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アインシュタインは論じ、私は身を以て知りえたこと

作者: 原田かこ

幽霊には足がないといわれていますが逆なんです

アインシュタインの素晴らしさをしみじみ語りたいと力み

役不足になってしまいました

 霊が見えた、と学校に通う頃は、夏の風物詩として、好奇心を掻き立てられるワクワクする話に盛り上がった記憶がある。霊感があるという人物はちょっとした勇者のようで、霊感があり話がうまいともなると怖さに夜トイレに行くのが気が引けた。あそこはまずい場所みたいだよ、あっちは見えるとか、体験をちらっと覗かせると最高潮の盛り上がりを見せた。

 私は視たことがなく、未知の体験談に心を弾ませて、怪談の輪に加わっていた。普段は口数の少ない友人が率先して話を続ける様子の強く印象に残ってる。未知の世界であるから想像が掻き立てられる。視たいわけではないが、死後の世界の片鱗はたまらなく興味をひかれた。


 学生時代の私は霊感とは無縁だった。怖いもの見たさでオカルトは興味があるけれど深入りしたくはないな、という姿勢を保つ。専門用語を当たり前のように使いその人たちしか共有できない閉鎖空間にどうしても入り込みたい熱意はいなかった。一歩引いてみるとその光景は滑稽であったためで、霊感が強いと言って憚らない友人に言わせると、視れる体質との助言を貰うが、特別に訓練等をしたくなかったから、霊感がない今の状態が最適だったことから、「わからない、私は霊感ない」と、返事をして笑って誤魔化して過ごした。


 霊魂が視えるようになったのは、20年飼っていた猫と死に別れたことから始まった。高齢になってから長患いで1日おきに点滴で水分を補給していた。体力が落ちて、水分の吸収ができずむくむようになり、痛がって鳴く様子から断腸の思いで病院通いをやめた。弱っていく姿を見守るのは辛く、少しの食べ物でも口元に運び、柔らかい毛皮を撫でて励ますばかりの終末期だった。視力もほぼなくなっていたため、周囲に人の気配がないと横に伏したまま悲しい声で誰かを呼ぶ。苦しい息の下で側に人が寄り添っていると我慢して静かに横になっていた。

 その日、午後から出勤だったので前日に猫が少しでも口にしてくれたらと購入しておいた、丸々太ったアジを朝から焼いた。焼きたての柔らかい骨のない背の部分の身を冷ます。ぐったり頭も上げられない様子でも好物の匂いに釣られて魚を解す私をじっと見ている。ほらっと小さな身を口に向けるが二口で興味を失ってぼーっと前方を眺めるだけだった、今日が別れの日になるかもしれない。小さく、細くなった体をそっと撫でて、少し出かけるけれど、苦しくなったら待っていなくていいからと繰り返し家を出た。

 夜、急いで帰宅したところで間に合わなかった。20年、互いに良いことも嫌なこともあったけれど一緒に過ごした長い時間。死に出の旅路を見送ることができなくても、きっと仕方がない、お前は要領が悪いノロマだから期待は最初からしていないと猫は呆れて納得してくれているだろう。固く突っ張った足のままの冷たい体を抱き上げた。口も目も開いたままだった。閉じようと試みたところで固くなってしまっているのでどうにもならなかった。悲しさが増して白い毛皮の上にしばらく涙を零した。翌日、腫れぼったい顔のまま落胆を隠さず出勤する。色とりどりの花の中に小さな亡骸を埋め込んだ姿を未練がましく撫でた。家人が家から送り出してくれる。別れができずに申し訳ないと思った。

 喪失感と無気力混ざったまま帰ってきて線香の匂いが立ち込めた寂しい家で、私も1本線香を供えた。線香の香りは供養できている気分になって心が落ち着く。のそっと食卓に着いた。ふと、動作を止める。足元に違和感を感じた。ドライアイスでも置いてあるのかとテーブル下を覗き込むと、好物を分けてもらえる猫の特等席から冷たい風は流れ、そこに既に家から旅立った猫が半透明の姿で丸くしゃがんでいる。骨まで冷えるような霊気、苛々気が立っている気配と攻撃体制から、この子は怯えていると感じた。自分の好きな場所で蹲り、死が理解できずに虚勢を張っている。ここにいる私たち家族がわからないからこんなに怯えている。でも、帰ってきたんだねと、テーブルの下で一緒にしゃがみ込む。

