元英雄だけど心が折れて追放されました〜だけど仲間たちと迷宮で本当の勇気を見つけます〜
朝焼けがギルドホールのガラス窓を茜色に染める。パンの焼ける香ばしい匂いと、剣士たちの騒がしい声が混じり合ういつもの朝――のはずだった。
「なぁ、見たか?」
「これって本物?」
掲示板の前に群がる冒険者たちのざわめきが、今日だけはいつもと違う緊張感をはらんでいる。レオンはギルドの片隅で、背中を壁に預けて立っていた。掲示板の中心に貼り出された大きな一枚の紙。
“英雄レオン追放”――その文字だけが、朝の喧騒を一瞬で凍らせる力を持っていた。
(やっぱり、こうなるよな……)
レオンは静かに息を吐き、額に落ちる前髪を指でかき上げる。
いつものようにパンを受け取ってギルドの隅に腰掛けたが、視線の先では、かつての仲間たちが楽しそうに談笑している。あの輪の中に、自分の席はもうない。パンをかじるたび、口の中に乾いた味が広がる。
ふいに、耳元で誰かがささやいた。
「どうせ全部、お前のせいだろ」
振り返ると、誰もいない。その言葉だけが、石畳の隙間に染み込んでいった。
「結局、英雄も人間だったんだよ」
「アイツ、何かやらかしたんだろ?」
ギルドの隅々まで、冷たい噂がすぐに広がる。誰もが“真実”を知らないくせに、誰もが“知っているふり”をしている。それが一番、レオンの胸を刺した。
最後の一口を飲み込み、レオンは静かに立ち上がる。
「もう終わりか」
「あいつ、何する気だ?」
背中越しに飛んでくる声も気にせず、彼はただまっすぐギルドの扉を押し開けた。扉の向こうは、冷たい朝の空気。新しい一日が始まるはずなのに、胸の中に灯るのは小さなため息だけだった。
ギルドから一歩外に出ると、石畳に薄く雨が残っていた。まだ降り止まぬ空模様。傘もなく、ゆっくり歩くレオンの肩を、冷たい雫が静かに叩く。
「……英雄様も、雨くらいはよけられないのか?」
そんな自嘲を呟いて、レオンは濡れた路地を歩き続けた。昔は仲間と並んで歩いたこの道も、今日はやけに広く感じた。
迷宮都市の門をくぐると、まず鼻をつくのは濃い埃と、冒険者たちが身にまとう獣皮の生臭さだった。石畳は割れ、露店の屋台からは焼き魚とスパイスの匂いが入り混じる。
レオンは荷物ひとつ、だらしなく肩にかけて歩き出す。肩書きは地に落ち、足元には泥がつく。
(英雄も、ただの男に戻ると、こうも世間は冷たいのか……)
すれ違う冒険者が、わざとらしくレオンの足を避ける。ちらり、と投げられる視線――
あのギルドの喧騒とはまた違う、「どうせ噂の元英雄だろ?」という乾いた目。
朝市の活気は迷宮都市の“名物”だが、今のレオンには騒がしすぎる。売り子のかけ声、鉄鍋の音、果物が転がる音――
だが彼に声をかける者はいない。レオンは、焼きたてのパンをひとつ手に取り金貨を差し出した。
「英雄様は値切ったりしないよね?」
店主の皮肉が、パンよりも苦かった。
人混みのなかで「……かわいそうにね」「あれが、あの英雄?」と、誰かのささやきが風に混じる。パンの香りも、空腹さえも、レオンの胸には届かない。
ひと気のない路地に座りこみ、レオンはパンをかじった。焼きたてだったはずなのに、やけに固い。噛み締めるたび、しみ込む苦さ。石の壁に背をもたれ、空を見上げる。
「どうせ全部、お前のせいだろ」
――ギルドで囁かれていた言葉が、まだ耳に残る。
自分のせい。わかってる。でも、認めたくない。パンをもう一口食べてみるが、味はどこか遠い。
「……久しぶりね」
誰もいないはずの路地に、涼しい声が響く。振り返ると、そこに立っていたのはミレーヌ――黒髪をきりりと結い、青いローブをまとった魔術師。レオンはパンのかけらを慌てて隠し、何とも気まずい顔をした。
「……ああ、ミレーヌか」
それだけで、胸がひどく苦しくなる。彼女も一瞬だけ微笑む。でも、すぐに目を伏せる。再会の喜びよりも、過去の痛みが先に顔を出した。
「元気だった?」
「……まぁな」
それ以上、言葉が続かない。二人の間を、冷たい風が通り過ぎる。
「ねぇ……英雄って、やっぱり、寂しいものなの?」
ミレーヌの問いに、レオンは笑ってごまかす。
「英雄は、意外と腹も減るしな」
