5話:弔いのひと房
いつもご覧いただきありがとうございます。
風は三日ほど来ない気がした。感覚の話なのだが、雲を見て、湿気を感じて、ハイネはそう思った。幸い、この島には二人と二羽の渡り鳥が七日は過ごせるほどの水もあり、人も渡り鳥もなかなか来ないからか木の実も果物もたわわに実っていた。見たことのない木の実は食べる前に調べる必要もあり、それなりに時間が必要だったのでちょうどよかった。
ガルトが商人から奪ってきた袋には細々したものが入っていた。木の器から鈍色に光る匙、切れるもの。ナイフとして使うには片刃で使いにくいが、押して引いてを繰り返せば切れる、小さなノコギリのようなものだ。それに、有難いことに塩が入っていた。
「どうやら、これは個人的な所有物だったようだ。全て一人分、だからこそ追ってきたか」
ハイネはなるほど、と頷き、広げられたそれらを手にとってはどう扱うのかを想像して楽しんだ。小さな革袋を見つけ、開いてみたら丸い、薄っぺらい銀色の板が出てきた。ハイネが親指と人差し指で輪を作ったくらいの大きさだ。齧ってみたら硬かった。
「なんだろう、これ」
「金だ、これは助かる」
「カネ?」
ガルトは革袋を受け取って地面に広げ、それを数えた。
「【大木の村】では物々交換が基本だったが、ああいう商人は本来、こういうものを支払って、物を買うんだ」
「どういうこと?」
「そうだな、たとえば……」
ガルトは昼食に置いてあった赤い果物を前に三つ並べ、ハイネに薄くて硬いそれが入った茶色の薄い板を渡して持たせた。
「俺が商人だとして、この果物を商品として持っている。ここまではいいな?」
「うん」
「ハイネがこの果物を欲しいと言うとする。そうすると、商人は対価を払え、と言う」
「……それがこれ?」
ガルトが頷く。ハイネには価値がわからないので、どうしてこれで交換ができるのかがわからない。どうして交換ができるのかを問えば、ガルトは少しだけ言い淀んだ。説明が難しいらしい。
「こういうのは実際に使って覚えるのが一番早いんだ。俺が持ち出した金が使えるか不安だったが、この分だと物は同じでよさそうだ。問題は価値と価格だな。どこかで買い物ができそうな島へ辿り着いたら、調べてみよう。今はそれで納得しておいてくれ」
「わかった」
こんな薄っぺらいものが価値を持つ。その謎は先送りだ。
風が吹くまでの間、やるべきことは多い。ハイネの髪を染められる安全な木の実を探さなくてはならない。様々な木の実を集め、潰し、手が染まるもの、痒くならないものを探し、まる一日が終わった。徒歩二時間という狭くて、ハイネには大きい島は物を集めるだけでそれなりに大変で、渡り鳥のケーッという鳴き声はよく響き、戻る場所を明確にさせてくれるのは助かった。おかげで二色染められる木の実が見つかった。黄色と青の二色だ。青はガルトの自警団のマントを染めるものと同じようなものだったので扱いやすい。
「これどっちにすればいいんだろう」
【大木の村】では茶色が主で、商人たちも色は薄くても茶色系統だった。毛先を少し染めたところ、黄色は鮮やかな明るい色で、青も深くてそれなりに濃い。お互い手のひらに絞った木の実の汁、染色汁をそのままに、唸る。どちらも目立ってしまう気がして困った。
「他の島って、どういう色がいいんだろうな」
「そうだな……」
しかしこのまま持っていると手が染まる。染色汁がなかなか落ちないのは知っている。この島で見つけた、水に生えている大きな葉を皿代わりに持ってきていたので、そこに垂らした。お互い水で流して手を洗い、若干染まった手のひらに苦笑する。ふと、ハイネは草の皿に零した黄色と青の混ざった場所を見て目を見開いた。緑だ。
「ガルト、これ、使えないか? ガルトと同じ色ならどうだろう」
「いいかもしれん。親子でも、兄弟でも通る」
「じゃあ早速染めてみる?」
「その前に、ハイネ」
なんだよ、とそちらを見遣ればガルトは鈍色の得物を抜いた。すらっと音がして筒を滑る音になぜか恐怖が浮かぶ。
「これは鉄という素材を融かし、叩き、作られた剣だ。刃先は鋭いから触るなよ」
「それも、ガルトがいた島で作ったものなのか?」
そうだ、とガルトはその剣を後ろに持っていき、自身の編まれた髪を掴み、ザキザキと音を立てて斬り落とした。それは【大木の村】では死者を弔う時の儀式だ。【大木の村】では髪を切らない。死んだ時、初めてそれを斬り、村の中で紐や道具に使われる。死者の髪すら資源になるのだ。そうして死肉は鳥に晒され、魂は大鳥へ移り、村はそれが落としていく羽や羽毛、時に糞に混じった種などを得ていた。だから、ハイネは髪を斬り落としたガルトに慌てた。
「ガルト、どうして髪を、それをどうするつもりなんだよ」
「これからハイネの髪も斬る。染めやすくするためだ」
