タクシードライバーにはなれない
「ああ。また、あの嫌な上司の送迎か」
本谷清重は、無表情のままため息をつく。送迎といっても、帰宅する上司を会社から駅まで送るだけだった。それだけのことが本谷には苦役に思われて仕方がなかった。何せ車の運転は大の苦手である。免許を取ってから三年たっているにもかかわらず、運転中は不安と動悸が収まらない。
夜道というのも、彼の不安をかき立てる材料になる。あまりにも道が明るいせいで、気づかないまま無灯火で帰宅したことがあった。自宅について、そのことに気づき、全身から血の気が失せて、膝が笑い始めた。肩関節の力が抜けて、腕が外れそうに感じた。
「じゃあいつもの所まで頼むからな」角刈りに近い髪型で、一文字眉の大きな目で睨みつけながら、上司は乗り込んだ。「はい。わかりました」本谷はキーを差し込んで回すが、一度目でエンジンがかからなかった。
「もたもたしてんじゃねーよ!」
「あ、はい」
二度目にやっとエンジンがかかった。そのまま徐々にゆっくりとアクセルを踏んで加速させる。
「とろいなお前は、もっとさっさとやらんか」
「あ、でも安全運転は大事ですから」
「慎重すぎても駄目だろ。車の流れに乗らんか」
上司の辛らつな言葉がいちいち胸に突き刺さる。駄目だ運転に集中しなきゃ。
「明日の仕事は、朝礼の前に資料を準備してだな……。話をちゃんと聞いてるか」
「あ、はい」
しまった。上司の話を聞いていたら信号を見落としてしまった。
黄色からすぐに変わった赤信号の中、交差点を突っ切る車、周囲の車からクラクションが一斉に鳴らされる。
「危ねえな馬鹿野郎!ちゃんと前を見ろよ!」
「あ、はい。すみません」
昔からこうだ。どちらか一方に意識を集中させると、もう片方がおろそかになる。
本谷の精神はビビりっぱなしだった。
「じゃあ明日も頼むな」
「はい。お疲れさまでした」
疲れたのは本谷の方だった。もと来た道を引き返し、駅とは反対方向にある自宅へと向かった。
なんでタクシーの運転手は、人の話を聞きながら運転できるのに、僕にはできないんだろう。
ふがいない自分を責めて、ますます陰鬱な気分へ自らを追い込んだ。
数日後、彼は自家用車通勤を止めて公共機関で通うことにした。件の上司からは散々嫌味を言われたが、
精神的には大分気が楽になった。
それから十年の月日がたち、マルチタスクが苦手だった理由が発達障害によるものだと、本谷はネットの情報で知るようになった。近いうちに、診断できる医者を探して、診察してもらおうと心に決めた。