二人して、小さなパンを分け合う。そこに流れる空気だけが、昔と少し似ていた。
レオンはミレーヌの顔に、かつての明るさよりも疲れや陰りを見つける。ミレーヌもまた、レオンの目の奥に「迷い」や「怖れ」を感じ取る。
「無理するなよ」
「そっちもね」
その一言が、昔よりもずっと重く感じられた。
翌朝、迷宮都市ギルドの掲示板に新たな張り紙が躍る。
――「心の迷宮」探索隊結成:メンバーに元英雄レオンを指名――
「なんで俺……?」
レオンは天を仰いで呟く。ギルド受付の少女は無慈悲に「上からの命令です」と一言。背後では誰かが「マジで使えんの?」「ギルドもお情けだな」と笑っている。
指定された部屋に入ると、すでに面々が揃っている。ヴィクトルは壁にもたれ、鋭い眼光で全員を値踏みする。ユリウスは腕組みでレオンを睨む。眉間のしわは山脈並み。セラはそわそわ落ち着かず、ノエルはやたら元気に「よろしくっす!」と手を振る。ミレーヌは何も言わずにそっと窓の外を見ている。
レオンが部屋の真ん中に立つと、一瞬の沈黙。
「俺がリーダーって……冗談だろ?」
「リーダーは俺がやります」と即座にヴィクトルが割り込む。
「俺はユリウス。英雄の背中を見てここまできました。…昔はな」
「セラです。皆さんの怪我は私が治します。心は……無理かもですけど」
「ノエルっす!一番役に立たない自信はあります!」
「ヴィクトル。仕事はきっちりやる。それだけだ」
皮肉と自虐と本音が交錯する。レオンは自己紹介を求められて一言だけ。
「レオンです。…元英雄です」
空気が一瞬だけ凍るが、ノエルの「元って言うのカッコ悪くていいっすね!」で救われる。
「英雄なら指揮して当然でしょ」とユリウス。
「いや、指揮官は合理的な判断が必要だ」とヴィクトル。
「みんな、やめて……」とセラ。
ノエルだけが「じゃんけんで決めます?」と妙に前向き。
結局、ヴィクトルがリーダーに決まる。レオンは少しほっとしつつも、居場所のなさを噛み締める。
朝焼けの路地で、ミレーヌがレオンに声をかける。
「無理しないで。英雄でも泣いていいんだから」
レオンは「ああ、泣いたら一日分の水分が無くなりそうだ」と冗談で返す。二人だけの小さな笑いが、朝の冷たい空気に溶けていく。
心の迷宮へと続く石段を下りていく。足音が響き、壁にかすかな水滴の音。ランタンの光がゆらゆら揺れる中、空気は次第に冷え込み、息が白く曇る。
ユリウスが「寒いですね」とつぶやく。ノエルは「心が寒いんじゃないっすか?」と冗談を言ってみるが、誰も笑わない。
霧のようなものが立ち込め、石壁に人影が映る。ヴィクトルの前には、昔見捨てた仲間の幻影が立つ。セラの耳には、救えなかった患者たちの声が響く。ノエルはかつて自分を笑い者にした少年たちの幻影に囲まれ、「もう逃げないぞ!」と叫ぶ。
レオンの前には、ギルド時代の仲間の姿が現れる。
「お前のせいで英雄は壊れた」
「自分の弱さから目を背けた罰だ」
その言葉が、心の奥深くに沈んでいた自責の念を強くえぐる。額に汗が滲み、手がかすかに震える。
ヴィクトルは足元に崩れ、セラは膝を抱え、ユリウスは剣を握りしめたまま震える。空気が重く、どこかで嗚咽のような音が響く。誰もが自分の幻影に縛られ、進むことも声を掛けることもできない。
「みんな、ビビるのも悪くないっすよ!英雄だって、パンツ一丁で泣く夜があるはずっす!」
ノエルの明るい叫びに、セラが思わず吹き出し、ユリウスの肩が少しだけ緩む。暗い空気がわずかにほころび、そこに小さな笑いが生まれる。
ヴィクトルが小さく呟く。
「俺だって怖いさ。みんなもだろ?」
セラが「私も…」と声を上げ、ユリウスが「強がるの、やめます」と剣を鞘に収める。レオンも「俺は英雄じゃなくて、ただのレオンだ」と初めて自分の弱さを言葉にする。
その瞬間、幻影が一斉に霧となって消え、冷たい空気に温もりが戻る。パーティは少しだけ、前より一つになったような気がした。
迷宮の奥、小さな空洞に焚火を囲む五人。火のはぜる音と、スープの香り。それぞれがぼそりぼそりと「昔のこと」や「恥ずかしい失敗談」を話し始める。
