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7話

「随分と立派な屋敷に住んでるのね」


 豪奢なウルフスタン邸を見上げたアデリーナが呟いた。


 会社に来てまで叶えたかったアデリーナの願いはジェラルドの屋敷に行きたい、というものだった。


 顔合わせもデートに迎えに行くのもすべてリントン邸で行われていたため、アデリーナは一度もウルフスタン邸に来たことがなかった。


 復讐を果たすまでの偽りの婚約だから家に招き入れる必要はないと思っていたが、直接乞われては仕方がない。これも彼女に取り入るためだと笑顔で快諾したのだ。 


「ウルフスタンが代々受け継いできた屋敷です。古くはありますが、使われている材質も技術も一級品です」

「……ふーん。まあ、いいんじゃないの? 庭もよく手入れされてるし」 

「良ければ散策されますか? バラはまだですが、マグノリアは見頃ですよ」


 アデリーナは逡巡する様子を見せたが、首を横に振る。それよりも中に入りたいと主張した。


 促されるまま、ジェラルドは屋敷の扉を開いた。出迎えた執事にお茶の準備をするように頼み、応接室へと向かう途中、とある部屋の前でアデリーナが足を止めた。


 どうしたのかとジェラルドがその視線を追うと、そこにはピアノがあった。養父がなんとなく買ったものの、一度も使われたことはない新品同様のものだ。


 部屋の隅に置かれたそれを、アデリーナは食い入るように見つめている。


 カールに近づく前に行った調査ではアデリーナの趣味がピアノとの情報はなかった。

 だが、街でのデート中に彼女はストリートミュージシャンの演奏に興味を示したことがある。実は音楽が好きなのかもしれない。


「弾かれますか?」


 ジェラルドの提案に、アデリーナは我に返った様子で彼を見上げる。


「定期的に調律だけはしているのですが、あいにく私はピアノを嗜みませんので。置物として存在するより、弾いてもらうほうがピアノも喜ぶでしょう」


 アデリーナは迷うように一度ピアノに目を向け、再びジェラルドに視線を戻す。何かを見定めるようにジェラルドを見つめた後、頷いた。


「久しぶりに弾くの。……下手でも、笑わないでちょうだい」


 アデリーナは緊張した面持ちでピアノを弾き始めた。申告通りその旋律はぎこちなく、時折ミスをしてしまうこともあったが、不思議と聞き心地が良かった。


 彼女は時間を忘れ、演奏に夢中になった。鍵盤を弾く指が滑らかになるにつれ、表情も明るくなっていく。


「やった! このフレーズ、ミスなく弾けたわ!」


 そう叫び、アデリーナはジェラルドを見上げて無邪気に笑った。澄んだ緑の瞳がきらきらと輝いていて、ジェラルドはその眩しさに目を細めた。


 しかし、すぐに相手は仇の家族だと自分を戒めた。復讐のために手懐ける必要はあるが、こちらが心を許してはいけない存在だ。

 たとえ、多少かわいらしいところがあったとしても。


 アデリーナはコンラッドと同じ年だ。だから、ついコンラッドと重ねて親しく思ってしまっただけなのだろう。


「お上手でした」


 ジェラルドが拍手すると、アデリーナははっと目を見開き、気まずそうに顔を伏せた。いつになくはしゃいでしまったのが、恥ずかしかったのかもしれない。


「まだまだよ。指も思うように動かないし。……でも、楽しかったわ。こんなに夢中になったのなんて、久しぶり」

「ピアノ、お好きなんですね」

「ええ。お母様が音楽好きで、小さい頃からよく教えてもらって弾いてたわ。私がもっと上達したら連弾もしようって約束もしてたの」


 アデリーナの指が再び鍵盤を叩く。軽やかな音を奏でながらも、彼女の表情は暗い。


「でも、その約束が果たされる前にお母様が亡くなられてしまったけど」


 アデリーナの母親は今から十一年前、彼女が七つの頃に事故で亡くなったはずだ。それがショックで弾けなくなったのだろうか。ジェラルドが疑問を口にすると、アデリーナは一瞬困ったような表情を浮かべたが、首肯した。


「お母様が亡くなられたのもあるけど、家からピアノがなくなっちゃったのよ。……あのピアノはお母様がお嫁に来た時に買った思い出の物らしくて。お母様が亡くなった後、見るのもつらいからとお父様が処分しちゃったのよ」


 アデリーナははっきりとは言わなかったが、ピアノの処分はカールの独断で行われたのだろう。アデリーナがピアノを弾くのが好きだと知ったうえで。それが彼女の母親の形見だと承知のうえで。


 身内にも容赦なく向けられるカールの横暴さにジェラルドは不快になった。


「新しいピアノは買われなかったのですか?」

「……ええ。買ってと言い出しにくくて。それに、お父様とは、しばらく離れて暮らしてたから」


 アデリーナは母親の死で情緒不安定になったと、かつてカールは言っていた。資料にも療養のため、西方にあるルスフォードという街に四年前まで住んでいたと記載があった。

 ルスフォードはかつての隣国との戦争で得た地で、輪郭の文化が色濃い。晴れていることが多いので、保養地としても人気のある場所だ。


 療養のためとはいえ、離れていた時期が長いことも、この親子の不和の原因のひとつかもしれないとジェラルドは推測する。

 そして、もうそれが改善することはないだろうとも。


 アデリーナが演奏する曲は明るく、単調だった。子供向けの曲のようだ。おそらく、母親に習ってよく弾いていた曲なのだろう。


「ありがとう、もう十分よ」


 曲を奏で終え、鍵盤蓋を閉めたアデリーナが立ち上がる。まっすぐに扉へと向かうその背に、ジェラルドは声をかけた。


「よければ、時々ピアノを弾きに来てください」


 アデリーナの足がぴたりと止まる。


「先触れなどなくとも、あなたが弾きたい時にいつでも。使用人には話を通しておきますので、私が不在の時でも構いませんよ」

「……いいの?」

「ええ。この屋敷に音楽があるのは良いものだと思いましたので。また聞きたいので、是非お願いします」 

「そう。……考えとくわ」


 アデリーナの表情はわからなかったが、その声はわずかに弾んでいた。

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