前編:何かに呪われた森
ほんの十歩進んだだけで、急速に光が失せていった。
昼だというのに薄暗い森。木々の枝が互いに絡み合い、空を覆い尽くしている。かろうじて差し込む木漏れ日も灰色の埃を照らすばかりで、闇を払うにはほど遠かった。
「生命力に満ちあふれた森ですね」
エルフの狩人・エドワウリードは楽しげに呟いた。だが、彼女に賛同する者はいなかった。
同行者達の間では、「不気味な森」という評価で固まっているようだった。
この森はただ暗いだけではない。湿った空気が肺を満たし、鼻腔の奥に腐葉土の匂いがこびりつく。一歩進むごとに小枝と枯れ葉が音を立てる。木々の幹には苔がびっしりと生えており、それはまるで毛皮をまとった魔物のようだ。
幸い、森を横断する街道は最低限の整備はされているらしい。街道は歩きやすかったが、そこから離れれば這い回る蛇のような木の根が進入を拒んでいた。
深い森での冒険に慣れているエドワウリードは褐色の指で苔を撫で、楽しげにしている。一方、同行者達は荷馬車から離れず、辺りを警戒し続けていた。
「エドワウ、先行しすぎだ。どこから襲われるかわからんぞ」
「襲われたら助けてくれますか?」
「槍の届く範囲にいたらな……。さあ、こちらへ」
同行者の1人は――商人のような装いの男は、エドワウリードを手招きした。
彼は手招きしている間もせわしなく視線を動かし続けていた。小さな音にも敏感に反応し、荷馬車から絶対に離れないようにしていた。
エドワウリードはその様子を見て、くすりと笑った。笑われた事に気づいた男は、渋面を浮かべて軽く睨み返した。
呑気な様子のエドワウリードは、男の眼光など意に介さず、「そんなに殺気立ってたら、森の住人が怖がるよ」と声をかけた。
「この森には、化け物なんていませんよ」
「そうであってほしいがな……。どうにも『呪いの森』という印象が拭えん」
男は鋭い視線で辺りを睨みつつ、忌々しそうに呟いた。
エドワウリード以外の同行者達は、男の言葉に同意しているらしい。小さな嘆息と共に頷く者もいた。ただ、彼らは現状を嘆き続けたりはせず、辺りを警戒しながら街道を進み続けた。
ここは呪いの森。そう呼ばれ、忌み嫌われていた。
この地は遥か昔、戦場と化して多くの血が流れた。木々はその血を吸って成長し、人々を拒むほど大きな森へと成長していった――と言われている。
戦場だったのは事実だが、血を糧にすくすく成長する木々など無い。無いのだが、人々がこの森を「呪いの森」と呼んで忌み嫌うのには理由があった。
「この森を通過しようとした者達が、もう何人も死んでいる」
森を抜けようとした者達の多くは、帰らぬ人となっていた。行方不明だけでは終わらず、無数の獣に食い荒らされたような遺体が転がっている事さえあった。
最初は近隣の住民や吟遊詩人が「呪いの森」「古戦場の亡霊が未だ彷徨い続けている」と語る程度だったが、噂は人と共に野山を渡り、すっかり広まっていた。
実態以上の残虐さと恐怖と共に――。
「それなりに整備された良い街道なんですけどねぇ」
「ああ。ここが安全になれば、隣国との交易が捗るのは間違いない」
死者が出てもなお、この森を突破しようと考える者は少なくなかった。
ここには国と国を結ぶ有用な街道があるのだ。危険を冒してでも最短経路を使おうとした商人は何人もいた。その多くが帰らぬ人となり、呪われた森の悪名を高めていた。
近年まで国家間の戦争が続いていた結果、通行する者は少なくなっていた。だがその戦争も終わり、隣り合う二国の仲も雪解けへと向かっている。だからこそここを通ろうとする者達がいたのだが、死体が積み重なるたびに命知らずも減っていった。
「っと……来た来た。領主殿、守りをしっかり固めておいてくださいな」
「あっ……! お前、勝手な事を……!」
夜が来るまで暗い森を進んでいると、エルフの狩人は同行者達から離れ、森の闇へと消えていった。褐色の彼女が猫のようなしなやかさで走っていくと、その姿は直ぐに見えなくなってしまった。