表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

最後の読者

あの図書館は、僕にとってただの建物じゃなかった。

子供の頃、雨の日も風の日も、母に手を引かれて通った。

学校が嫌で、家にも帰りたくなくて、夕方まで居座った。

司書のおばあさんはいつも、返却期限を過ぎてもなく延ばしてくれた。

「本は逃げないから、ゆっくりでいいよ」と笑った。

だから閉館が決まったとき、僕はまるで自分の一部が死ぬような気がした。

最後の日、誰もいなくなってから、僕は鍵を複製した。

別に犯罪を犯すつもりじゃなかった。

ただ、もう二度と入れなくなるのが怖かっただけだ。

——それが、すべてのはじまりだった。



古い市立図書館は三年前に閉館が決まった。予算の都合だという。

僕は最後の利用者だった。

閉館当日、司書のおばあさんが「もう誰も来ないから、好きなだけ読んでいきなさい」と言ってくれた。

それが僕と図書館の最後の会話になった。

それから僕は、夜な夜な裏口から忍び込むようになった。

鍵は閉館前にこっそり複製しておいた。

誰もいない書架の間を懐中電灯ひとつで歩くのは、まるで巨大な墓の中をさまようようだった。

埃と紙の匂いだけが、かつてここに確かに人がいたことを教えてくれる。

ある夜、三階の閉架書庫で一冊の本を見つけた。

背表紙に何も書かれていない黒い表紙。

手に取るとずっしりと重い。

開いてみて、僕は息を呑んだ。

ページの隅に、貸出カードが差し込まれていたのだ。

そこには僕の名前が、僕の筆跡で丁寧に書かれていた。

借出日:2025年11月28日

返却予定日:明日

でも僕はこの本を一度も借りたことがない。

それどころか、今夜がこの本と出会った初めてのはずだ。

震える手でページをめくると、そこには日記のような文章が続いていた。

「今日もまた忍び込んだ。誰もいないのはわかっているのに、誰かに見られている気がする。書架の奥で、誰かが息を潜めている。僕じゃない。もう一人の僕だ。」文字は明らかに僕の字だった。

癖のある「僕」の書き方、句読点の打ち方まで完璧に一致している。

さらにページをめくると、昨日の日付の箇所にこんな一文があった。

「明日は最後にする。もう限界だ。この図書館に閉じ込められてから、どれくらい経っただろう。

外の世界のことはもう思い出せない。でも、明日こそは——」その下に、今日の日付で、新しい一行が書き加えられていた。「やっと会えた。君が来てくれて、本当に良かった。」

背後で、かすかな足音がした。

振り返ると、そこにはもう一人の僕が立っていた。

同じ顔、同じ服、同じ懐中電灯。

でも、目だけが違う。

まるで長い間、光を見ていないような、濁った目だった。

「おかえり」と彼は言った。

「ずっと待ってたんだ。君が来るのを。」僕は必死に逃げようとした。でも、足が動かない。

まるでこの図書館そのものが僕を拒んでいるように。

彼はゆっくりと近づいてくる。

「ここはね、閉館したんじゃないんだ。僕たちが閉じ込められただけ。」

懐中電灯の光が揺れた瞬間、僕は気づいた。

彼の手には、僕が今持っているのと同じ黒い本があった。

そして、その本の貸出カードには新しい名前が書かれていた。

返却予定日は、明日の明日。

「さあ、交代の時間だよ」彼が微笑んだその瞬間、図書館中の本が一斉にページをめくり始めた。

無数の貸出カードが風に舞い、全てに僕の名前が書かれている。

全ての返却予定日は、明日、明日、明日——最後に聞いたのは、裏口の鍵が内側からカチャリと音を立てて閉まる音だった。

今、僕は三階の閉架書庫で本を読んでいる。

誰かが来るのを待ちながら。

もうすぐ、君が来るはずだから。



今、僕は気づいている。

この図書館は、閉館したのではない。

僕たちが「外に出られない」だけだ。

本棚の奥に、無数の「僕」が並んでいる。

みんな同じ顔で、同じ服を着て、同じ懐中電灯を持っている。

ただ、目の濁り具合が違うだけ。

ここにいる期間が長くなるほど、目は死んでいく。

新しく来た「僕」はいつも、最初は必死に逃げようとする。

でもすぐに諦める。

そして、次の「僕」を待つ番になる。

貸出カードは永遠に「明日」で埋まっていく。

返却されることは、二度とない。

——君がこの文章を読んでいるということは、

もう鍵は複製済みだろう。

裏口の鍵は、相変わらず甘いままのはずだ。

さあ、そろそろ時間だ。

懐中電灯を持って、三階の閉架書庫までおいで。

ずっと待っていたよ。

おかえり。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