5話
そこにいたのは、ヒトではなかった。
一般的な男性よりも一回り背が高い。鍛え抜かれた頑丈な身体は日に焼け、野性的だった。荒々しい黒髪の隙間からは、小さな角がのぞいている。赤い両眼は獰猛な鷹のように鋭く、対峙しているだけで足がすくみそうだ。
「魔族っ!?」
イーディスは、咄嗟に攻撃魔術を構築する。
魔力を練り上げながら、どの魔術を使うべきか考えを巡らせた。風の魔術で突風を起こし、切り刻んでしまうのか。はたまた、水の魔術で霧を発生させ、めくらましをかけるのか。それとも、それとも、と考えている間にも、魔族は近づいてくる。
「こ、こないで!」
イーディスは震える指を魔族の胸辺りに向けた。対して、魔族は余裕なのか笑みを浮かべている。凶悪な口からは、狼のような牙が見え隠れしていた。
「それ以上近づくと、撃つから!」
「あー、怯えるなって。オレは怪しい者じゃない」
ところが、魔族は従順に足を止め、両手を上にあげた。
予想外の反応に、あっけにとられてしまう。狙いを定めていたはずの指が、ほんの少しだけ下がってしまった。
「こんな見てくれだけど、オレは人間だから。ほら見てみろ、魔族の証がないだろ?」
男は前髪を捲し上げ、額を見せた。
たしかに、そこに広がるのは普通の額だ。魔族であれば、額に魔族の種族を示す入れ墨が刻まれているはずである。しかも、よく考えてみれば、先ほどからずっと彼が話していたのは、自分たち人間の使う「大陸言語」だ。魔族のみが操る「魔族言語」ではない。
「……本当に人、ですか?」
「当たり前だ」
彼は気分を害したように眉間にしわを寄せる。凶悪な顔が余計際立って見えた。
赤い瞳はさらに釣り上がり、視線で人を殺せそうだ。おまけに右目から顎まで一直線に伸びた傷跡が、近づきがたさを助長させている。
「疑ってしまって、ごめんなさい」
イーディスが慌てて謝罪の言葉を口にすると、男は面倒くさそうに頭を掻いた。
「別に気にしてない。どうせ、いつも間違えられる。それよりも、だ。お前、こんなところでなにしてやがる」
「えっと、私は……」
まさか、この屋敷から逃げてきたとは口が裂けても言えない。
万が一、彼がここの関係者だった場合、連れ戻されること間違いなしだからだ。よく見れば、騎士団風の濃い緑色の服を纏っている。十中八九、彼は騎士か傭兵であり、この辺りには正規軍の駐屯地はなく、唯一、軍隊らしき形態の部隊があるとするならば、それは、色狂い辺境伯の所持する部隊だ。ともすれば、目の前の男は、ピルスナー辺境伯に仕える軍人に違いない。
正体がばれたら、きっと色狂いの屋敷に連れ戻される。
イーディスの背中がぞわりと逆立った。
「っち、だったら、迷子か?」
イーディスは返答できなかった。
一言でも返答を間違えた瞬間、地獄に戻される。
発言を間違えたらいけない、と思えば思うほど、身体のうちから恐怖が沸き上がってくる。そのせいで、足が地面に縛り付けられてしまったかのように動かない。
これなら、魔王と対峙したときの方が、まだ怖くななかった。
……もちろん、魔王と対峙したときも恐怖で震えていた。だが、あのときは、「また、クリスティーヌがなんとかしてくれる」という予感がした上、魔王が
『くっくっく、よく来たぞ、聖――』
と、台詞を言い切る前に、彼女の爆裂魔術が放たれていた。爆煙が晴れたときには、すでに魔王は焼け焦げた死に体で、畏怖も威厳も感じなかったのをよく覚えている。
「これまた、だんまりかよ。ったく。……家はどこだ? 送って行ってやる」
男は面倒そうに頭を掻きながら問いかけてきた。
ここで、ほんのわずかだけだが、内心ほっと息をついた。もともとそこまで上等な服ではなかったが、窓から飛び降りたり走ったり壁を登ったりしたおかげで、服はすっかり薄汚れていた。白いスカートには、いたるところに泥がついている。それが幸いしたのか、彼は近くの村娘かなにかだと勘違いしてくれたらしい。
だが、イーディスは顔をうつむかせた。
「帰る家は、ありません」
孤児院もない、アキレスもいない。
城はとうに追い出され、背後にそびえる屋敷を家だと認めたくない。
だからといって、行くあてがあるわけでもない。ここでようやく「これから、どうしたらいいのだろう?」という不安が鎌首をもたげた。
この屋敷から逃げ出したら、もう自分を縛る枷はない。
その代わり、イーディスには生きていく希望もない。かといって、自分を蔑んだ元仲間(仮)に復讐なんてことをするのも馬鹿馬鹿しかった。
ならば、自分は――いったいこれから何をすればいいのだろうか?