 「ねぇ、お母さん。この子こんなに怖がっているけれど、生きていた時のままの姿で帰ってきているよ。」

 「そうだね。」

 内容が内容だけに母も話しにくかったのだろう。すっと視えていたようで同意は早かった。冷たい霊気をまき散らす猫の帰宅をともにこっそり喜んだ。


 猫はホログラフィーのような半透明の姿をしていた。冷えた霊気は3,4日もすると収まって、刺々しい空気もほぐれた。生前よく座っていたカーテンの裏や台所のマットの上でくつろぐようになる。相変わらず私達の住む世界とリンクできないようではあったが、死後のあり方を受け入れたようだ。私から視えるけれど、猫はひとりでいるのか気がかりだった。猫の過ごす時空にも私たちがいればいいと思った。窓際など好む姿はやがて、頭部から灰色の綿でくるんだようにぼやけるようになった。7年後、猫の姿は視ることができなくなる。その時は足の先が4本ちらりと現れるばかりだ。霊体は灰色のもやで包まれている面積から死後の時間の経過が測れる。直後は全身半透明、時間の経過とともに頭部から足先の方へとぼやけるのだ。昔話などで幽霊には足がないけれど私は最後まで足は視える。


 実は猫の霊体を目にするようになってから、人間の霊体が視界に飛び込んでくるようになって困っていた。人間がぼうっと立っている姿が飛び込んできてぎょっとする不本意と猫の残像と過ごせ安息とを比べた場合、些少の弊害であっても猫優先と開き直ることにした。死後の人々は、何か塀や壁の横にいないと保てないらしい。見晴らしと風通しの良い場所で遭遇することは皆無だ。考えていることもないようで、無表情というのが多い。数回、霊を見かけただけでこじつけてしまうのは乱暴とは承知しつつ、偉大なるアインシュタインの一般相対性理論と私の実体験を重ねてみた。霊感を持つ友人はこぞってユングを読み解こうとしていたのに対し、私はアインシュタインの世界に強く惹きつけられた。音速を越えれば時空を自由に行き来できるというその理論から、肉体を失くし粒子になった魂を司る細胞のみとなった時に時空を超えたどこかに転送され、そこで細胞が尽きるまで死後の延長を営んでいるのではないかという発想にとりつかれる。猫はたまたま過去に飛ばされた。猫からはこちらがわからない。しかしこちらからは猫が視える。時間の流れが違うからではないのか。姿があったりなかったりするのはそのせいではないだろうかと考え、一方でしか確認できない状況は一般ではなく特別あたるのではとか、あちこちに考えが散乱してしまい疲れたためにまとめることはやめた。アインシュタインの底なしの頭脳は何からきっかけを得ていたのかと思いを巡らせて、きっかけは霊感だったのかなと思いつい笑った。それは恐怖だったのかそれとも郷愁か。私は、時空が違っても安らぐ猫をみることができる細やかな楽しみ得られて未知の神秘に感謝をした。


 夏のある期間人手不足の補充で自宅から最寄りの事業所に応援に行くことになった。普段は通勤に片道1時間かかるので、楽ができると嬉しく思った。入社当時に挨拶程度の顔合わせをした事務所員は全く記憶していない。人間関係が上手くいくか心配は大きい。同系列の仕事と、たまにはいちから構築する苦労を再確認するのも単調な日常を大切にできるプロセスになるはずだ。不安を打ち消して事業所行きを受け止めた。

 翌日、2駅隣の事業所を訪れた。駅からは徒歩10分位で角地に建った6階建の建物でそんなに年数が経っているいない感じだが、どことなく古く荒んだ印象だ。半円型の自動ドアに向かいタイルの階段に足を賭けた。目の端に飛んで出た犬の前足。ゴールデンレトリーバーの金色の大きな足だ。大急ぎで揃えてはしゃいでこっちを見つけて一歩飛び出したのだろう。長い時間待ちわびた人間の姿だったことが容易に慮れる四足歩行のどうぶつならではの可愛らしい動作に悲しみを覚えた。一瞬でなければこちらもサインを送りたかった。憂いていた矢先、同じく長い年数が経過しているであろうという女の霊体が玄関のポーチ横の植え込みの奥まった暗がりにいた。嫌な気配だと思った。早々に建物の中に入ると6階まで上がった。

