メリッサの冬と春のおとずれ
萬呪事引受協会、メリッサの場合。
「本当、虫酸が走る。」
呟いた声を拾う者はいなかった。
寒い雪の日、少女は悴む手に息を吹き掛けながら井戸水を運ぶ。
井戸の水は表面に氷が張っていてバケツを下ろしても水を汲めなかった。
少女は自分の頭ほどある石にロープをくぐり付けた物を井戸へと運ぶ。もう少し夜が進めば井戸水の氷は分厚くなり、これくらいの石では砕けなくなる。普通の家なら、凍結防止の魔術と共に屋敷内の土間辺りに水汲み場を設けているものだが、少女の父親はケチで、彼女と言う使い手がいるなら必要ないと言ってのけた。他の使用人は、主人の言葉には逆らわない。
何故、主人の娘である少女が使用人よりも辛い立場にあるのか、十分に理解していないが、主人の新しい妻と娘の手前、少女をあのように扱っているのだろう。
昼間の主人も、夫人もその子供達もいない間に少女の水汲みを手伝う者はいるが、彼らも忙しく、もし、誰かが主人に手伝いを告げたら、少女は、折檻と言う名の躾をうけるのだ。実の娘の皮膚が破れ血が出るまで続く折檻。見せしめのように行われる一連の出来事に少女は何も言わない。諦めているのだ。
見かねて屋敷を辞す者が絶えず、屋敷は常に人手不足だった。少女の父親は、伯爵位を持つ役人だ。領地を持っていたのは、数代前のことで、親戚のコネでなんとか役人をしているだけに過ぎない。そのコネも少女の母親の実家である侯爵家によるものだが、コネを得た途端、妻を病気でなくした。侯爵家は忘れ形見である少女を引き取ろうとしたが、男は子供も同じ病で亡くしたと死亡届を出していた。
存在しない娘が少女であった。少女は、名前を与えられず、男は屋敷の使用人に世話を命じた。入れ替わるように屋敷に来た女は腹が大きかった。使用人達は、全てを悟り捨てられたも同然の少女を憐れんだ。
少女は、読み書きは出来なかったがメリッサと名付けられた。メリッサは、屋敷の下女として働いていたが、給金を貰ったことはなかった。
「食うに困らないだけ有り難いと思え。文句を言うなら、こうしてやろう……。」
男はメリッサの舌を切り取った。使用人達は男が怖くなり、次々と辞めていった。
舌を失くしたメリッサは数日生死を放浪ったが生き延び、また、地獄の日々が現れた。
少女は、この屋敷の人達にとってどうでもいい存在。生きるも死ぬも彼ら次第だと理解した、そして、それが真理なのだと自分を納得させた。
メリッサは、ガリガリに痩せ、目だけが大きい印象の少女で、酷い躾と言う名の折檻を受けていた為に身体中傷だらけで今日も水汲みを行っていた。
メリッサが17になったある日、屋敷が尋常じゃなく騒がしくなった。
使用人の部屋に入ってきた男はメリッサを見つけると物凄い勢いで彼女を引き摺って行った。
「お前は早く逃げるんだ、」
時々見かけた金髪の美しい娘が泣きながら屋敷を出ていく。
「大丈夫だ!伯爵位から最悪男爵位になるくらいだろう、アイリーン、別荘から出るなよ!必ず迎えにいく。」
メリッサは、訳が分からなかった。
「肌を極力隠すドレスを着せろ!頬裏に綿を詰めろ!」
メリッサは、乱暴に服を剥がれ、風呂に入れられた。必死に耐えるような顔をした侍女に何かを問うことは出来なかった。
ドレスを着て、髪を乱暴に結われる。そして、エントランスの男の元に突き出された。
慣れないヒールに足を捻り転倒したメリッサの髪を掴むと男は頬を打つ。
頬に詰められた綿のお陰で血は出なかった。
男は、使用人に命じてメリッサを縄で縛り上げた。
メリッサを襲うのは戸惑いと恐怖。初めて近くで見た伯爵夫人の目には怨嗟の炎が見えた。
屋敷の表が騒がしくなり、勢いよく扉が開いた。
雪崩れ込む大柄な男達。
立派な甲冑と剣を持っている。王立騎士団だと言った騎士の代表の男が騎士達に命じてメリッサ達を取り囲む。
「ミッドガルド騎士団長殿……。」
「それが、お前の娘、アイリーンか。」
ギョッとして男を見た。
「そうにございます。まさか、娘が隣国と繋がっていたとは、ましてや王女様に手をかけようなどと、申し訳ありません!私共の監督不行届きにございますれば、娘を捕らえ、差し出すことに致しました。もう少し騎士団様方の到着が遅かれば、王城に娘、いや犯罪者を突き出す所存でした。」
「アイリーン・ミドラー伯爵令嬢とは、こんなにも窶れていたか?」
男の体が揺れる。
「娘は、数日前から自身の罪を自覚し、反省したようでして、まともな食事をしていませんでした?」
騎士団所属の魔術師が前に出て2人交互に杖をむける。
「血縁であることは、間違いありません。」
頷く団長。
騎士の1人がメリッサを立ち上がらせた。
「アイリーン・ミドラー、隣国への秘密事項漏洩容疑、王族に対する殺人未遂行為にて逮捕する。ミドラー伯爵、貴殿らの処置については後程、王城より達しがあるだろう。」
男は胸を撫で下ろした。
娘のやらかしには、肝を冷やしたが、向こうの貴族との繋がりを得た娘を頼って今夜の内に姿を眩まそうと頭を下げながら思った。
「本当、虫酸が走る。」
少女の声が屋敷のエントランスに響いた。今度の呟きは全ての人の耳に届いた。
