雑音
傷つけられるときは、大抵不意打ちであることは分かっているつもりだった。
だからこそ、それと出会う可能性のある場所では敢えて身構えるとか、そうやってどうにか乗り切ってきた。父親は厳しい人だった。声が大きく、仕事で夜遅くまで働いて、休日は寝ているかパチンコに行っているかで、たまに思い立ってどこかへ連れて行ってくれるが、車酔いがひどい僕はその父の不意の家族サービスが苦手だった。小学2年生くらいだったか、その不満をつい口にしたとき、父親は激昂して母親は父に謝るようにと僕を叱った。それから僕は家族に対して本音を言うことが出来なくなった。
父親が家にいるようになって、怒鳴り声を聞くことが増えて、その度に心拍数が上がり冷や汗が噴き出してくる。色々な思い出がある筈なのだが、一番強く思い出すのは怒られたときの思い出だった。母親に対しては何の感情もない、父の顔色を窺う人。兄とは特別仲がいいわけでもなかったし、高校進学と同時に家を出たきり帰ってこなくなった。
野球の試合を見ては、エラーや空振りにヤジを飛ばしているその声も、心臓を締め付けて吐き気と目眩を覚え、家にいる時でも常にイヤホンで耳を塞いだ。
音楽は、人が聞くために作られている。人の傷に寄り添い、束の間でも忘れさせてくれる。
そんないいものだと思っていた。毒になんかなる筈がない。
そう勝手に思っていた。
だから朝、朝食の席でテーブルの隅に置いてある新聞を開いて、ふと隅の方にあるコラムを見た時に、僕は父に怒鳴られたときと同じ心臓の心地の悪い鼓動の変化を感じた。
それは読者の悩みや疑問に、他の読者が答えるというものだった。いつも目を通すだけで、特に何の感情もなく通り過ぎるだけだったけど、今日は違った。
街角に置いてあるピアノの音が耳障りだ、という内容だった。
聞きたくもない音楽を聴かされて不快だという内容だった。
それに対して、「全く同感」「どうしてあるのか分からない」「ピアノが弾ける自慢がしたいだけ」「優越感に浸っているだけ」「人前でよくやるわ」「クレームを入れて撤去してもらえば?」などの意見が寄せられていた。
その字を目で追っている間、僕は深く深く、ゆっくりと大きなスプーンで心臓をえぐられている様な気分になった。呼吸が浅くなって冷や汗が噴き出す。ふと手汗で新聞がふやけているのに気付いて慌てて手を離して、置いてあった時と同じように畳んでテーブルの隅に置いた。
僕は、駅前のピアノに触れるのが好きだった。
習ったことも無いし、鍵盤は小学生のピアニカで触れた程度だったので、曲も弾けない。
でも、誰でも弾いていいという許可が下りた駅のピアノは、それは僕にも開かれた唯一の居場所のような気がして、毎日の登下校時に、少しだけ触れていた。
ピアノは鍵盤を押せばだれでも音が出せる。優越感なんて無いし、聞かせたいわけでもなく、ただ触れて音を出したいだけだった。
ステージの上で、上手く弾かなければならないそれではなく、同じ地面に置かれたピアノは、僕にとっては掛け替えのないものだった。
けれど、それを不快に思い、憎んでいる人が少なからずいるのだと知ってしまった。
僕が父親の声が、たとえどんな感情のものでも聞くだけで不快に思えてしまうように、その人たちにとっては、音楽は街の雑音よりも耐え難いノイズなのだと知って、それでもそのピアノに触れる勇気はなかった。
ごめんなさい、もうしません。
すみませんでした。
僕は勝手に自分が被害者だと思っていた。でも、僕自身も、どこかの誰かを傷つけていたのだ。
大前提、弾ける人しか触れてはいけなかったのだ。
現に街角や駅前のピアノは減ってきているらしかった。