 4名の所員が出迎えてくれる。どうぞとコーヒーを勧められて熱いうちに啜る。4人が交代で1週間づつ夏季休暇を収得する。私は1ヵ月この事務所で勤務をする。ひと月限定というのは躓きがあってもどうにかより越えられる期間だ。同じようなことを考えているのか互いに愛想良く挨拶を交わし、大まかの業務の説明を受け午後には本来の勤務地に向かった。エントランスの女は不在だったがその場所は近寄りがたい暗さと湿気が残されている。


 とっぷり日が暮れた頃、帰宅をした。母がテレビを眺めていたが、私に、今日は猫はどこにいる?と尋ねてくる。母の方が私よりはっきり猫を感知できる癖に、なぜ、わざわざと訝しんだが室内を見回して、今日はいないよと答えた。そうでしょう、いないのよ、実は向こうの家にいっているらしいんだね、と興奮気味に話す。視えない人に真剣に話せばバカにされたり、悪くすれば精神病を疑われる話題なので、大っぴらに内緒話ができることが楽しくて仕方がないらしい。母はこれまでひとりで多くのことを視て理解されずに寂しい思いをしてきたのだろう。昼間に妹から電話があり、死んだ猫の霊体の話をしていたからか、今日の猫は?という電話があったらしい。母も今日はいないと伝えると、妹はこっちにいるよ、階段を降りてきる音がしたという摩訶不思議なやり取りを行ったらしい。母が一時期入院した時に妹宅へ里子に行っていたこともあったので、その家にも足を延ばしたのだろう。死した猫の律義さに感服しつつも、その日は疲れていたので、母の話に真剣に取り合わなかった。折角の楽しい気分を害したのかむっつり黙り込み部屋に戻ってしまった。


 事業所勤務も2週目に入った。1週目休暇を取るのははマネージャーの中年男性で、2週目は今年入社の新人女性、3週目は勤続6年目の女性、最後の4週目は所長の順番だった。地域を管理していた元の業務からすると事業所1箇所の処理件数が少なく楽で、時間が余りがちだった。昼休みに年上の女性から近所にランチを楽しめる店があるからと誘われていたので連れ立って出かけた。晴天の空の下、エントランス横の薄暗い一角を指さして、ここに女の人が出るんだよ、と何気なく話題を探し乗ってくれるか試すように口にした。

 「いかにもって場所ですね。」

 「何回か見たよ。ここで見る人割と多いよ。」

 と、天気の話をするような気安さで言葉を発するが、死亡時期が古い割には主張をしている霊体なので、漠然と強い部類なのだと思っていた。霊本体の前で当事者の話はきっとしてはいけない。タブーであると本能が警鐘を鳴らす。幸いにすぐに次の話題に写った。

 昼休みから戻ってきて驚いたのは、顔に灰色のもやのかかった女が部屋の隅に立っていたことだった。私よりも二回り位小さくジーンズをはいていることから非常に痩せていることがわかる、多分若い女性だ。エントランス横の女位に生々しく強い。明確な意思がありそうなその立ち姿に驚いた。彼女は私より左側の隅にいる。右は大きな出窓で室内隈なく陽光が照らしているが左の隅だけ暗い。知らない振りをして過ごしていたが、左の角には出退勤の機械が設置してあり、朝夕、彼女に重なりながらチェックをすることになってしまった。


 3週目の月曜日まで視える死人がいるということ以外何事も起きなかった。夏季の備品のチェックは1週早まっていたので、この月曜日に行わなければならなかった。地下の倉庫に朝一番から取り掛かった。暗く中オレンジ色の蛍光灯がほんやりと灯るだけの地下は換気も悪く空気が淀んでいる。コンクリートも鉄筋も剥き出しで見た目も最悪に悪かった。扉が軽いキィという音を立てて閉まる。背中がぞくっとした。ここにも何かがいるのだ。生暖かいのか冷たいのかわからないものがざわざわと足元から這い上がってきて絡みつく。早く終わらせようと数を数えることに没頭しようとしたり、一角に設けられた警備員の休憩スペースを見てここで休むことができるのだろうかと同情したり、違う方向に思考を持っていこうとするがうまくいかない。平静を失っているから作業も遅々として進まない。ここで作業できない。この思いが湧き上がると我慢ができなくなった。一度、事務所に戻ろう。

