隅っこの研究室
金色の短い髪を微かに揺らしながら羽ペンを走らせる。
そんなレミの姿を見ているのが好きだった。
その羽ペンの軌跡は、彼女にしか書けないものを残していているはずだから。
去年の今頃までは、研究室に肩を並べて、朝から晩まで、私たちの専門でもある『魔法史』について語り合っていた。
朝から晩まで、とは言ったけど、朝から朝まで、というのが正しい表現かもしれない。
それも、レミが研究を辞めてしまってからは無くなってしまった。
けれど、私が魔法教室を始めて、どこで聞きつけたのか、レミが久しぶりに私のもとにやってきてくれて、手伝うようになってくれた時から、少しずつ時間が戻ってきたような気がした。
ただ、あの時とは違い、席は向き合って座り、毎日会うことは無くて、一緒に居る時間もレミの仕事終わりや休日だけの、僅かなものになっていた。
それを不満に思ったことは無いけれど…‥。
もう少し、一緒に居られたらいいな。
それで、今日からは授業の助手までしてもらうようになって。
私のワガママでしかない。罪悪感を覚えながらも、一緒に居られる時間が増えて嬉しい。そんな風に思っている、子供っぽくて能天気な私もいた。
……仕方、無いよね。
こんなに穏やかで、懐かしくて、大好きだった時間。
一度は消えてしまったはずのそれが、今ここで息づいているんだから。
「はい。こんな感じでどう?」
レミが資料の下書きを渡してくれる。
彼女の資料は、読みやすくて、当時とは全く内容の質は異なるものだけど、形式は研究室にいた時と全く変わってなかった。
あの時の彼女が、まだそこに居るような気がして、少し安心した。
……研究に戻らない?
その言葉が喉から出かかるけど、何とかお腹の底に引き戻す。
そんなことを言ってしまったら、レミはきっともうここには来てくれなくなる。
それが分かっているから。
ようやくつかんだあの日の影を手放したくは無かった。
「ありがと。内容はとっても分かりやすいけど、ここと……、ここかな?この言葉づかいだと少し難しいから、もうちょっと丁寧に説明したほうがいいかも。」
資料を指し示しながら指摘して、下書きを返す。
「なるほど。やっぱり、初学者に教えるのは難しいね。」
レミは小さくため息を吐いた。
「そうだよね。私たちが知ってて当たり前のことも知らないわけだから。そこからきちんと説明してあげないとだし。」
「うん。分かってても、癖で専門用語とか使っちゃうから、気を付けないと。」
う~ん、と首を捻って身体を振り子のようにゆっくりと揺らしながら考え込むレミ。
真剣に考えてくれる気持ちに対してなのか、見慣れていたその仕草をまた見ることができることに対してなのか。
私の嬉しさも、その間を振り子のように行ったり来たりしている。
こんな風に、ずっと一緒に研究を続けられると、勝手に思い込んでいた私。
でも。
時間を忘れて研究に没頭した日々も。
論文を書き続けておかしくなった指の感覚も。
よく書けた、という時に限って評価が芳しく無く、ふたりで語り明かした夜も。
全て、研究室に置き去りにして飛び出してしまったレミ。
一人でも、いつか帰って来てくれると走り続けている私。
でも、少し息切れしてしまっている。
研究者として教壇に上がれるようになるまで、どれだけの距離が残っているのかも分からないまま走り続けることに。
魔法史が好きなのは変わらないのに、全部、地平線の彼方まで放り投げてしまいたくなって。
大好きなものが、そうでなくなってしまう前に。
レミも同じような気持ちだったのかもしれない。
魔法史研究なんて食べていけない。
研究室を飛び出した日に、レミが吐き捨てるように言い放った言葉。
頑張って、いろんなものに目を瞑って、彼女の理由を飲み込んだけれども。
レミの心の中では、『好き』がそうでなくなってしまう前にやめたいと、そう思っていたのかもしれないって。