「私……あの……これから、このあたりで暮らさないといけなくて、でも……」
イーディスは、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。
なに馬鹿正直に言ってるのだ、と内心、驚愕する自分がいたが、震える口からは真実が零れてしまう。それを抑えようとしたが、焦る思考に代わりの言葉を見つけさせるのは至難の業であった。
「……戻れないし、でも、行く場所もなくて、その……」
「はぁ……仕方ねぇな」
言い淀んでいると、男はイーディスの腕をつかんだ。
屋敷に連れ戻す気だ、と直感した。
イーディスの顔から血の気が引いていく。相当強い力で捕まれているせいか、防御魔術やらなにやらを準備する余裕はなく、自分の独力で離すのは至難の業だ。しかも、ただの人間の手なのに、まるで鉄枷でもはめられているかのように頑丈だ。びくともしない。
「――ッ、離してください」
「離すかよ」
イーディスは顔を歪める。
魔王討伐の旅に出る前なら為す術もなく引きずられていただろう。だが、いまの自分は違う。先ほどは突然の魔族の襲来だと怯え、すぐに攻撃に転ずることができなかったが、いまは違う。今度は殺すまでいかない。脱出の方法を考えるだけだ。イーディスは混乱する頭に鞭を打ち、この場を脱する方法を構築し始めた。
まず目くらましの魔法を唱え、そのあとに――と思考を回していると、それを遮るように、男が言葉をかけてきた。
「つまりさ、どこかに連れていけってことだろ?」
「……え?」
「そうなんだろ? いいぜ、オレもここに戻りたくなかったところだ」
彼は一方的に言い放つと、さらに引っ張っていく。
「家出だか死に場所を求めだか、なんだか事情は知らねぇけどさ。面白いもんを見て、美味いものを食べれば妙な気は収まるさ」
この言葉で、一瞬、脳内がリセットされてしまった。
この男は、いったい何を言っているのか。イーディスにはさっぱり理解できなかった。
「いいな!」
「は、はい!」
ところが、凶悪顔に詰め寄られれば、流されるままに頷いてしまう。
「そうと分かれば、さっさと市に行くぞ。おい、苦手な飯はあるか?」
「いいえ、とくに……」
男はイーディスの腕をつかんだまま、どこかへ歩き始めた。腕がつかまれたままなので、必然的についていくしかない。
「あの、どこへ行くんですか?」
「だから、市だよ、市。ここの麓の市だ。飯屋といえば、ここらじゃあそこしかないからな」
そう言いながら、男はまっすぐ歩き続ける。
この魔族似の男は、いったいなにを考えているのか。イーディスには、まったくもって理解できなかった。ただ、直観的に悪い人間ではないと感じる。少なくとも、一緒に旅をした仲間たちより自分のことを考えてくれている気がした。
たとえば、それは歩く速度。
イーディスたちが歩いているのは、ほとんど舗装がされていない獣道だ。木の根は剥きだしで、意識していないと足が捕らわれそうになる。魔王討伐の旅でも、こんな道を山ほど歩いたが、なかなか慣れるものではない。なにせ、前を行く一行の歩調が速すぎた。彼らに追いつこうと気が急ぎ、いつも転んだり、躓いたりしてしまっていた。
その度に蔑む視線と共に、こんなことを言われる。
『こんな道で転ぶなんて、やはりお前は聖女の器ではないんじゃないの?』
と。
しかし、この男は違う。
最初こそ足早に進んでいたが、イーディスが無理していることに気づいた瞬間、本当にわずかだが速度を遅めた。おかげで、イーディスは非常に歩きやすかった。見落としがちな小さな心配りだが、凶悪な顔に隠された優しさなのだろう。
「川魚にするか? それとも、肉にするか? いや、喫茶でもいいか」
彼の声色は明るく、心の底から楽しそうだった。
心なしか足取りも軽く、小旅行に出かける子どものようである。イーディスは緊張して強張っていた顔が徐々に緩んでいることに気づいた。
「そういえば、お前」
だが、こうして急に振り返ってこられると委縮してしまう。人を呪い殺せそうな赤い瞳に慣れるには、時間がかかりそうだ。
「名前、なんていうんだ?」
「……」
これは、どうするべきか。
本名を答えるか、それとも偽名を答えるべきか。男は、その間がもどかしく感じたのだろう。歩みを止めると、ぐいっと顔を目と鼻の先まで近づけてきた。ただでさえ凶悪な顔が目の前にある。それだけで卒倒しそうなのに、彼は地獄の底から出ているのではないか?と思うくらい低い声で
「名前は?」
と問いかけてくる。
これには敵わない。イーディスはあっさりと白旗を上げた。
「……イーディス、です」
「イーディス?」
すると、男の顔が奇妙に歪んだ。なにかを思い出しているような、不可解な表情だった。
「たしか、聖女の名前と同じだな。いいことあるぜ、きっと」
ぽんっと軽く頭に手を乗せる。
そのときには、先ほどまでの無邪気な表情に戻っていた。
「オレは、気軽にウォルターと呼べ。いいな、イーディス」
男は尋ねてもないのに自分の名を口にする。
陽気な表情になればなるほど、口元が歪み、その隙間から凶悪な牙が光る。ますます恐ろしい風貌だ。だが、根は悪い人ではないのかもしれない。
屋敷から出て、なにをすればいいのか。
アキレスもいない世界でどのように生きていくのか、その目途は全くつかない。
ただ――まず、今日くらいは、この魔族顔男と一緒に過ごしてもいいだろう。少なくとも、この男についていけば、市に出ることができる。市に出れば、情報が手に入る。
情報が入れば、生きていく術も見つかるかもしれない。
しかし、もしも――この男が見た目通り、凶悪狂暴で魔族のような男なら、そのときは、隙をついて魔術を繰り出し、逃げればいいだけのことだ。
イーディスは、おとなしくこの男についていくことにした。
ただ一つ、どうしても不可解な点がある。
「あの、ウォルターさん」
イーディスはウォルターの髪に目を向ける。
もし、彼には魔族の証たる「額の入れ墨」がない。だがしかし――
「その、角と耳はいったい?」
髪の隙間からは確かに小さな角があり、耳は獣のように尖っている。
あきらかに人間ではなく、しかし、人間である。イーディスは、つながれた手と角を交互に見ながら慎重に尋ねる。
しかし、ウォルターは焦った様子もなく
「気にするな、オレは人間だ」
とだけ答えた。
ところが、それっきりだった。彼はしばらく何も話そうとしなかった。