 その時、ドアが開いた。

 「あっ、作業中だった?失礼。配管点検で人が入りますよ。」

 警備のおじいさんがヘルメットを被った男性を3名案内してきた。素晴らしい幸運を拾い、快くどうぞと返事をした。この空間で生きている人間が4人いる方に利がある。点検は長くはないだろうから私もさっさと在庫を数えてしまおう。なりふり構わず数を数え続け、点検終了前に自分の仕事を終わらせることができた。

 この地下での作業以降から事務所の女が、私は女のことが視えているのではないかと疑問を持ったようだ。じわりと近づいてきては、私の様子を伺う。あてずっぽうに進みつつ私を探している。ありがたくない事実に気持ちを取り乱す。その乱れを察して女が徐々に近づいてくる。私は左から寄られると弱い。これも根拠のない直感だった。多分右は他の人から比べても強固な方で、左は弱い。まずいと感じた。女は左側の距離を詰めてくるのだ。どうしてこの建物は強い霊体ばかりが存在するのだろう。


 家で猫の姿は視えなかった。反対に事業所の霊は時間とともに生々しくなってくる。怖かったので正直なところ事業所に行きたくなかった。私の生命が吸われている、そんな気配があったからだ。死が怖い。だから死に近づく切っ掛けとなる霊が怖い。頭では理解していても意志が無条件に恐怖に震える。猫は20年過ごしたから死後もその存在を拾い易かった。霊感のない人が近親者の死後霊体を見ることが多いのは気心が知れているからだと考える。気心と死別の寂しさから周囲を探るうちに生きているのに死の周波数に合わせてしまったの知れない。視えなければ害がないといえる。霊体と共有すると生と死の時空が違うわけで歪みが発生する。つまり霊体に懐かれると死を呼び込んでしまうのだ。仮説だが女が近づくほどに恐怖が増す。もう少しでデスクの真横まで来てしまいそうだ。壁際から離れてここまで来るのは女も確固たる目的を定めているのだ。昼休み歯を磨きうがいをして鏡に映る風景を恐れるようになった。自宅で夜、ひとりになることが嫌になった。犬を抱えて深夜までテレビを見てそのまま正体なく寝入って朝を迎える事が多くなった。正直に言えば風呂に入ることにも恐怖を感じた。ひとりの時を狙われている。私は生きている、私は生きている、呪文のように繰り返し、女の目線や息遣いを故意に無視しようと努力を重ねた。


 残すところ3日となって女の片手が私に届きそうになっている感覚にいてもたっても居られず、高校時代の友人に電話をした。オカルトマニアに分類される友人だ。当たり障りのない話をした後、真面目にこの話をすることが躊躇われたが、主張が強い霊に見つかってしまって寿命を吸われているようで怖いと相談した。簡単な経緯を話すと、近所の話だし、私はどうせ夏休みだからランチを奢ってくれるなら明日話を聞くよと申し出てくれた。打開策が出るかもと翌日への杞憂が少し晴れた。


 翌日、会社の前で待ち合わせをした。時間前にエントランスで待っている友人に手を振って近づく。高校時代は地味で洒落気ゼロだったことが嘘のように変身を遂げていた。身綺麗な会社員の洒落た休日という風情だった。

 「来てくれてありがとう。見違えるほどきれいになったね。」

 素直な賞賛をあっさり無かったことのように聞き流し、ここの中を見ることはできるのか聞かれたので、こっそりねと念を押して人目を盗んで案内した。二度と来たくなかった地下倉庫に入り込む。事業所は電話番がひとり残るからダメだと断った。屋内を軽く見渡して場所を移動する。

 向かい合って座ると友人の指輪に気づいた。全く知らなかったが結婚していた。視線の先に気づき、平然と式挙げなかったし、自分からはお知らせしていないよと気を回して先に弁解をしてから、私がおめでとうと祝福をする前に、じっと目を覗きこんで、あんたは家に守られているから大丈夫と友人の見解を述べた。

