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覚めない夢に溺れて沈んで

作者: アイリス

四年前


その日はたまたま、残業で帰りが遅かった。

ぽつん、ぽつん、と等間隔にしか存在しない夜道は思いのほか暗く、少し不気味だ。自然と歩みも早さを増した。


帰路ものこり半分を過ぎた頃、街頭の下に黒い塊が見えた。動物か何かだろうと通り過ぎようとして、塊の招待に足が止まった。子供だったのだ。十にも満たないであろう、女の子。周囲に親らしき人影はなく、見て見ぬふりもできなかった私はその傍へ近寄った。


「大丈夫?具合でも悪いの?」


「おなかが、すいたの」


返ってきたのは、小さく、したったらずな声だった。家出か、はたまた育児放棄でもされたのか。そろりと芽生えた庇護欲から、自然と手を差し伸べていた。


「おいで、一緒にご飯食べよう?」


「たべさせて、くれるの?」


「ええ。お腹空いてるんでしょう?」


「うん。ぺこぺこなの。おねえさん、やさしいね」


ようやく顔を上げた女の子がにっこりと笑うので、つられて自分も笑ってしまった。


「とっても、おいしそう(・・・・・)」


ブチッ


「え・・・?っあ゛ぁあああああああ!」


女の子の口から発せられた言葉の異様さを理解する間も無く、全身を駆け巡った激痛が意識を塗り潰した。最後に見えたのは、赤く色付いた、三日月型・・・




六月八日 午前七時


時刻は午前七時。カーテンを閉めきっている室内は薄暗く、僅かに覗く太陽光は役目を果たすには心許ない。そんな中、静まり返った空間へ無遠慮に入ってくる者がいた。


「イクト、朝だよ~」


ノックもしない侵入者は、ベットの上の塊へお決まりの挨拶をしてからカーテンに手を掛けた。勢いよくレールを滑ったカーテンはきっちり左右に収まり、待ってましたと太陽光が室内を照らした。


「ん、あさ?」


朝特有の、どこか抜けた掠れ声。

発信源はもぞりと動いたベットの上の塊。


「そうだよ。ほら、起きて起きて」


己を急かす声にのそのそとベットから這い出してきた少年...イクトは、その場でぐい、と伸びをした。着替えたら降りてきてね、という声。あぁ、朝なのだと、イクトの脳はようやく稼働し始めた。


制服に身を包み、上着だけ腕に掛けて階段を下りるとリビングとキッチンを往復する姿が見えた。


「おはよう、エリー」


「おはよう。朝ごはんできてるよ」


「いつもありがとう、今日も美味しそうだ」


「ふふ、ありがとう」


食欲をそそる香り立つ食卓に、二人揃って腰を下ろす。


「「いただきます」」


なんて事の無い、朝の風景。

穏やかな雰囲気と、静かな会話。

そんな彼らの関係は、家族でも、恋人でもない。あえて言うならば、幼馴染みだろう。更に言えば、この広い一軒家の住人は彼らのみ。ならば二人の関係は何と呼ぶのが相応しいのか?


「今日は委員会で遅くなるけど、七時までには帰れると思うよ」


「わかった。じゃあそれまでに夕飯作っておくね」


簡単に言えば、相互扶助...ギブ・アンド・テイクの関係だ。言うなれば、利害の一致。イクトはこの家を、つまりエリーの住む場所を提供し、エリーはこの家の炊事洗濯を全て担っている。


「ごちそうさまでした。行ってきます!」


「お粗末さまでした。行ってらっしゃい」


日中、イクトは学業、エリーは家事に勤しむ。

これが、この家の日常である。




六月八日 午前八時半


「なぁなぁ知ってるか、『真夜中の神隠し』」


「何それ?」


「俺も人伝に聞いた話なんだけどさ、この町、月に1度行方不明者が出るんだって。日時は不明だけど、真夜中に若い女性が一人で歩いてると神隠しに逢うんだって!」


「まじかよ、こえーな」


「つい昨日も一人神隠しに逢ったらしいぜ」


未だ幼さが抜けきっていない元気の有り余った中学一年生。朝から騒がしい教室で、友人とのおしゃべりに夢中だ。そして今、彼らの間ではとある話題で持ちきりだった。


(真夜中の神隠し、かぁ・・・僕はともかく、ユキは危ないかも。たまに夜散歩してるし。そもそも、何で女性限定なんだろう?)


