悪役令嬢の慟哭
「いったいどうして!? なにが起こったのですの!!」
クリスティーヌは悲鳴に近い叫びを上げると、手を横に薙ぎ払う。
日焼け一つしていない白い手先が壺に当たり、床に飛散したが気に留める余裕もない。
クリスティーヌは完全に気が動転していた。
「いままで、上手くいっていたのに……なぜ……」
白い頬に長い爪を立て、部屋を歩き回る。
ここ数日に起きた目まぐるしい変質を思い出すだけでも、眩暈で視界が揺れた。こうして立っているだけでも困難である。クリスティーヌは、ふらふらとよろめくような足取りでベッドに腰を掛けた。
自分や一族を破滅に追いやる聖女。
辺境に追いやった彼女が再び、この地へ戻って来てからだ。恐ろしいほどの速さで皆の様子がおかしくなった。
最初から聖女寄りな神官のエドワードはさておき、身の回りの近衛兵を始め、ついには国王であり夫のレオポルトまでもが聖女に愛の言葉を呟くようになった。
なにも前兆もなく、唐突だった。
たとえば、レオポルトは今まで何かと文句を言いながらも自分と一緒にいてくれた。それが、急にクリスティーヌに見向きもしなくなった。それにくわえ、国政に携わることもせず、ただ聖女の気を惹く一心で行動している。夜会でも、聖女への度を過ぎた好意は顕著に表れていた。最初に王妃を義務的にエスコートしたあとは、まっさきに聖女と仲睦まじそうに踊っていた。
「しかも、そのあともずっと、聖女の傍にいるなんて……」
クリスティーヌは目頭を押さえた。
いまでは、レオポルトを筆頭に旅の仲間たちすべてから末端の使用人に至るまで、すべてが聖女に熱烈な好意を抱いている。否、好意などという平凡な単語では表しきれない。もはや、彼らが聖女に向ける感情は崇拝だ。高熱に浮かされたように、聖女を慕い、崇めたてている。
これは、おかしい。
たった数日で、ここまで風潮が変わるはずがない。
もちろん、クリスティーヌはすぐに「何か原因があるはずだ」と調べようとした。
しかし、その時にはすべてが遅かった。
クリスティーヌの信用のおける侍女たちまでもが、すっかり聖女の親派に染まってしまっていたのである。クリスティーヌがいくら部下たちに
『聖女を調べなさい』
と命令しても、彼らはきょとんとした顔で首を傾げ
『聖女様に疑わしいことなど一点もありませんよ』
と言うのだ。そんなはずはないと主張すれば主張するほど、彼らはクリスティーヌを心配そうに見てくる。まるで、腫れ物に接するかのように――。
藁にもすがる気持ちで部屋の隅に置いてある「魔法」を覗き込んでみたが、ここのところ全くもって反応してくれない。
「こんな……こんな、はずじゃ……」
クリスティーヌは震える声を抑えるように、両手で顔を覆った。
まさに、現状は絶望的である。
未来で視た出来事が刻一刻と近づいてきている。
一族滅亡の悪夢が、けたけたと笑いながら歩み寄ってくる。
このままでは早晩のうちに逃げ出さなければ、一族もろとも絞首台に連れて行かれてしまう。
なにも、悪いことなどしていないのに濡れ衣を着せられてしまう。
未来で視た光景のように。
「……そうよ、いま逃げればいいのよ」
クリスティーヌの唇は微かに笑みを浮かべる。
このままでは殺されてしまう。ならば、逃げればよい。
そのために武術や魔術の腕も磨いてきた。冒険者や傭兵として生きていくことは可能である。他国に渡れば、伝手をたどって亡命することだってできる。ここで逃げ出してしまったら、家族が残されてしまい、代わりに処刑されてしまう可能性はあったが、自分の命には代えられない。クリスティーヌは自分一人さえ生きていれば、万が一、エンバス侯爵家が没落したとしても、まだやり直せる自信があった。
そうと決まれば話は早い。
クリスティーヌはクローゼットに駆け寄ると、急いで荷造りを始めた。王妃になってから買い集めた色とりどりの麗しいドレスをかき分け、身軽な旅装を引きずり出す。焦る気持ちを抑え込みながら、一つ一つ手早く支度をしていくのだが、なかなか思うように進まない。
そもそも、魔王討伐の旅に出立するときは使用人に荷造りを任せていた。
しかし、今回はクリスティーヌ一人で行わなければならない。
なにせ、侍女を筆頭に使用人のほぼすべてが敵に回ったといっても過言ではないのだ。こんなときに荷造りをしているのがバレた暁には、どのような疑いをかけられるか分かったものではない。