一瞬で空気が変わる。大きく開いた扉が閉まり、メリッサを取り囲む騎士が動けなくなった。メリッサを掴んでいた騎士の手が外され彼女はまた床に倒れた。
「誰だ!」
騎士団長の声に答えたのは思ったより明るい声だった。
「どーもー、萬呪事引受協会本部第一徴収部実行班から来ました魔女魂登録番号999のフィオレンティーナです。」
完全なる棒読み。
自身の身長を越える大きな杖を持つ黒いローブの少女が立っていた。
「ま、魔女様……。」
魔術師が呟く。
「あんた、魔女嫌いな魔術師じゃないんだ、」
魔術師は、膝を付き、深く頭を下げる。
「もちろん。私には、魔女様に対して、前世の業はありませんから。」
「そっ、」
2人の会話に騎士団長が割り込む。彼もまた膝を付いている。
「魔女殿が来られたと言うことは、呪いが関与しているのですか?」
萬呪事引受協会。
前世に於いて大罪を犯した者が今世で罪を重ねないか監視する者だ。前世での大罪人にはある一定の基準がある。協会で保管されている彼等への人々の怨嗟、つまり呪いを貯めるガラスの珠が満たされる前に神の定めた寿命を迎えられたら、今の魂のまま来世に転生出来る。しかし、寿命前に珠に呪いが貯まってしまうと溢れる前に魂を魔女に狩られ、再度転生の流れに落とされる。5回寿命前に魔女から魂を狩られた者は二度と転生出来ない。
「そこの男は、今回で5回目だから、地獄行き、でもって、」
魔女は、何もない空間に手を突っ込み一組の男女を引っ張り出した。
「きゃあっ!」
転がり出たのは、町娘の格好をした金髪の娘と茶髪の青年。
「アイリーン!」
男は、ぐるりと王立騎士団に囲まれている現状に唖然としていたが、フィオレンティーナの姿、杖を見て全てを悟り力を抜いた。
「アイリーン・ミドラー、あなたは、今回で4回目の対象者となりました。」
杖を突き付けられアイリーンも悟る。
彼等は魔女に杖を突き付けられて初めて魂の記憶を転生の事を思い出すのだ。
震えるアイリーン。
「あんた、」
フィオレンティーナは、伯爵夫人にも杖を向ける。
「あんたの呪魂玉ももうすぐ一杯になりそうなんだけど、どうする?ここで、一思いに狩られとく?それとも心を入れえる……わけないか?」
フィオレンティーナの杖に大きな鎌が現れ、一瞬の隙に逃げ出そうとした男の頭と胴体が離れる。血飛沫が夫人に掛かる。悲鳴と共に夫人は尻餅を付いた。
フィオレンティーナはゴロリと転がった男の頭に鎌先を突き立てると夫人に近付ける。
「メリッサへの所業を諌めないから。あんた、メリッサよりも、メリッサの母親が憎かったんでしょ?因果とは言え、残念だね、で、心、入れ換えて神に仕える?」
夫人はコクコクと頷く。
「ーで、アイリーン?」
「ひっ!」
「17にして、4度目の狩魂だよ、あんた、懲りないね。」
さくっと首を落とす。
フィオレンティーナは、伯爵とアイリーンの頭を異空間に放り込んだ。
するとなくなったはずの頭部が付いた状態で起き上がった伯爵とアイリーンに周囲がギョッとした。
「魂は回収した。こいつらの伯爵としての罪、アイリーンの罪はそちらで裁決して、魂がないから、体は1ヶ月も持たないけれど。魂の名残で十分、そのまんまの思考で語ってくれるはず。」
動けるようになった騎士が抵抗する伯爵一家を連れていく。隣国の間者にフィオレンティーナは向き合う。
「あんたの呪魂玉もあと少しで寿命を越える。良い行いを心掛けた方がいいよ。」
間者は、苦笑しながら連行されていった。
「魔女殿、この娘は?」
「伯爵令嬢だよ、前の夫人が生んだ。可哀想に舌を切られてるね……。」
騎士団長がギョッとした。
「まともな教育も名前すら親から与えられなかった。ねぇ、もういいだろ?人としての生に希望なんてないよ。」
メリッサの目からポロポロと涙が零れ、体が光に包まれた。
「魔女殿!これは!」
「覚醒の光。メリッサの前世は魔女だ。あいつらの因果率の高さに引っ張られていつも殺されてしまっていた憐れな魔女だよ。」
泣き続けるメリッサは、声を発した。
「人として、幸せになりたかったの……。普通に両親に、家族に愛されて、恋をして……、でも、駄目なのね?」
「そうだね、あんたと因果が繋がってるあいつらの魂が消滅するまで、あんたは人として幸せにはなれない。」
メリッサは、立ち上がり自らを捕らえていた縄を消した。
「協会の場所は分かるね?」
「分かるわ、大丈夫……でも、暫く旅をしたい。ここではない景色を見てみたい。」
フィオレンティーナは頭を掻く。
「好きにすればいい、この家の金目のもの持って行くがいい。魔女の知恵があれば大丈夫だろ。」
騎士団長が焦った声を出した。
「待ってくれ、事情を聞かせてくれ。」
フィオレンティーナもメリッサも笑う。
「メリッサの意思に任せる。私は、忙しいから、もう行くね。」
異空間の扉が開き、フィオレンティーナは歩いていく。
「ありがとうございました。」
彼女の背中に頭を下げてメリッサは振り返った。
「騎士団長様、伯爵がしていた悪事は私には分かりません。ただ、魔女になる前の私にした仕打ちに関してはお話しましょう。」
「ーって、ことで、メリッサは旅に出るってさ。その内協会に行くと思うよ。」
提示連絡を入れながら、フィオレンティーナは空飛ぶ箒で街を後にした。