かくいうイクトも、聞き耳を立ててしまう程度には興味を引かれる話題だった。


「イクト?おーい、いーくーとー!」


「えっ、何?」


思考の波に拐われていたイクトを引き戻したのは親友の声だった。


「何って、呼んでも反応しないからさ。どうかした?」


「いや、さっきの話・・・何で女性限定なのかなって」


「さぁな。女だから、とか?」


「例えば?」


「花嫁探しとか」


「月1で代わるのか?」


「んー、それもそうだな。月1で必要になることか・・・消費されてる、ってことだよな。喰ってるとか?」


「こら、消費とか喰うとか人は物じゃないんだぞ」


「分かってる分かってる。たださ、この前読んだ漫画にあったんだよ。人間を喰う人の話が。女は肉が柔らかいから好まれるんだって」


「漫画の読みすぎ。実際にあるわけ無いよ」


「だな。ま、警察に任せようぜ」


うん、と頷いたものの。

あるわけ無い、と口にしたものの。

一度認識してしまった仮設は小骨のごとき不快さをもってイクトの中に残った。人が人を喰う、可能性。


「全員席に着きなさい。授業を始めます」


神経質そうな教師の声。

慌てて席に着く生徒達。

ガタガタ無遠慮に立てられた騒音。

生徒達の声だけは、どこまでも無邪気だった。




六月八日 午後六時半


とうに日は暮れ、家に着く頃には真っ暗だったが

予定より三十分は早かった。


「ただいまー」


玄関で靴を脱いでいた時、ふと妙な匂いがした。

これ、とははっきり言えないが、どことなく嗅いだことのある、そんな匂いだった。

パタパタという音を耳に振り返って、絶句。


「おかえりー、早かったね」


「ねぇエリー、へんなにお、いが」


「どうしたの?変な顔して」


「エリー・・・?」


エプロンも、頬も、指先に至るまで。

全てが強烈に見えた。

まるでそこだけを切り抜いたかの如く鮮明に。

ひたすらに、『赤』


「ん?」


弧を描く唇も、ベニを引いたように色付いていて。

普段となんら変わらない少女の笑顔との差に、イクトはくらりとよろめいた。まさか、そんな。今朝の会話が脳裏を(ヨギ)る。


「大丈夫?具合でも悪いの?」


不審な様子のイクトにエリーが近づくと、途端に鼻孔を刺す錆びたような匂いがした。ひゅ、と喉が鳴った。


「エリー、その血、何?」


我ながら、頭の悪い質問だったと思う。だがそんなことを気にしてられないほど、イクトは動揺していた。ゆっくり開かれる彼女の口元を凝視して、つと、汗が落ちた。


「ああこれ?鳥を捌いてたんだよ。丸まる一匹もらったからさ」


「へ?」


「だから、鳥を捌いてたの!」


「なんだ、びっくりした・・・」


緊張の糸が切れたのか、ずるずるとその場に座り込んでしまった。数秒の間を置いて、けらけらエリーが笑い出す。


「イクトったら、私が悪いことでもしたと思ったの?」


「いや、うん。ごめん、君がそんなことするわけないのに」


「もう。私、怒ったからね」


「ごめん、ごめんなさい!僕が悪かったよ。どうしたら許してくれる?」


「えー、じゃあ夕飯の支度手伝ってくれたら許す」


「分かった、すぐ着替えてくるよ」


なんておふざけを交えながら、二人は笑いあう。


(やっぱり、あるわけ無いよ)


安堵と共に部屋へ向かうイクトは、その背を見つめるエリーに気づかなかった。ましてや、どんな表情(カオ)をしているのかなんて。




六月九日 午後七時半


「じゃーん、今日の夕飯は特製シチューでーす」


「凄いね、良い香りがする。何か入れたの?」


「煮込み料理にぴったりのスパイスとハーブを入れたの。何か分かる?」


「えぇ、僕そういうの分かんないよ」


「正解は、オールスパイスとナツメグとオレガノよ」


「何の呪文かな?」


「ふふ」


くすくすと笑い声の漏れる食卓。

ハーブ特有の香りが食欲をそそる。


「食べてみて」


「うん。いただきます」


口に入れた途端、破顔したイクト。


「美味しすぎる」


「おかわりもあるよ」


「僕、エリーの料理を食べるときが一番幸せ」


にこにことイクトの食事姿を眺めていたエリーは、イクトの言葉に数度瞬くと、声をあげて笑いだした。


「あははは、そっか、そっかぁ。私の料理が、ね」


「何?」


「んーん、何でもない。でも良かった、イクトが幸せで」


噛み締めるようにイクトの言葉を繰り返すと、今度はエリーが破顔した。嬉しそうに、楽しそうに。


(今度の''幸せ,,はいつまで続くのかな)


自分は一切食事に手をつけることはなく、じっとイクトを見つめる。ただただイクトの姿を目に焼き付けるために。


「おかわり!」


「はいはい」


ものの数分で空になった皿。

知らない方が、幸せなこともある。

知る事で傷つくこともある。

君は、どっちを選ぶんだろう?




