2話:商人
散々な目に遭った。あのあと、ガルトは本当にハイネを転がしたまま帰ってしまい、拘束を解けなかったハイネは本気で泣くはめになった。翌朝拾いに来たガルトは、ぐったり憔悴しているハイネを引きずって【大木の村】の水場へ連れて行った。
「まったく、水は貴重なんだぞ」
「ガルトがあんなふうに放っていくからだろ!」
「お前は少し反省しろ、ハイネ」
大木にできた窪み、雨はそこに溜まって、水守りが許す時に各家庭、広場に流される。葉で作った手桶に水を汲んでを差し出され、濡れた下半身を清めた。屈辱だ。服も洗わなくてはならない。
「この水は俺の取り分からだ」
ほら、と放られた水色の木の実。洗濯物をする時に使う木の実だ。潰すと透明の液体が零れ、しゅわしゅわと泡立ち、ほんのりいい香りがする。
「当然だろ、ガルトのせいなんだからな」
ふん、と下着やズボンを再び水を汲んだ手桶に突っ込み、水色の木の実を潰してバシャバシャと洗う。水は【大木の村】で貴重だ。雲が高く上がり雨が降らなければ確保ができない。空気が乾燥し始めると空読みの者が水に制限を掛け、水守りと自警団が水場を護衛するほどには厳重だ。早朝とはいえガルトはきちんと許可を得ているらしく、誰もいなかった。ガルト自身が信頼されている証拠でもある。
一人に与えられる水は通常時は手桶三杯。ガルトはハイネに二杯譲ったことになる。水がなければ死んでしまうと聞いたことを思い出し、少しだけ、申し訳なくもなった。
「なぁ、ガルト、喉乾かないのか?」
「心配ない、俺にはこれがある」
ちゃぷ、と揺らされたのは木の水筒、酒だ。っけ、と悪態をついてハイネは洗濯を終え、枝葉に掛けて乾くのを待つ。下半身丸出しですーすーするのは落ち着かない。ガルトは幹に寄り掛かって腕を枕にし、目を瞑って葉擦れの音に耳を澄ませているようだった。さすがに下半身真っ裸で逃げるとは考えていないらしい。ハイネとて、誰かに見られたら恥ずかしい気持ちはあるのでそれはそのとおりだ。
くぅっと腹が減って腹を撫でるハイネに、溜息をつきながらガルトがぽいと葉の繊維で編んだ袋を投げてきた。その中には茶色の木の実が入っていて、ぽり、と齧った。香ばしい、噛めば二つに割れる木の実。コリコリとした食感はいいが、少し喉に詰まるぼそぼそ感があった。こほっと咽込めばガルトから声が掛かる。
「必要ならもう一杯水を掬え、俺はいい」
「でも、体拭わないと臭いぞ、おっさん」
「ばぁか、まだ若い。それに昨日拭ったばっかりだ。あと二日は平気だろ」
再び幹に寄り掛かって目を瞑り、ガルトは淡々と返してきた。ハイネはこの年、十五になった。ガルトはそれよりも十以上は年上で、三十代前半だと聞いた。この大木の村の生まれではなく、それこそ渡り鳥に乗ってきたというが、ハイネが聞いても本人がそれに対し肯定も否定もしないのでわからない。周りに聞いても、ははは、と笑われるだけだった。
「なぁ、ガルト、どうして外に出るのに勉強とかが必要なんだ? 習ってるのは木の実の種類とか、水の管理方法とか、畑の使い方だ。渡り鳥の扱いも教えてくれないのに、どうして学ぶ必要があるんだ?」
うん? とガルトは眉を上げ、ふぅむ、と鼻から息を抜いた。
「たとえばな、ハイネ。さっきお前が洗ったように、服を洗うのには水色の木の実を使うと知っていて使っただろう」
「うん」
「俺がやった木の実も、食べられるとわかっていたから食べただろう」
「うん」
「そういうことだ」
がく、とハイネは首を落とした。そういうことがわからないから、どういうことかと聞いたのだ。くく、と笑ったガルトはよっこら体を起こし、胡坐をかいてハイネに向き直った。座れと示され、踏まないように座った。
「お前が昨夜渡り鳥を利用しようとしたのも勉強したからだ。天気と、星と、季節。重なったいくつかの条件をもって、渡り鳥が乗れる風が吹くと思ったんだろう?」
「……うん」
