4話
エルドレッドの意識が眠りから浮上する。目を開くと、闇が広がっていた。まだ夜明けまで時間はあるようだ。
再び眠ろうとしたエルドレッドの耳に、かすかな衣擦れ音が届いた。
ーー誰かが、いる。
両親やコンラッドではない。通いのメイド達はとうに帰宅している。住み込みのブライアンは地下の自室で寝ており、滅多なことでは二階には上がってこない。
これは良くないものだと本能的にエルドレッドは察する。こわばる体を叱咤してベットから抜け出そうとしたが、一足遅かった。
エルドレッドの腕が何者かに掴まれた。無我夢中で振り払い、とっさに近くの窓へと駆け寄る。カーテンを開け、鍵に手をかけた瞬間肩を掴まれ、地面に引き倒された。
「……ぐっ」
背中を強く打ち付け、悲鳴が漏れる。痛みと恐怖の中、エルドレッドは自身の腹に伸し掛かった襲撃者を見上げる。
冴え冴えとした月光が照らし出す事実に、エルドレッドは目を見開いた。
「カールさん……!?」
昼間穏やかな笑みを浮かべていた男が、酷薄に笑いながら自分の首をしめようとしている。
逃れようと必死にもがくが、いくらカールが細いからとはいえ子どもと大人の力の差は歴然で、首にかけられた腕はびくともしない。捕まった時点で、エルドレッドの運命は決まっていた。
「ははっ! いい気味だな、ハロルド。すべて、お前の自業自得だ」
何が起こっているのか、エルドレッドには理解できなかった。
何故、カールが自分を殺そうしているのか。何故、自分を父の名前で呼ぶのか。
狂気に満ちた男の笑い声を聞きながら、エルドレッドは意識を失った。
次にエルドレッドが目を覚ました時、辺りは明るかった。朝が来たのだろうか。目覚めたばかりの回らない頭で考えるエルドレッドは、パチパチと爆ぜる音を聞いて我に返った。
「火事……!?」
立ち上がり、急いでコンラッドの部屋へと向かう。幸いにも子供部屋のある二階には火の手は回っていなかった。
「コンラッド、無事か!?」
飛び込んだコンラッドの部屋は静かで、ベットに横たわった人影が見えた。コンラッドだ。
まだ眠っているのだろうか。無理やり起こしても、状況を理解できずにだだをこねるかもしれない。それなら、このまま抱えて逃げるほうが早い。
高速で巡っていたエルドレッドの思考は、コンラッドの体に触れて停止した。
コンラッドは既に息をしていなかった。眠っているようにしか見えないのに、冷たく硬い体は彼の死をまざまざとエルドレッドに伝えてくる。
エルドレッドは呆然とコンラッドを見ていた。目の前の光景が現実のものとは思えなかった。
だが、部屋に侵入してきた黒煙がエルドレッドの意識を引き戻す。激しく咳き込んだエルドレッドはすぐさま立ち上がり、両親の安否を確認しに彼らの部屋へ走った。
無事でいてほしいとのエルドレッドの願いも虚しく、ふたりとも部屋で事切れていた。血を吐いた形跡があり、サイドテーブルにはワインのボトルと倒れたグラスがあった。毒だとエルドレッドは察した。
家族は皆死んだ。ここに来るまでの間に、一階が火に包まれているのを目撃しており、ブライアンの安否を確かめることすら叶わない。このまま逃げ遅れれば自分も後を追うことになる。
せめてコンラッドだけでも助け出したいと彼の部屋に戻るが、そこは火の海と化していた。
「コンラッド!」
踊る炎の隙間から、弟の姿が見える。エルドレッドは彼を抱きかかるため炎の中を進もうとしたが、大きな本棚が倒れ、道を塞がれてしまった。
炎は勢いを増し、コンラッドを飲み込んだ。
エルドレッドは唇を噛みしめ、近くの窓を開ける。既に朝を迎えており、外の景色がよく見える。高さはあったが、躊躇している暇はなかった。
飛び降りたエルドレッドの体を、柔らかな土が受け止める。身を起こしたエルドレッドは燃え盛る屋敷を見上げた。
炎がエルドレッドの大切なものを連れ去っていく。肉体が燃えてしまえば、神の加護を失う。命どころか、死後の安寧すらも彼らは理不尽に奪われた。その事実を、ただじっと見つめていた。
「こっちだ! すげー燃えてるぞ!」
「消防はまだか!?」
人々の声が風に乗ってエルドレッドの耳に届く。延焼に至っていない庭の木々に遮られて姿は見えないが、街の人々が集まってきたのだろう。
助けを求めようと声のする方へと向かおうとしたエルドレッドの足を、ひとつの声が止めた。
「早く助けてくれ! あの中に友人の家族がいるんだ!」
エルドレッドの脳裏に月光に照らされた男の狂気の顔が浮かぶ。エルドレッドたちの死を願うあの非情な声が耳に蘇る。
「カール・リントン……!」
彼がやったのだ。彼が両親に毒物を飲ませ、コンラッドを絞め殺した。エルドレッドは運良く息を吹き返しただけで、本来ならあの時死んでいただろう。
湧き上がる憎しみがエルドレッドを支配した。怒りのままにカールを害したかったが、ぎりぎりのところで耐えた。
今、あの男を糾弾したところで、証拠がない。この火の゙勢いでは何もかも燃えてしまうだろう。遺体もワインなどの証拠品もすべて。エルドレッドの証言は火事にあったショックで混乱しているだけだと捉えられるだろう。
それに、消したはずのエルドレッドが生きていると知ったら、あの男はまた命を狙うに違いない。
エルドレッドは人々に見つからないように屋敷を離れた。行く宛はなかったが、今はとにかく逃げなければならなかった。
エルドレッドは無力だった。家族を亡くし、火傷と打ち身にボロボロに傷つき、明日を無事に迎えられるのかも危ぶまれるほど、非力な子どもだった。
けれど、卑劣なあの男に立ち向かえるほどの肉体と知識を得た大人になったその時は。
「この借りは返してやる、カール・リントン。お前が俺のすべてを奪ったように、俺もお前のすべてを奪ってやる。何を犠牲にしてでも、必ず……!」
丘を下り、近くの森に入る前にエルドレッドは振り返る。
炎に包まれている白く美しい屋敷を。理不尽に命を奪われた大切な家族を。
澄んだ青い空には黒煙をまとった鮮烈な赤い炎がたなびいていた。