セラは「実はカエルが苦手」と打ち明けて皆を笑わせ、ノエルが「実は俺、師匠が一番怖いっす」とボケると、一同ついに腹を抱えて笑った。
ヴィクトルが焚火を囲みながら地図を指し示し、
「この先、三つ分岐がある。ここで…」と戦術を語り始めるが、
ノエルが「ボス戦前は必ずカレー派なんですよね!」と割り込む。ヴィクトルは表情一つ変えず「お前の胃袋は脅威だ」と返し、またみんなが笑う。
一方そのころ、迷宮のさらに奥深く――
アーシェは仮面の男たちと共に暗い通路を歩く。
「レオン、お前の真実は必ず暴かれる」
彼の指先が黒い石板に触れると、そこにはレオンの「英雄の失敗」の記憶がうっすらと浮かび上がる。
翌朝、探索を再開した一行は、石畳の下に仕掛けられたワイヤートラップにセラが足を取られ、
大きな音とともに天井から石像が落ちてくる。
ノエルが「師匠ーっ!」と叫びつつ身を挺してセラをかばい、土埃が舞う。
「無事か?」「大丈夫……あ、でも泥が!」と慌てるノエルに、みんなが「よくやった」と笑う。
休憩中、ミレーヌがぽつりと「あなたも昔、失敗して泣いてたよね」とレオンに囁く。
「うるさいな」と苦笑するレオン。
ミレーヌはその横顔を見て、昔のレオンと今のレオンがほんの少しだけ重なるのを感じる。
進むごとに、空気はどこか重たくなり、壁の模様が次第に歪む。セラが「嫌な予感がする」と囁き、ユリウスが「油断はしない」と剣を握りしめる。仲間たちは言葉少なに、奥へ奥へと歩を進める。
重く冷たい扉の前。パーティが一息ついたそのとき、空気が急に変わる。天井の闇から黒い霧が広がり、アーシェの笑い声が響く。
「ここが終着点だ、元英雄……」
石壁の紋様が禍々しい光を放ち、全員の足元に影が絡みつく。
霧の中、アーシェの魔法が“過去の記憶”を映し出す。英雄が心を壊したあの夜――
レオンが決定的な判断ミスをした場面が、まるで幻灯機のように全員の目の前に映し出される。
「お前が……英雄を壊したのか」
ユリウスの声が震える。
セラは「そんな…嘘でしょ」と呟き、ミレーヌも絶句。
ユリウスは剣を抜きかけ「なぜ黙っていたんだ!」と叫ぶ。
セラは泣き、ノエルは「師匠……」とだけつぶやいて黙り込む。
ヴィクトルも視線をそらし「やはり、お前だったのか」と低く呟く。
パーティの空気は、まるで冬の氷点下のように凍りつく。
レオンは膝をつき、唇をかみしめて何も言い返せない。誰もが自分から離れていく感覚――
「やっぱり俺は、全部壊すんだな」
心の中で、何度もその言葉だけが反響する。
突然背後の扉が静かに閉じていく音が、石室に不吉に響き渡る。誰かが「待って!」と叫ぶが、石の扉は容赦なく閉まり、レオンは暗闇の中、ひとり取り残される。
シンと静まりかえった空間に、遠くで仲間たちの叫び声がかすかに響く。膝の下の床がひんやりと冷たい。手のひらに落ちる汗が、何よりも重く感じた。
闇に包まれ、何も見えない中、レオンの耳にふと、過去にミレーヌがかけてくれた優しい声がよみがえる。
「……無理しないで。英雄でも泣いていいんだから」
胸の奥で何かが少しだけあたたかくなった。
レオンの周囲に黒い霧が渦巻き始める。耳元で、亡霊たちの囁きが次々に聞こえる。
「お前のせいだ」
「弱い英雄に何ができる」
かつて自分が救えなかった仲間や、見捨てた人々の声が心を刺す。レオンは肩を抱え、膝を引き寄せて震える。冷たい床、霧の中の寒気、絶望だけが広がる。
扉の向こうでは、残された仲間たちが同じように幻影に囲まれていた。
ヴィクトルは冷静さを装いながらも、心の奥で「自分も守れなかった」ことを責め続けていた。
ユリウスは「理想の英雄」に縛られ、涙を流して剣を振るう意味を問い続けていた。
セラはかつて救えなかった患者の声に怯え、ミレーヌはレオンを見捨てた過去を悔いてうずくまる。
ノエルも「師匠がいなくなったら、また一人ぼっちだ」と子どものように泣きじゃくっていた。
黒い霧がひとつにまとまり、やがて巨大な怪物――イリスが生み出した“心を喰う亡霊”が現れる。
亡霊は嘲笑しながらレオンに詰め寄る。
「お前が認めない限り、お前も仲間も永遠に苦しみ続けるぞ」
冷たい爪先が、レオンの胸元にそっと触れる。その感触は痛みと寒さだけでなく、どこか寂しさも含んでいた。
