第5話「一条の作品」
翌日。僕は図書館には向かわず、部活に出た。一条の事や栗山さんの事、少しでもシャーペンを止めると不安に胸を押し潰されそうで、僕は一心不乱に右手を動かす。
「ちょっ……ちょっと、一体どうしたの?」
持岡さんが恐る恐る僕の肩に手を置いた。
「すいません。僕、とにかく書かなきゃいけないんです」
「そ、そう……」
持岡さんは僕の肩から手を離し、後ずさりしていった。
「春原。コンクール用か?」
今度は杉長さんが僕に声を掛ける。
「……はい」
僕は右手を止めずに答えた。すると杉長さんはそれ以上何も言わず、僕もまた黙って執筆を続けた。何が何でも、一条に勝つ――。
「――なのに、なんなんだよこれ!!」
一時間後、僕は原稿用紙をグシャグシャに丸めた。誰もが一目見て分かる程の、最低最悪の出来。
(くそっ! これじゃ一条に勝つどころか……)
僕は両肘を机につき、頭を抱えてふさぎ込んだ。
「……春原。何があったか知らんが、少し落ち着け。そんな状態で無理矢理書いてもまともな作品は書けないぞ」
杉長さんが僕の肩に右手を置く。
「すいません……。でも……」
杉長さんは少し間を置いた。
「……お前、去年入選した奴の作品を読んだ事あるのか?」
僕が一条と面識を持っている事は、そう言えばまだ誰にも話してなかった。
「……、いえ……」
すると杉長さんは大きな机の元へ向かい、その引き出しから一つの冊子を取り出した。
「読んでみろ」
僕の目の前に冊子を放り投げる。
「…………」
――2007年度入選作品、『光の道』。
非常に軽度の自閉症である山田 亮太は、自身が自閉症であるという事を周囲の人間に認識されていない。それ故に山田の姿は周囲の人間の目にはとても奇異なものとして映り、幼い頃から酷いいじめを受け続ける。
そして山田は小学六年へと進学した時、人一人の人生を棒に振る程の異常とも呼べるいじめに遭う。筆舌に耐え難いそれは山田の心を深く傷付け、それ以来自分の部屋に引きこもる様になる。
当然ながら友人と呼べる様な人間はおらず、無理矢理にでも『友達』というカテゴリーに何かを当てはめるならば、山田にとって唯一のそれは習慣である『読書』だった。
しかし山田が形式上は中学校へと進学して暫く経ったある日、一度も登校しない山田の元を一人のクラスメイトが訪れる。そのクラスメイトは以後、しつこい程に山田を学校に誘い続け、山田も当初は戸惑っていたが、次第に心を開きかけていく。
そして山田の『友達』のカテゴリーは、『読書』から『観葉植物』、『観葉植物』から『犬』、そして『犬』から『人間』へと、光の道を歩んでゆく――。
――圧倒的だった。息をつく間も無いぐらい、美しく流れる様な文章力。読者を作品に取り込み、主人公へと感情移入させる展開、話の構成。
これが、一条――。
呆然とする僕を見て、杉長さんが口を開いた。
「ちなみに……もしもだが、俺がこいつの作品を評価するとするならば、その時は……」
……僕らがいつも受けている、杉長さんの五段階評価。
「その時は……?」
「ほぼオール5」
――当然、そうなるだろう。僕が杉長さんでもそう評価する。
「一条の作品はほぼ完璧だ。非の打ち所が無い。奇抜にぶっ飛んだ物語という訳でなく、程々に既視感があり、程々に目新しさを含んだ展開。審査の先生方はこれぐらいのものを一番好む。そして特に高評価を得ているのが文章力と、話の構成力。どう見ても中学一年生が書く作品のレベルじゃない」
杉長さんはやってられんという様に溜息をついた。
「別に、お前はこいつに敵わんと言ってる訳じゃない。正直、お前はこれからまだまだ伸びると思っているし、今でも充分に力をつけてきている。でもだからこそ、今はじっくりと自分のペースでやるんだ。今回のコンクールでこいつに勝てなかったからって何かを失う訳じゃない、お前はお前のペースでやれば良い。それが一番、何よりもお前の為になる」
杉長さんはそう言って、優しく笑った。
「…………」
――僕だって、それくらい分かってる。でも、俺は…………。早くしないと、栗山さんが…………。
言いようも無く、怖くなる。僕は立ち上がり、鞄を肩に掛ける。
「……すいません。今日は帰ります」
僕は振り返らず、図書館を出た。
「春原…………」