駅の隅に置かれた縦型のピアノは、どこかつまらなそうに黙ったまま、往来する人を見ているように見えた。
今日から僕もその流れの中に戻る。そのうちこのピアノもなくなるのだろう。
ピアノから目を逸らして歩き出そうとしたとき、不意に声がした。
「今日は弾かへんの?」
顔を上げると、同じクラスの男子がいた。僕には友達と呼べる人はいなかったし、教室でもずっと休み時間はイヤホンをして寝たふりをして過ごしていたので、一瞬動揺して反応できなかった。
どうしてここにいるんだ?そう思ったけど、それを問うことは出来なかった。
「いっつも弾いとったのに、つか、毎回あれなに弾いてんの?調べ方も分からんし、声かけようにもずっと寝てるやん?」
「いや、あ……」
その時、駆け寄る小さい人の集団がピアノに駆け寄っていくのが見えた。
「きょうは空いてる!」「なんか弾けんの?」「こないだ学校でやったんは?」「ピアノ習ってたん?」
同じ学校の制服にランドセルを背負った小学生たちはピアノの蓋を開けると、女の子がトトロの劇中歌を弾き始めた。けど隣で見ていた別の女の子が別の鍵盤を押して別の音が重なった。
「邪魔すんなや」「なんか聞いたことある」「トトロやろ?きのうやってたやん」「見てへんし」「あっ!電車!」
小学生たちはふたも締めずに、嵐のように駆けて行った。
「子供の声ってうるさいよな」
「えっ?」
「でも、そういうもんやし、今の子供が特別超音波でも出してるわけやないやろに、最近は世知辛くなったわ。まあ、昔とか知らんけど」
なんだかおっさん臭いことを言う同級生に、僕は曖昧に苦笑いをするしかなかった。
「ピアノだって、こんだけ街中雑音だらけやし、別にあってもええのにな、最近減っとるらしいで?うるさいって」
「まあ、上手い人が弾く分には、いいんだろうけど、迷惑とか不快って人もいるみたいだし」
「そうか?隣に住んどるわけでもないのに、そない言わんでええやろうに」
少しだけ大人びた眼差しになったので、この人もこんな顔をするのかと意外に思っていると、指を差して言った。
「ほら、蓋開いたままやで?閉めとかんと」
「え?いや、あの……」
「ほれほれ、はよ!」
背中を押されて人の流れを横切ってピアノの前に辿り着くと、そのまま肩を押さえるようにピアノの前に座らされた。
「じゃあ、いつもので」
「いや、でも……」
「そら人類80億人もおったら好き嫌いもあるやろ?俺は別にピアノの曲とか、好きでも嫌いでもなかったけど、お前が弾いてんの毎日聞いとった、なんか行き帰りに一回は聞かんと気持ち悪いんよ。なんか足りんかったな、って。まあ、嫌やったらやめたらええけどさ?最後ってことでなんか弾いてや?な?」
浅く焼けた顔に白い歯を見せて、期待に満ちた眼差しを向けられて僕は俯く。
「その、弾けへんねん。ただ何となく、鍵盤を押して、音出してるだけ、で……」
「お前、天才かっ!」
バシバシ背中を叩かれて少し咽かけた僕に、同級生は悪戯する子供のような無邪気な顔で言う。
「じゃあ、即興演奏行ってみよか!」
「……」
僕は観念して、恐る恐る鍵盤に触れた。
信号機の音、話し声や足音、車のエンジン音に電車の到着を知らせるアナウンス、ホームに入って来る電車のモーター音、その中に僕の雑音が、その隙間を縫うように方々へ泳いで、誰かを不快にする。
唯一知っている、ひとつづず感覚を開けるとコードになるので、ドの音を鍵盤の端から端まで駆け上がって、一応終わりにした。
不意に破裂音が聞こえて思わず肩がビクッと跳ねたが、それは一人の拍手の音だった。
話したこともない同級生男子一人の拍手は、雑踏の音の中で妙に大きく聞こえて、顔が熱くなって心臓の鼓動が耳の奥で聞こえていたけれど、不思議と悪い心地はしなかった。