「学ぶというのはそういうことだ。畑の使い方ひとつとっても、学ぶのはそれだけが理由じゃない。視野の狭いガキになるなよ、ハイネ」
ガキじゃねぇし、とハイネはむっすり唇を尖らせた。服が乾き、着直してやっと動けるようになった。それじゃ、と逃げ出そうとするハイネの首根っこをしっかりとつかまえて、ガルトはそのまま村の方へ歩き出した。
長い幹の道を行けば木のうろにいくつも家のある広場に辿り着く。大木はそのまま人々の住居となっており、葉を叩いて繊維を取り出す者や、絞った葉の汁を濾して喉を潤す水に変える者、繊維を編む者など、それぞれが生きるための活動をしている。
「おはようガルト団長、ハイネ、反省した?」
「おはよう。まだ無理そうだ」
ずるずると引きずられながらハイネは唸って暴れる。ガルトはまったく意に介さず首根っこから手を離さない。大木の繊維で編まれた服は頑丈で、それを使って作る紐もかなり丈夫だ。風や雨で落ちた枝葉は先端を尖らせて矢にされ、武器になる。こんな平和な【大木の村】で武器なんて使わないだろうに、皆が備えようとする。
一度、なぜ武器を持つのかと聞いたことがある。ガルトは、友好的ではない渡り鳥や、交易者はいる、と答えた。そういうものか、とその時は納得したが、果たして本当はどうなのだろう。などと考えていれば村の端、小さな木のうろに辿り着いた。ハイネとガルトの家だ。ぽいと放られ、どさりと床に転がった。家に窓はなく、扉だけが明かりを取り入れる唯一の入り口であり窓であり出口だ。ハイネは振り返って黒い影になっているガルトへ文句を言った。
「何するんだよ!」
「風が吹くなら今日あたり商人が来る。お前は家から出るな、罰だ」
「えっ、ちょ! ガルト!」
目の前でバタンッと閉じた扉。外でギチギチ、ギュッ、と何かを結ぶ音がして、扉に紐が結ばれたのだとわかる。扉は押しても引いてもびくともしない。扉をバンバン叩いて叫ぶが、あっという間にガルトはそこから離れていったらしい。ハイネは扉を蹴って叫んだ。
「なんなんだよ! なんでもかんでもダメダメ言いやがって!」
くそ! と叫び、乾燥させた葉の繊維で作ったベッドのクッションにばふりと倒れた。
「父親でもないくせに」
【大木の村】の人々曰く、ハイネは親なしらしい。それを引き取ったのがガルトなのだという。同情で引き取られたのだと揶揄われたこともあり、ハイネはガルトが嫌いだ。いつも落ち着いていて、強くて、慕われていて、それでいて、ハイネに何かあると即座に駆けつけて、心配そうな顔をみせる。
「父親でも……ないくせに……」
自分の水を与え、食事を分け、口うるさいことを言いながらも決して見捨てない。真っ暗闇の夜、時折怖くなって仕方ないハイネが、ガルト、寝たのか? と尋ねると、寝ていても大きく息を吸って、どうした、と聞いてくれる低い声が。
「本当に、父親じゃ、ない?」
確かに髪の色や目の色は違う。他の家を見ていると、家族は色合いが似ていて、ハイネとガルトほど色合いが違う家はない。父親なのかと聞いてもガルトは違うという。何度聞いても首を横に振る。毎回そうして裏切られるたびに尋ねることを躊躇するようになったが、もしかしたらという気持ちも捨てられない。
この【大木の村】では皆が茶色の髪に薄い茶色の眼と、ハイネとも、ガルトともまったく違う。二人だけが浮いている。
考えごとをしていれば遠くで明るい声がした。渡り鳥に乗って商人が来たのだろう。年に一、二回だけのお祭りのようなものだ。皆この時のために物々交換できるものを作り、貯めている。先ほど村の広場で葉の繊維を編んでいたように、籠や袋が工芸品という名前で売られるらしい。
見たい。今回は何を積んできたのだろう。どの商人が来たのだろう。前回も、前々回も同じやり取りで家に閉じ込められてしまい、参加できなかった。がばりと起き上がって再び扉をぐいぐいと引っ張ったり、押したりする。