六月十一日 午前二時


刻は真夜中。丑の刻たる時間にて、一人の少女が爛々と瞳を輝かせていた。電球の明かりのみの薄暗い部屋で、紅玉と冷たく感じるほどの白さが浮きだっていた。


箱の中から取り出した球体は僅かに濁り始めていたが少女は迷うことなくソレを口にした。飴玉でも舐めるかのように数度口の中で転がすと、そのまま飲み込んだ。


「あぁ、この味を一緒に楽しめないのが残念。いっそのこと、堂々と出してしまおうか。いや、まだ早い。もう少し、もう少しで中身を食べきるのだから。その後でも遅くはない」


ふるふると考えを打ち消すように首を振り、箱を仕舞った。この部屋、前後左右・・・つまるところ全方位に棚が埋め込まれており、一つひとつ丁寧にラベリングされた無数の箱が寸分の狂いなく納まっている。


「とりあえず、この前の分で一ヶ月は保つはず」


うっそりと微笑んで汚れた指を舐め上げた少女の視線の先には''六月六日 上・ジャム,,との表記が。


「ジャムは高級品だもの。楽しみはとっておかなくちゃね。今回のは若くて新鮮だから、きっと舌が蕩けるほど甘くてどろっと濃厚な味・・・けど、やっぱり一番はお母さんのジャムね」


恍惚とした表情で思いを馳せる少女の夜はまだ明けない。とある家の、家主も知らない地下室で。




六月十七日 正午


「お、弁当じゃん。一口くれ」


「やだよ。これ僕のだし」


「けち。いーじゃんか、一口ぐらい。わかった、俺の唐揚げと交換しよう」


「そこまでして食べたい?」


「だってお前の弁当旨そうだもん。いつも手作りです、って感じでさ。な、お願い!」


期待に満ちた瞳に見つめられ、等々観念したイクトは渋々おかずの交換に応じた。先ほどまでエリーお手製の肉団子があった場所に転がり込んだ唐揚げ。黄金色に輝き、カリッとした衣を纏った唐揚げは見るからに旨そうだ。なのに何故か食指が動かない。


「いっただっきまーす・・・・ん?」


嬉々として肉団子を頬張った親友がぴたりと動きを止めたのを見て首を傾げる。


「はひほへ(何これ)」


「何って、肉団子だよ」


イクトの答えが気に入らなかったのか、親友は顔をしかめながら水で流し込んだ。


「何さ?不味かったとか言ったら容赦しないよ?」


「いや、不味くは、無いんだけど。初めての味と食感に戸惑った。これ、何の肉?微妙に生臭いし」


「文句言うなら食うなよ。はぁ、僕が食べればよかった」


「悪い悪い、文句言うつもりじゃ無かったんだけど。ていうかイクトはいつもこんなの食わされてるわけ?」


「喧嘩売ってる?始めこそエリーの料理は不味かったけど今じゃ凄く美味くなってるの」


「それ、お前が不味さに慣れちゃっただけじゃないのか」


「本気で怒るよ」


「・・・ごめん」


痛いほどの沈黙が二人を責め立てる。

先に口を開いたのは親友の方だった。


「なんかごめんな、変なこと言って。ほ、ほらうちの唐揚げも食べてみてよ」


促されるままに、口に運んだまでは良かった。

それを噛み締めた途端。


「っ!?」


(何だコレ?不味い。いや、味がない)


「おい、イクト?どうした?」


(まるで、ゴムでも噛んでるみたいだ)


ひたすらに、味のしないぐにゃぐにゃしたものを噛んでいる感覚。そんなもの、


(気持ち悪い)


「ぅぐっ、ぁ、く・・・」


(吐きそうだ。今すぐ口の中から出したい・・・でも、)


吐き気よりも親友への配慮が勝り、なんとか口元を抑えて堪える。だが、蹲ったまま動けない。異変を察した親友が背中を擦るが、それすらも辛い。

そしてこの日、イクトは学校を早退した。




六月二十二日 午後七時半 イクトside


学校を早退したあの日から、イクトは食べることが怖くなっていた。どんなに美味しそうな料理でも、食べたら吐いてしまうのだ。そんなものは受け付けないと、言わんばかりに体が拒絶する。エリーの、作ったものを除いて。


「ごちそうさま」


「イクト・・・」


「ごめん、食欲無いんだ」


悲しそうな声には蓋をして。迫り来る罪悪感は無理矢理押し退けて。縋る指先さえ避けて。二階へかけ上がる。もしかしたら、彼女は泣いているかもしれない。


(怖い。恐い。何が?彼女が?)