今なら、それが痛いほど分かる気がした。
でも、でもね。
レミと一緒なら、またあの頃みたいに、輝いた目で、好きでどうしようもない魔法史を続けていけると思うの。
だから……。
「何か言った?」
そのつもりは無かったけど、言葉が零れてしまっていたようだった。
レミは目の前で、考える仕草のまま、私の方を不思議そうに見ている。
「あっ、えっと……。レミの下書きの件なんだけど、もう一つ、アドバイスがあって……。」
「何?」
「文字ばっかりじゃなくて、絵とか図を入れると、特に小さい子はとっつきやすくなるかなって思ったの。」
「絵や図……。」
この世の終わりを目にしたようなレミ。
ちょっと大げさで、クスッと笑いが零れてしまう。
「絵、書くの苦手だもんね。」
「うん……。」
「そうしたら、清書するときに、こんな風にスペースを開けてもらってもいい?私が後で書き足しておくから。」
書き損じた紙の裏側を使って、大まかなレイアウトの指示を作って渡すと、レミは、うんうん、と頷いた。
「分かった。ごめん、手伝いに来てるのに、逆に手間を増やしちゃって。」
「そんなことないよ。十分、助かってるから。お互いに得意なところで支え合う、でしょ?」
それは、研究室に入ったばかりの頃、担当の先生がアドバイスとしてくれた言葉だった。
発想力で殴り飛ばしがち、と言われる私と、理詰めが過ぎて独創性に欠けるレミ。
逆にふたりでやって行けば、いい研究者になれると。
月並みなアドバイスだなぁ、ってレミは言っていたけど、私はそう言ってもらえたことが嬉しくて、ずっと大事にしてきた言葉だった。
「まぁ……。そう、だね。」
少しあからさま過ぎたかな。
反応に困っている様子のレミ。
申し訳ないけど、そういう表情もちょっと好きではあって。
少しして、止まっていたレミの手が動き出す。
私も、それに寄り添うように作業を再開した。
晩御飯、一緒にどう?と聞いたけど、明日は仕事が早いからと、日暮れ前には帰り支度を始めてしまったレミ。
心の隙間が少しずつ大きくなって、空っぽな中に彼女の声が反響する。
でも、今はお互いの生活があるから、と、そこら辺からかき集めて来た建前の欠片で、埋まりきることのない心の隙間を埋めていく。
「レミ、今日はありがとうね。」
玄関で靴を履くレミにお礼を言う。
履き終えた彼女がこちらに向き直って。
「むしろ、あまり手伝えなくてごめん。」
「ううん。資料作りも、先生も。本当にありがとう。」
安堵と嬉しさをぎゅっと詰め込んで、外側に平然さを塗り込んだ表情。
ちょっと強がりな彼女のことを、つい引き留めたくなってしまう気持ちも、心の隙間に突っ込んでおく。
「無理しちゃだめだよ。ちゃんと寝ること。いい?」
「レミ、お母さんみたい。」
レミの優しさが真っすぐすぎて、恥ずかしくて誤魔化すようなことを言ってしまう。
「もう……。」
「ごめんね。ありがと。ちゃんと休むようにするから。」
「うん。そういえば、来週は休みなんだよね?」
「そうだね。」
学会があるから。
後ろめたさを感じて、言葉にはならなかった。
「そっか。じゃあ、先生はまた再来週かな。」
「うん。レミも仕事が忙しいとかあって無理なら言ってね。」
「私は大丈夫だよ。心配しないでいいから。」
「私のことは心配するくせに、レミのことは心配しなくていいとか、ちょっと不公平かも。」
そんなこと言われても……、と困ってしまうレミ。
そういう表情も好きだけど、あまり困らせてしまうのも可哀想なので、ここらへんでやめておく。
「ふふっ。冗談だよ。またお願いしたいから、よろしくね。」
「もう……。それじゃあ、またね。」
「うん。また。」
さらりと微かになびいた金色の髪が、残り香を置いて行った。
あの日の研究室みたいだった。
……もう、戻ってこないかもしれない。
けれど。
いつかきっと。
羽根を休めて彼女が、また飛び立ってくれる日が来る。
今はそう、信じている。