「ガルトの馬鹿力! くそぉ!」
「お困りかね?」
んん、ともったいぶった声がした。少し離れてはいるが、隣に住む少女の声だ。
「リマリ、紐どうにかしてくれない?」
「えぇー、でもこれ開けたらガルトさんに怒られるしなぁー」
「頼むよ、俺も商人見たい!」
頼む、と姿は見えなくても扉の向こう側へ両手を合わせて懇願すれば、そこに立つ少女、リマリはそうだなぁ、と思わせぶりにためてから言った。
「じゃあ、ハイネが一つ何か、私に贈り物して?」
「わかった!」
「ぜーったいよく考えないで言ってるやつだぁ、まぁいいけど」
待ってね、とリマリが言ってから、キシキシと紐を切る音がした。枝葉に切り込みを入れてつくったノコギリのようなものだ。ちょっとした作業によく使うので、皆が持ち歩いている。ガルトがしっかりと結んでいなければ、あのみのむしもそうした道具を使って抜け出すつもりだった。
まだ? もう少し、というやり取りを何回か経て、扉が揺れた。そうっと押せば開いて緑の葉と青い空、澄んだ空気が美味しかった。ドヤ顔で小さいノコギリと切った紐を手に、ふんわりとした癖毛を無理やり編んでいる少女がいた。
「ありがとう、リマリ!」
「お礼は物でよろしく! いこ!」
ぐいっと手を引かれ二人で広場に駆けていった。
【大木の村】の住人たちが詰めかけていて、商人が一つずつ物を確認し、物々交換できる品物を選んでいた。自警団は村の資産である木の実や果物を商人とやり取りし、塩を手に入れる役割がある。この塩は長老、空読み、水守り、自警団と、それぞれの長が話し合い、各家庭に配布される。
大きな渡り鳥は四羽、渡ってきてくれた礼に水も、木の実もたんまりと捧げられていて、嘴でカツカツと啄んでいる。その渡り鳥が落としていく羽もまた、【大木の村】では貴重品だ。広げられている商品は様々だった。硬い灰色の板や、枝葉の選定に使えるこちらも木製ではない鈍い色合いのノコギリ。それに、剣だ。木剣じゃない。ハイネはふらりと手が伸びた。
「おっと、坊主、危ないから触るな……」
商人の一人がさっと剣を取り上げ、訝しむようにハイネを見た。ぐいっと三つ編みを掴まれて思わず振り払う。
「染めてるわけじゃねぇだと……?」
「な、なんだよ」
「お前、その白髪は地毛か?」
「……そうだけど」
ほーぉ、と商人はにんまりと笑い、他の仲間の肩を叩いてひそひそとやり始めた。不愉快な態度だ。商人たちの視線がハイネに集まり、向こうで塩のやり取りをしていたガルトにバレた。即座に飛び掛かられはしなかったが、その視線がなぜ出てきたと責めている。これはあとで大目玉だなと思い、ハイネは少しだけ首を竦めた。そうしてハイネが困惑していれば、商人はとんでもないことを言い始めた。
「その白髪の小僧を売ってくれるなら、今後この村には塩を無料で提供してもいい」
ざわっと村人たちがハイネを見た。素早くガルトがその視線に割り込み、ハイネを庇う。
「断る、こいつは商品ではない」
「団長さん、賢く生きよう。塩の価値は高い。……ここに卸さなくたっていいんだぜ」
どよめきが広がった。以前、塩が手に入る前、【大木の村】では体調不良の者が多く、あわや村が壊滅するところだったと誰かに聞いた。それからこうした商人が来た際、塩だけは村の資産で仕入れることになったのだ。【大木の村】で有限である資産、木の実や果物を出さずとも、塩が手に入る。それは大きな誘惑に映った。浴びたことのない視線から逃れるように、ハイネはガルトの背中に隠れた。
「ハイネ、帰るぞ」
「おいおい、団長さん! 明日までいるんで、村でよぅく相談なさってくださいねぇ!」
ガルトに肩を掴んで足早に歩かされながらハイネは少しだけ振り返った。じっと村人たちの視線が注がれていて、困惑したリマリの表情だけが救いだった。
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