否、彼女を傷つけてしまうかもしれない自分が、だ。もし、もし彼女の料理すら受け付けなくなってしまったら。


(そっか、僕が一番怖いのは、エリーに嫌われるかもしれないことだ)


一つ、疑問は解けた。がしかし、現状は変わらない。まずは、謝ろう。そう決意して、そっと部屋のドアを開けると、エリーの姿がない。少しして、玄関の方で開閉音がした。躊躇したのは一瞬だった。




六月二十二日 午後七時半 エリーside


「お肉が不味いから、イクトは食べてくれないのかな?」


ぽつりと、一人きりのリビングで呟く。

皿ごとゴミ箱に棄てられたハンバーグ。


「そうだよね、新鮮な方がいいもんね」


一人納得したエリーは、外出用のコートに身を包む。全身をすっぽり覆う黒なら、きっと汚れは目立たない。キャリーケースを手に、家を出る。


「イクトが部屋に居る内に戻らなくちゃ」




六月 二十二日 午後八時


「そこのお兄さん」


「子供..?どうしたんだい、お嬢ちゃん」


仕事帰りのサラリーマンは、突然現れたエリーに驚いたものの、相手が子供だと分かるとすぐに人好きする笑顔を浮かべた。


「私、探し物をしているの。お兄さん、知らない?」


「ふむ、何を探しているのかな?」


「美味しいお肉よ。イクトに食べてもらう為の」


「肉か。どんなお肉が良いんだい?」


「新鮮で、柔らかいお肉がいいの」


子供の目線に合せて屈み込み、あやふやな物言いにも優しく対応する男。気の良い人間なのだろう。が、今回はそれが仇となった。


「けど、急いでいるから貴方でいいわ(・・・・・・)」


「かひゅっ!?」


深々と、男の首に銀色のナイフが突き刺さっている。

返しがついたそれを引き抜けば、大量の体液が飛び散ることは想像に難くない。


「しー、よ。近所迷惑になるでしょう?」


しかし、エリーの目的は出血死させることではない。あくまで声を封じるために、だ。


「大丈夫よ、大事な血管は避けてあるし、抜かない限り死ぬこともない。今はまだ、ね」


小さな子供が蟻を潰すように、

無邪気で残酷な優しさをもって、

終点へのカウントダウンを口遊む。

細められた瞳が鈍く光った。


「上手く刺せたから、痛みも少ないはずよ。さ、立って」


エリーに促されて素直に立ち上がった男。

虚ろな目に、意思など無い。

ふらふら千鳥足で小さな背を追う。


エリーが足を止めたのは、人気の無い廃工場だった。管理など名ばかりの其処は、あっさりと二人の侵入を許した。少女は部屋の中央でくるりと振り返ると、非情な宣告。


「お疲れ様、もう死んで良いわ」


「ぐっ、あがぁあ゛ああああ」


自分の手で(・・・・・)首を掻き切った男は血泡を吐き出しながら崩れ落ちた。未だ痙攣する体に呼応して、血が流れ出す。ゆっくりと伸ばされた手を見て、エリーは静かに囁いた。


「Have a good sleep tonight」


力を失って、地に落ちた腕。果たして男に聞こえていたのかは、神のみぞ知る、だ。


「さっさと終わらせなきゃね」


いつの間にやらゴム手袋を嵌め、鋸を手にしていたエリーは手慣れた様子で肉に刃を当てた。頭、胴体、手、足と順番に切り離し、メスに持ち変える。不要なものを剥ぎ取る為に。薄い金属越しに伝わる感触。固まりきっていない鮮血が少女の顔を汚す。