 「あの辺り一帯は知る人ぞ知るってスポットだね。私も、用がなけりゃ近づきたくない場所。あの暗さは普通ではないよ。絶対に何かある場所だね。エントランス横の女も有名で、地下もそれに同じ。地下は、まぁ強力だった。でも、上にいるのは驚き。」

 「上のはまだ新しい感じの痩せた人だよ。」

 「状況把握をしたいところだけれど無理なわけだし。あんたは生きている力の強さもよく理解している。家の力も強い。その守りは強固だから平気でしょ。」

 「ただ、左を掴まれているから防げるかどうか。本当に怖いの。どうしたら閉じられる?」

 霊が聞き耳を立てて渇望する言葉を発することは勇気が必要だった。それでも本音を吐露する。頼れる存在を見つけてこれまでの緊張が一気に友人に向かった。

 「そんな時は塩。事務所でてすぐと入っていくときに自分に振り掛けて。清めっていうのはそれなりに意味があるから現代まで伝わっているんだよ。私の有り合わせでよけりゃこれからすぐに使ってよ。」

 休憩は余りに短すぎた。食事の味はわからなかった。事務所に戻る時は分けて貰った懐紙に包まれた塩で自分を清めてから建物に入り僅かに力を得た気分になる。残りはあと二日と喝を入れながら過ごすばかりだ。

 翌日の就業時間近くに地下倉庫の備品の数の誤差を見つけた。慌てて数えたせいだろうか。髪の毛を掻き毟りたくなる。指先が冷たくなり浅く呼吸を繰り返し整えてから、マネジャーに差異を今日修正した方がいいか相談した。

 「明日でいいよ。今夜は台風の心配もあるし、皆で早々に帰ろう。」

 黒く厚い雲が低い空に浮かんでいる。風が低く唸りながら建物の谷間を吹き抜ける。ほっとした。多分明日も台風で臨時休業になるだろう。私は地下に降りなくて済むし、多分月が替わると安全になるという予感が働いた。


 「どうしている?まだ何かある?」

 事業所勤めを終えて1週間が過ぎた日曜日に鳴った電話は友人からだった。

 「あの時はありがとう。助かったよ。塩のおかげで3日間無事済んだ。最終日は台風で出勤しなかったけれどね。」

 「運にも恵まれているよ。あんた。」

 「実はね、2年くらい前にあの事務所で働いていた女の人が、幼い子供ふたり残して早逝していたの。癌でやせ細りながらぎりぎりまで働いていたらしいよ。そんな強い心配事が霊体になっても執念を残すんだね。」

 「あんただって掴まれていた癖に。怯えていると判れば勝負に出てくるからね。その人も別のモノに捕まって死んだんじゃない?あんたは逃げ切れた。あの時に不安を与えて悪い方に転んだらいけないから、言わなかったけれどそういう目もあったからね。もう、不用意に事業所付近をうろつかないように。あの建物を囲んで祠もあるんだよ。おっかない場所は避けるがいい人生のコツ。あとさ、私は結婚していないよ。事実婚ってやつ。坊さんとくっついた。言っておくけれど奥さんは他界しているから不倫じゃないからね。向こうも跡継ぎがもういる中に後妻はいならいんだよ。だから籍は入れずにいるわけ。えっ、そう。幸せだと思う。ありがとう。あっと、付けたし。しばらくは塩も持ち歩いた方がいいよ。じゃあね。」

 これが友人との会話の最後だった。跡継ぎが一緒に寺を切り盛りしているなら、かなり年上だろうけれど幸せならば喜ばしいことだ。何度電話をしても応答がなくやがて使用されていないとメッセージが流れるようになった。やがて、塩を持ち歩くのを忘れるようになり、猫の姿を見失いこれが成仏かと感慨にふけり、周波数は知らない内に切断され一般的で静かな日常を送るようになっていた。

 当時を思い返せば滑稽だと思う。祟り殺されると怯えていたのだから。精神的に弱っていたのかも知れない。あの恐怖は紛らもない事実だった。しかし死は必ず訪れる。死後は依然として不明のままだ。未知のモノを人は軽んじる習性がある。肉眼で見えるものだけが全てではないのは周知のはずなのに。絶対に経験しなければならない死が来たときは甘んじて漏らすことなく見極めることができたらいいと思う。そして死後があるなら懐かしい猫のように穏やかな日常に埋もれて消えてゆきたい。

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