死ぬつもりであるとか、殺すつもりであるとか、そういうことではないとわかりホッと胸を撫で下ろした。けれど、伸ばしてきたものを斬るのか。それは少しだけ勿体ない気持ちが沸き起こった。だが、染めるのに染色汁が大量に必要になることもわかる。染めるとなれば、伸びた髪の根元を染め直さなくてはならないということも、なんとなく理解できた。この木の実はハイネとガルトが安全な場所に辿り着くまでは必須だ。持っていけるだけ持っていきたい気持ちはある。
塩と同等の価値が自分にあるとは思えなかったが、あの時、ガルトが守ってくれなかったらどうなっていたのかと思うと怖かった。
「大丈夫だ、髪はまた伸びる。どこかで腰を据えて暮らし始めたら、また伸ばせばいい」
「……うん」
おいで、と言われて大人しく隣に座る。ぐっと髪を掴まれて動くなと指示され、ハイネは目を瞑った。ザリ、ザリ、とゆっくり、編んだ髪は丁寧に斬り落とされた。途端に頭が軽くなってふわっと風を感じた。髪を切られる死者というのは、こういう感覚を抱くのだろうか。
それから岩に座り、空を仰ぐように言われ、これもまた素直に言うことを聞いた。作った緑色の染色汁を生え際から慎重に手で塗り込み、ぽたり、ぽたりと垂れていく。スゥッとするような、ひんやりするような不思議な感覚があって、そこに濡れたものがあるとわかる。暫く時間をおいてガルトが水を何度も掛けて流し、ハイネの髪は緑色に染まった。
「ガルトと同じ色?」
「俺ほど深い色ではないが、緑だ」
ハイネは前髪を摘まんで上目に自分でも確認した。確かに少し淡いかもしれないが、白ではなくなった。
「ガルトの弟って呼ばれるのか? それとも息子?」
「どちらでも構わないが、ハイネはどちらがいい? 口うるさい父親か、口うるさい兄か」
「口うるさいのは同じなのかよ!」
「そうだぞ。ここが【大木の村】ではないだけで、俺は態度を変えるつもりはないぞ」
ふぅん、とハイネは少しだけ嬉しそうに、けれど不本意を装って視線を逸らした。ガルトはそうした機微には疎く、どうした、と首を傾げていた。ハイネは盛大にうーん、と悩んで見せた後、にっと笑った。
「じゃあ、兄貴でいこう! ガルトは俺の兄貴で、俺は仕方ないからガルトの弟ってことで」
「これ以上困らせてくれるなよ? 老けてしまう」
「それはどうかな」
ハイネは笑って、ぐぅ、と腹の虫を鳴かせた。
風は予想通り三日目に来た。商人から奪った袋、ガルトはこれを繊維袋ではなく、麻袋と呼んだ。【大木の村】で作っていたように葉の繊維を重ね、畳み、より合わせるものではなく、もっと強い植物が使われているのだという。その中に染色に使える木の実をありったけ、渡り鳥が何日飛ぶかもわからないので持ってきた紐で果物を結び、ガルトが羽織っていた自警団のマントを袋代わりにして持っていく工夫を凝らした。それから水だ。ガルトの水筒の酒が空になっていたので、そこに汲んだ。ゆっくり飲めば一日、あとは果物の果汁で喉と腹を満たす予定で行く。
ハイネは、ここに来てからなんだか感覚が鋭くなっているような気がした。ガルトを助けたらしいあの力が、白い花が咲くことはなかったが、あれが自分のどこかにいるのだという確信があった。それをどう扱えばいいのかがわからない。ガルトは着けていた装備、どうやら革というらしいそれを少しの間外していたので背中の傷痕にも気づいただろう。だが、何も言ってこなかった。ハイネはもう少し自分の中で言葉がまとまってからにしようと思い、勝手に時間をもらっていた。ガルトはガルトで、ハイネが話してくれるのを待つつもりでいたのでそれでよかった。
様々な準備ができた。渡り鳥に荷物を持たせ、ハイネがよじ登る。もう一羽は乗らず付いてくるのに任せるようにした。もし別の風に乗ってしまった場合、もし習性よりそれが勝った場合、はぐれてしまうことを危惧した。ハイネの後ろに乗ったガルトはハイネの合図を待った。
さわ、と柔らかい風が吹いているのがわかる。これじゃない。ハイネは渡り鳥の背の上で姿勢を正し、空を見上げ、目を瞑った。鼻から息を吸って深い呼吸を繰り返し、誰かに背中を押されるような感触を得て目を開いた。
「ガルト、風が来る!」
「おぉ!」
ガルトは雄たけびを上げ、その声に押されるようにして渡り鳥が走り出す。ケーッと言いながら地面を蹴って大空へ落ち、広げた翼が風を掴む。ぐんっと持ち上がり空へ。ここに来るまでに風に引っ張られるように揺れていた髪がなく、首元がすーすーする。ひんやりとした風が頬を叩く。渡り鳥が滑空の姿勢になって、ハイネは息を吐いた。ガルトは後ろからハイネの緑髪をくしゃりと撫ぜた。
「よくやった、いい風読みだった」
「へへ、見たか!」
ただ、この風が向かう先はわからない。地図のない大空、ただ空の女神の思し召しだけを信じて、渡り鳥とハイネたちは何もない空を飛んでいった。
面白い、続きが読みたい、頑張れ、と思っていただけたら★★★★★やリアクションをいただけると励みになります。