そう、それなのに――
「クリスティーヌ様」
遠慮がちに戸を叩く音がした後、蚊のような声が聞こえてきた。
非常に聞き覚えがあり、いま最も聞きたくない声に身体が震える。クリスティーヌは一瞬、居留守を使うべきかと考えたが、王妃としての矜持がその思考を拒んだ。
尋ねてきたものが、たとえこちらに悪意を持っていたとしても、一度は門を開くべきだ。
「そうよ、心苦しいことなんて……1度もしていないのだから」
クリスティーヌは自分に言い聞かせるように呟いた。
荷造りが中途半端な鞄とドレスをクローゼットに押し込むと、クリスティーヌはさも何事もなかったかのように来客の方へ言葉をかけた。
「どうぞ、お入りになって」
「……失礼します」
来客の少女は、どこかおっかなびっくりな足取りで入って来た。
「あの……こんな夜遅くにすみません。神官様に、この部屋を教えていただきました」
「まあ、エドワードが……それで、聖女様。どのような御用件でしょう? 明日の昼間ではいけない用件なのでしょうか?」
クリスティーヌは恐怖で震える心を抑え込みながら、なるべくいつも通りに接した。
「……実は、最近……おかしなことばかり続くものでして……部屋に鍵をかけてもよろしいですか?」
「ええ、かまいませんよ。それで、おかしなこととは?」
「クリスティーヌ様は変だと思いませんか?」
「変?」
「はい。レオポルト様を始めとした方々が皆、私に異様なほど好意を寄せてきているのです」
クリスティーヌが平静を取り戻すまでに、瞬き二回分ほどかかってしまった。
「異様な好意?」
「ええ、つい先日まではクリスティーヌ様にべっとりで離れなかった王様たちが、そろいもそろって私の所に来るのです。私には彼らが惹かれるような魅力もなにもないのに」
「……」
クリスティーヌは黙り込んだ。
黙ったまま、目の前の少女を凝視する。これまで伊達に王妃を務めてきたわけではない。クリスティーヌは、それなりに真偽の判別をつけることができるようになってきていた。
少なくとも、いま少女が語った言葉に嘘偽りは感じられない。少し震えがちな声色からも心の底から現状で起きていることを異様だと判断し、その出来事に忌避感を抱いているのが分かる。
「つまり、この現状は貴方のせいではないのですね?」
「はい。……たぶん」
少女の曖昧な回答に不安を覚えたが、クリスティーヌは少しだけ胸を落とした。
少なくとも、現時点で彼女は自分に敵対する気はないらしい。それだけでなく、今の現状に不満を抱き、元の状態に戻したいと考えている。これは、未来に視た光景から離れているのでは?と思った。
「わかりました。私も対策を取りましょう。なにかあったときに力を貸していただけますか?」
「ありがとうございます!」
少女は嬉しそうに微笑んだ。
それは、つぼみが花開くような微笑みだった。銀色の髪を揺らし、心底嬉しそうに微笑む姿は――本当に聖女の名にふさわしい。薄汚い孤児時代を知っている身からすれば、とても意外な姿であった。
「それで、一つ確かめたいことが――」
聖女が何かを話そうとしたときだった。
とんとん、と再び扉がノックされる音が聞こえてきたのである。
「あら、なにかしら? 誰です?」
「騎士団長のランス・ブラックだ」
「まあ、ランス! どうしたの?」
クリスティーヌは扉に駆け寄り、ドアノブに手をかけた。
騎士団長のランス・ブラックは魔王討伐の旅をした仲間だ。婚約を破棄してからは妙に俯きがちになっていたが、最近は聖女に熱を上げていた。
だが、もしかしたら熱が冷めているのではないか。そんな淡い期待を抱いて、クリスティーヌは扉の鍵に手を伸ばす。
「ランス……それに、これって……まさか! クリスティーヌ様! 待ってください!!」
聖女の悲鳴に近い叫びは遅かった。
クリスティーヌは鍵を外してしまった後であった。
鍵が外れると、待っていたとばかりに騎士たちが部屋になだれ込んできた。
あっという間に少女たちに割って入る。クリスティーヌは何事かと目を白黒させていると、ランスが剣を引き抜いた。
銀色に輝く剣先をクリスティーヌの細い首元に向けると、彼は高らかに叫んだ。
「クリスティーヌ・エンバス。お前には聖女を邪険に扱った嫌疑がかかってる。おとなしく、同行してもらおうか」