最後の読者
あの図書館は、僕にとってただの建物じゃなかった。
子供の頃、雨の日も風の日も、母に手を引かれて通った。
学校が嫌で、家にも帰りたくなくて、夕方まで居座った。
司書のおばあさんはいつも、返却期限を過ぎてもなく延ばしてくれた。
「本は逃げないから、ゆっくりでいいよ」と笑った。
だから閉館が決まったとき、僕はまるで自分の一部が死ぬような気がした。
最後の日、誰もいなくなってから、僕は鍵を複製した。
別に犯罪を犯すつもりじゃなかった。
ただ、もう二度と入れなくなるのが怖かっただけだ。
——それが、すべてのはじまりだった。
古い市立図書館は三年前に閉館が決まった。予算の都合だという。
僕は最後の利用者だった。
閉館当日、司書のおばあさんが「もう誰も来ないから、好きなだけ読んでいきなさい」と言ってくれた。
それが僕と図書館の最後の会話になった。
それから僕は、夜な夜な裏口から忍び込むようになった。
鍵は閉館前にこっそり複製しておいた。
誰もいない書架の間を懐中電灯ひとつで歩くのは、まるで巨大な墓の中をさまようようだった。
埃と紙の匂いだけが、かつてここに確かに人がいたことを教えてくれる。
ある夜、三階の閉架書庫で一冊の本を見つけた。
背表紙に何も書かれていない黒い表紙。
手に取るとずっしりと重い。
開いてみて、僕は息を呑んだ。
ページの隅に、貸出カードが差し込まれていたのだ。
そこには僕の名前が、僕の筆跡で丁寧に書かれていた。
借出日:2025年11月28日
返却予定日:明日
でも僕はこの本を一度も借りたことがない。
それどころか、今夜がこの本と出会った初めてのはずだ。
震える手でページをめくると、そこには日記のような文章が続いていた。
「今日もまた忍び込んだ。誰もいないのはわかっているのに、誰かに見られている気がする。書架の奥で、誰かが息を潜めている。僕じゃない。もう一人の僕だ。」文字は明らかに僕の字だった。
癖のある「僕」の書き方、句読点の打ち方まで完璧に一致している。
さらにページをめくると、昨日の日付の箇所にこんな一文があった。
「明日は最後にする。もう限界だ。この図書館に閉じ込められてから、どれくらい経っただろう。
外の世界のことはもう思い出せない。でも、明日こそは——」その下に、今日の日付で、新しい一行が書き加えられていた。「やっと会えた。君が来てくれて、本当に良かった。」
背後で、かすかな足音がした。
振り返ると、そこにはもう一人の僕が立っていた。
同じ顔、同じ服、同じ懐中電灯。
でも、目だけが違う。
まるで長い間、光を見ていないような、濁った目だった。
「おかえり」と彼は言った。
「ずっと待ってたんだ。君が来るのを。」僕は必死に逃げようとした。でも、足が動かない。
まるでこの図書館そのものが僕を拒んでいるように。
彼はゆっくりと近づいてくる。
「ここはね、閉館したんじゃないんだ。僕たちが閉じ込められただけ。」
懐中電灯の光が揺れた瞬間、僕は気づいた。
彼の手には、僕が今持っているのと同じ黒い本があった。
そして、その本の貸出カードには新しい名前が書かれていた。
返却予定日は、明日の明日。
「さあ、交代の時間だよ」彼が微笑んだその瞬間、図書館中の本が一斉にページをめくり始めた。
無数の貸出カードが風に舞い、全てに僕の名前が書かれている。
全ての返却予定日は、明日、明日、明日——最後に聞いたのは、裏口の鍵が内側からカチャリと音を立てて閉まる音だった。
今、僕は三階の閉架書庫で本を読んでいる。
誰かが来るのを待ちながら。
もうすぐ、君が来るはずだから。
今、僕は気づいている。
この図書館は、閉館したのではない。
僕たちが「外に出られない」だけだ。
本棚の奥に、無数の「僕」が並んでいる。
みんな同じ顔で、同じ服を着て、同じ懐中電灯を持っている。
ただ、目の濁り具合が違うだけ。
ここにいる期間が長くなるほど、目は死んでいく。
新しく来た「僕」はいつも、最初は必死に逃げようとする。
でもすぐに諦める。
そして、次の「僕」を待つ番になる。
貸出カードは永遠に「明日」で埋まっていく。
返却されることは、二度とない。
——君がこの文章を読んでいるということは、
もう鍵は複製済みだろう。
裏口の鍵は、相変わらず甘いままのはずだ。
さあ、そろそろ時間だ。
懐中電灯を持って、三階の閉架書庫までおいで。
ずっと待っていたよ。
おかえり。