「ふぅ、こんなものかな」


五分後、エリーの側には皮と爪の山が出来上がっていた。剥き出しの肉がぬらりと光る。今この時において、ここは廃工場ではなく解体場と化していた。


「さて次は・・・・」




六月二十二日 午後八時半


「やっぱり男の肉は固いわね」


何が。何が起きているのか。

物影に隠れながら、イクトは混乱していた。

自分が目にしているものが信じ難くて。


「ま、若くて新鮮だし脂身も少ないからよしとしよう」


ブチッ、グチャッ、バキンッ


耳を塞ぎたくなるような音が、目をそらしたくなるような光景が、エリーによって生み出されているなんて。

これは何かの間違いだ、そうだ、きっと夢だろう。


コツッ


後ずさった時、小石を蹴り飛ばしてしまった。

小さくとも、確かな音となったそれは、当然彼女の耳にも届いた。


「あれ、イクト。どうしたの?」


いつかの日の、エリーと重なる。平然と、自然な笑顔で話し掛けてくるエリー。今すぐ逃げ出してしまいたいのに、体は言うことをきかない。


「なぁに、怖い顔しちゃって」


「え、エリー」


「ん?」


「それ、何?」


一気に水分が失われた喉から絞り出せたのは、なんとも情けない声だった。


「何って、ご飯でしょう(・・・・・)」


「ーーッ!?」


嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ

これ以上、何も聞きたくない。


「ずっと、気づかないふりをしていたんでしょう?気づいてしまったら、幸せな(いま)が終わってしまうから。じゃなきゃ、賢いイクトが気づかないはずないもの」


一歩、エリーが近づく。


「あの日、私が捌いていたのが鳥じゃないことも、ずっと左手だけ隠していたことも、特製のシチューがビーフシチューじゃないことも、お弁当の肉団子が豚じゃないことも、私が月に一度夜中に散歩に行くことも」


また一歩、エリーが近づく。


「私、結構頑張ったのよ?生じゃイクトがお腹壊しちゃうし、焼いただけだと吐いちゃうし。少しずつ少しずつ量を増やしていって、調理法も工夫して、味に慣れさせた」


更に一歩、エリーが近づく。

二人の距離は、十センチ。


「愚かで臆病で可愛い私のイクト」


すり、と愛しげに指が頬を滑る。

冷たく、温度の無い指。

何の拘束も無いのに、イクトの体は動かない。


嘲りも蔑みも哀れみも憐れみも無い真っ直ぐな瞳が、普段となんらかわりない穏やかな表情が、


「邪魔なものは消してあげるし、見たくないものがあるなら目を覆ってあげるし、聞きたくないことがあるなら耳を塞いであげるし、望むことはなんでもしてあげる」


吐き出された言葉と酷く不釣合で。

正気なのに狂っているのか、狂っているのに正気なのか。

その上、狂っているのは自分のような気さえしてくるのだからたまったものではない。


「今回はどうしたい?」


今回は(・・・)

それはつまり、前があるということで。


「だってイクト、始めは自分の親を食べてた事に拒否反応起こして拒食症になっちゃったから、両親の記憶を書き換えてあげたのよ」


「嘘だ。だって、僕の両親は、」


「普通、親は海外赴任、子供二人だけで暮らすなんてあり得ないでしょう?大変だったのよ、周囲にも暗示をかけるの」


「そんな・・・」


「美味しい、って言って食べてたわよ?」


ぞわりと肌が粟立つ。

この体が、両親を糧に成り得ているなんて。


「二回目の時は、発狂して壊れちゃったから、一から記憶を作り直したの。こっちの方が簡単だったわ」


(あぁ、僕の記憶は、とっくに僕の物じゃなくなっていた)


「三回目の時は自殺しようとしたから、自殺出来ないように教え込んだわ。首の所、チョーカーの下に傷が残ってしまったのが残念でならないけれど」


心底残念そうに呟くエリー。

伸ばされた手がカチリと音を立てて首輪を外した。


「イクト、もう普通のご飯食べられないでしょう?」


(そう。僕は彼女が居なきゃ生きられない)


「ねぇ、どうしようか?」


大好きだったはずの、無邪気な笑顔。

こんな仕打ちを受けてなお、嫌いになれないのは。

イクトが既にイクトでは無くなっているからか。

それとも、


「このままで、いいよ」


「本当に?」


「うん。この感情が自分のものかすらわからないけど」


今度はイクトが、一歩近づく。


「僕、君に絆されちゃったみたいだ」


自分でも、可笑しいと思うよ。


「君と一緒にいられるなら、なんでもいいや」


なんだ、狂ってるのは、僕の方じゃないか。

エリーの瞳に映る自分は、酷く歪な笑みを浮かべていた。

エリー、エリー、僕の悪夢(エリー)




幾度となく繰り返される悪夢

貴方は私から逃げられない

ねぇ、そうでしょう?

だから、一緒に溺れてしまいましょうよ

覚めることのない、幸せな夢に、永遠に

二人なら、きっと楽しいわ




捕まったのは、どっちだろう?






オールスパイス、ナツメグ、オレガノは主に癖が強い肉の臭み消しとして使われます。また、煮込み料理にもよく使われます。

イクトは幾度と書きます。エリーはエフィアリティスから。ギリシャ語で悪夢を意味します。


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