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12 鎌倉に

 その日は、朝からしとしとと雨が降っていた。


 季節はもう、梅雨に入っていたのだ。鎌倉の上空にも、丘の木々をなめるように雲が垂れ込め、そこから絶え間なく落ち続ける雨滴が街の辻々を鈍色に濡らしていた。

 雨の風景なんて見るものを沈痛な気持ちにさせるものだと思っていたが、しかしこの街にくると考えを変えさせられる。駅から降りた瞬間から、晴れた日と変わらぬ活気に驚く。鎌倉はこんな季節でも賑やかだ。


 その理由を僕は知っている。紫陽花の季節だからだ。


 その賑わいは繁華街や観光地から離れても、どことなく街中に浸透していて、住宅街の細い路地を歩いていても、何となくうきうきとしてしまう。雨を受けた木々のざわめき。家々の軒を叩く雨滴の音。それらが渓流のせせらぎのように心をなごませ、ドライブの車中で流すサウンドトラックのように耳を楽しませる。


 何よりも紫陽花だ。有名なお寺だけでなく、細道の民家の軒先にも咲き誇る色とりどりの紫陽花たち。それらは雨空の下にもかかわらず青に赤に紫に道々を彩り、まるでこの雨の季節にだけ催しているお祭りのような華やかさを、街全体に与えている。


 いつも眩しいくらいに明るいこの湘南の街は、雨が降っても、なお明るい。僕はそんなことを思いながら、小さなお寺の門の前を曲がり、住宅街の小道に入った。


     〇


 鳴美の家の玄関脇にも青い紫陽花が咲いていた。

 サザエさんの家のそれのような昭和な雰囲気のすりガラスの引き戸の前で立ち止まり、深呼吸をして呼び鈴をならす。しばらくしてから中でパタパタと足音がする。「はーい」という声と一緒に。聞き覚えのある、鳴美の声だ。このせわしない足音も彼女の動きを彷彿とさせた。


「はーい」


 もう一度、さっきより大きな返事につづいて、ガラス戸が開かれた。


「よお、なるミ……」


 言いかけて、僕は口をつぐんだ。開かれた戸の隙間から顔をのぞかせたのは鳴美ではなかったから。でも、似ているはずだ。彼女は、鳴美のお母さんだった。


「あ……。えーっと、あの……」

 意表を突かれてどぎまぎしていると、お母さんは嬉しそうに目を細めた。

「あ。あなた、博文君じゃない。なつかしいわねぇ。鳴美に会いに来てくれたの?」

「ああ、はい。お久しぶりです。博文です。よく覚えておいでで……」

「かわらないもの。小さい頃からいつも鳴美と遊んでくれてたじゃない。うれしいわぁ。来てくれて。鳴美もきっと喜ぶから」

 お母さんはそう言って目尻を指でこすった。


 久しぶりに遊びに来た友達を迎えるのに、ずいぶん大袈裟だなぁ。などと思いつつ、うながされるまま玄関にあげてもらう。家のなかに入ると、ふっと、畳やなんとも言えない生活感のこもった香りと共に子供の頃の記憶がよみがえった。確かに懐かしい。黒光りする板の廊下。柱やふすま。鳴美と鬼ごっこをしていた頃と変わらない。今にも小学生の鳴美がひょっこり顔を出しそうだ。


 だがもちろん小さな鳴美が顔を出すことなどなく、そしてどういうわけか、今の鳴美も、その姿をなかなか僕の前に現さない。


「えっと、お母さん。なるミンは、部屋ですか」


 聞いてもお母さんは答えなかった。なにも言わずにに奥の和室に入り、僕を中にいざなった。

 そこは仏間だった。お母さんは仏壇の前に正座し、チンとおリンを鳴らし、手を合わせる。


「鳴美。お友だちが来てくれたよ。あなたとずっと仲良しだった、博文君。よかったね」


 そして僕に席を譲る。


 僕はお母さんから仏壇へとゆっくり視線を移してゆく。

 香炉にたてられた線香から、淡い煙がかすかにのぼっている。

 その煙の向こうに置かれているのは、黒光りする小さな位牌。

 そして、位牌の隣には、写真立て。その中にある写真は……。


 僕は立ちすくんでしまった。その仏壇に飾られているのが、鳴美の写真だったから。

 頭が混乱していた。目の前の光景が示していることはひとつだ。それが理解できても、しかし僕の脳はそれを受け入れることを拒んだ。


 そんな。鳴美が……鳴美が死んだっていうのか。そんな馬鹿な。信じられない。だって、ついこの間まであんなに元気だったじゃないか。


 お母さんに問いたくても、喉がひりついて声もでない。

「いったい……どうして……」

 ようやくそうとだけ絞り出して、崩れるように仏壇の前にへたりこむ。


 そんな僕の背後から、鼻をすすりながらお母さんが説明してくれた。

「交通事故だったわ。友達の結婚式の招待状が届いて、その返事を出しに行ったの。とても嬉しそうな顔をして。そして家に帰ってくることはなかった」


 交通事故……。呆然とする頭の中で、不吉な鐘の音のようにその言葉が響き渡る。そんな。そんな終わり方なんて。だって、鳴美よ。お前は僕を救ってくれたじゃないか。そのお前が、そんな死に方をするなんて、あんまりだ。


 僕はお母さんに向き直ると姿勢をただした。


「僕は、社会人になってからずっと、死んだように生きていたんです。失敗ばかりで、すっかり自信を失って。心は死にかけていた……」


 お母さんに対して何を語り始めているんだろう自分は。そう思いながらも、自分の口を止めることはできなかった。鳴美のしてくれたことを、それに対する感謝を伝える相手はもう、彼女しかいないように思えたから。


「でも……そんな僕を鳴美……なるミンが救ってくれたんです。五月に再会してからこの数週間、いろんなことを彼女から教わった。思い出させてくれた。そんな彼女にありがとうって最後に一言、言ってあげたかった。本当に彼女には感謝しているんです」


 沈黙が降りる。ハンカチを目にあてていたお母さんは下を向いてしばらく鼻をすすっていたが、やがて顔をあげて疲れたような笑みを浮かべた。

「ありがとう。でも、不思議だわ」

 彼女の目から、また涙がこぼれ落ちる。そして彼女は、信じられないことを言った。


「だって、鳴美が死んだのは、四月よ」 


 鳴美が死んだのは四月だって? そんな馬鹿な。

 殴られたような衝撃が後頭部を襲い、四肢がしびれて動かなくなった。混乱しながら仏壇に飾られた鳴美の遺影に目を向ける。五月晴れの笑顔を浮かべた彼女。この数週間いろんな所で僕に見せてくれたのと同じ笑顔。その隣の、新しい位牌に視線を移す。そこには確かに、「四月三十日没」と刻まれてあった。


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