「もう……嫌だ……」
レオンは声を震わせて立ち上がる。
「俺は弱い。英雄でもなんでもない。ただ、もう一度――みんなと笑っていたい。……誰か、助けてくれ!」
涙が頬を伝う。叫びは、扉の向こうの仲間たちの胸にも響く。
ユリウスが震える声で叫ぶ。
「俺も、本当は怖かった!英雄の背中ばかり追って、弱さから目を逸らしてた!」
セラが泣きながら「私も、また誰かを救えないのが怖い……!」と声を上げる。
ヴィクトルは拳を握り、「俺だって、何もできない自分が悔しかった」と言う。
ミレーヌは「レオン、ごめんね。ずっとあなたを許せなかった。私も弱いの」とつぶやく。
ノエルも「師匠!オレ、ホントはずっと怖かったっす!でも……オレも一緒に泣きたいっす!」と叫ぶ。
レオンの心に、温かい光がともる。閉ざされた扉の向こうから、仲間たちの手が幻のように伸びてくる。一人一人がその手を握り返す――
恐怖や後悔ではなく、“弱さごと受け入れられた安心”に包まれながら。亡霊は、苦しそうな叫びをあげて崩れ落ちる。黒い霧は静かに晴れ、迷宮の最深部にやわらかな光が差し込む。
レオンの胸の奥――ずっと冷たく閉ざされていた扉が、今、静かに開かれた。
「ありがとう、みんな……ありがとう」
誰もが涙ぐみながら笑い、肩を叩き合い、また新しい一歩を踏み出す。迷宮の出口へと続く光が、仲間たちの足元をやさしく照らしていた。
迷宮を脱出したレオンと仲間たちは、村へ帰る道すがら、木漏れ日と草の香り、土の温もりを五感で感じながら歩いていた。
村の広場に戻ると、待っていたのは子どもたちと、かつてレオンを「英雄」と讃えた村人たち。レオンは堂々と皆の前に立ち、深く息を吸い込む。
「――俺は英雄としてたくさんの過ちを犯しました。でも、もう隠さない。皆にも、俺にも、弱さがあることを知ってほしい」
静まり返った村に、レオンの声だけが穏やかに響く。
話し終えると、最初に拍手をしたのはノエルだった。
「師匠、カッコよかったっす!」
続いて、ユリウス、セラ、ヴィクトル、ミレーヌも拍手に加わる。村人たちも一人、また一人と手を叩き始め、やがて広場に大きな拍手の輪が広がる。
ミレーヌがそっとレオンの手を取り、「もうひとりで泣かないで」と優しく微笑む。
子どもたちがレオンの周りに集まる。
「ねぇ、英雄様って泣いたことあるの?」
レオンは真剣な顔で「毎日だ」と言い切り、子どもたちは目を丸くし、次の瞬間笑い声がはじける。セラが子どもたちに「勇気ってなんだと思う?」と尋ねると、
「泣いても立ち上がること!」「怖くても友だちを信じること!」と次々に声が上がる。
誰もが、英雄の「強さ」だけでなく「弱さ」も語り継ごうとする。新しい物語がここから生まれた。
レオンは英雄の剣をギルドの壁にかけ、「今日からは普通のレオンだ」と冗談を飛ばす。
仲間たちとパンを分け合い、焚火を囲んで笑い合う。
ミレーヌが「また迷宮、行く?」と問いかけ、
ユリウスが「今度は師匠が泣いても、誰も馬鹿にしません」と肩を叩く。
ノエルは「パンツ一丁でも英雄っすよ!」と茶化し、
セラは「次はカエルのいない所がいいな」と呟いて、みんながまた笑う。
村の噂話はやがて王国中に広がり、「英雄の弱さ」もまた尊ばれる空気が生まれていく。ギルドでは誰かが失敗しても、前よりも優しい声がかかるようになった。街角で転ぶ子どもにも、パン屋の親父は「泣いていいんだぞ」と言う。
物語は一人ひとりの心に灯をともしていく。
季節は移り、春の匂いが村に戻る。レオンは新しい仲間と共に、また歩き出そうとしていた。
「次は、どんな伝説を作ろうか」
「今度は“泣き虫パーティー”でいいんじゃない?」
そんな冗談を交わしながら、誰もが肩を並べて進んでいく。空の向こう、遠く迷宮都市の塔がきらめき、そこから新しい物語が始まろうとしていた――
■作者コメント
「勇気=強さ」ではありません。誰かと笑いたい、泣きたい、そんな弱さを持っているからこそ人は支え合える。この物語が、あなた自身の“弱さ”を認めて前へ進む力になれたら嬉しいです。
ぜひ、レオンたちの冒険を最後まで見届けてください!