかけ離れていたので書き直しただけというあれなのですが(苦笑)興味をお持ちくださったならぜひ小説バージョンもご一読ください。 http://ncode.syosetu.com/n6407bb/
小説バージョンでは童話バージョンとは違った終わり方をしています。このお話は『安里の旅の物語』シリーズの一篇でもあります。