3話
「では、聖女様。ごゆっくりお過ごしください」
侍女が退出した途端、イーディスはベッドに倒れ込んだ。
「うわー、ふかふかだ」
いままでの二段ベッドとは雲泥の差だ。いままでは身体を硬くさせ、ミイラのような体勢で寝ないといけなかったが、こちらは思いっきり手や足を伸ばしても、まったく問題ない。これなら寝返りを打っても、よほどのことがない限り転がり落ちる心配はなさそうだ。
おまけに、この柔らかさ。イーディスは掛け布団に頬をつけ、はぁと感嘆の声を漏らした。
「雲の上で寝てるみたい……」
しばらく柔らかさを堪能したあと、横になったまま部屋の内装に目を向けた。
「王太子たちの反応からして、ろくでもない部屋に通されるのかと思ったけど」
さすが、孤児でも聖女。
ベッド一つとっても豪華だが、衣装ダンスや椅子、部屋の取っ手に至るまで、そのすべてが今まで見たどの品よりも高級品だと分かる。学がなくても、孤児院の神官長が使っていた机よりも凝っているのが一目瞭然だ。その机の上に漠然と置かれた古びたじょうろは、違和感あり過ぎで吹き出しそうになる。
しかも、初めての一人部屋が、いままで暮らしていた六人一室の大部屋と同じくらい広い。これはもう、破格の待遇に違いない。
本来の自分には、完全に縁のない空間である。
「アキレスに自慢話ができるなー」
瞼を閉じると、弟の寂しげな姿が浮かんでくる。
イーディスは、少しだけ申し訳ない気持ちになった。
「大丈夫かな、泣いてないかな」
きっと、自分が姿を消した理由は聞いているだろう。おそらく、「姉が聖女になった」なんて聞いた日には「もう、お姉ちゃんと会えないの?」と泣き、「お姉ちゃん、怪我しないかな? 大丈夫かな?」とか、おろおろ心配するに違いない。なにせ、この間、ちょっと指を切っただけで、さあっとアキレスの顔から血の気が引き、完全に血が止まるまで、涙を流し続けていた。
アキレスは可愛くて仕方ない。
イーディスの、たった一人の弟である。
アーネスト孤児院は小さく、孤児たちが疑似家族のように身を寄せ合って暮らしている。だが、実の弟は別格だ。親が死に、乳飲み子の弟と共に孤児院に引き取られてから、ずっと身を寄せ合って暮らしてきた。いわば、自分の半身である。
だが、アキレスの方が遥かに線が細い。細やかな手作業は目を見張るほど上手だが、とても身体が弱く、体力がない。ちょっと走っただけで咳き込み、熱を出してしまう。こんな弱弱しい存在、絶対に一人では生きていけないだろう。
「アキレス、大丈夫かな」
イーディスは、少しだけ身体を丸めた。
泣いていないだろうか、怖がっていないだろうか、ちゃんと一人で寝ているだろうか。
不安が泡のように、次から次へと浮かび上がってくる。
保護者といえば孤児院の神官だったが、アキレスの保護者といえば自分である。
アキレスが年上の子にいじめられ泣いていたときは、どんなに強い相手でも立ち向かった。……そのあと、ぼこぼこに殴られたが。アキレスがおなかをすかしていたときは、こっそりパンを盗んだこともあった。あとでパンくずが見つかり、詰め寄られたが。
たった一人の大切な、本当の家族。
彼を護るためなら、たとえ魔王にだって立ち向かえる。
「……ちょっと怖いけど、なんとかなるはずよ」
祈るように拳をぎゅっと握りしめる。
王は自分の経歴を考慮し、仲間をつけてくれると言っていた。
あの王のことだから、しっかり事情を理解した人をつけてくれるはずだ。
魔王と戦うのは怖いけど、仲間がいるから安心だ、といえるような人を。
「だって、私は聖女。私が魔王に挑まないと……」
きっと、弟や孤児院のみんなが辛い思いをする。
イーディスの瞼の裏に、弟の笑顔や孤児院での思い出が浮かび上がる。
「足手まといにならないように、明日から頑張ろう」
イーディスは魔王に立ち向かう覚悟を決め、眠りについた。
――はずだった。
しかし、現実は非情であった。
たしかに、王は実戦や能力に秀でた者を仲間として紹介してくれた。
超美形の騎士、軽い調子の傭兵、無口な魔術師、イーディスを拉致同然に連れてきた神官、そして、レオポルト王太子とクリスティーヌ・エンバス侯爵令嬢。
誰もが年若く、この国の未来を背負っていくにふさわしい優秀な人たちだ。
『出立まで一週間ある。それまで、少しでも聖女らしくなるように、こいつらが鍛え上げる。ありがたく思え』
レオポルトが苦虫を潰したような顔で言い放ったときから、どこか嫌な予感はしたが、それは見事的中した。
彼ら曰く「少しでも聖女らしくなるための特訓」は容赦なさ過ぎて、正直辛かった。
毎日、朝から剣でボコボコにされ、魔族に対する実践的な知識を叩きこまれ、魔力が尽きるまで魔法を撃たされる。夜は夜で、国の歴史やら読み書き計算をさせられ、「少しでも聖女らしくなるように」寝る時間を削っての特訓が続いた。
その程度は、まだ予想の範囲内だった。
自分の出来が悪いのは最初から分かっていた。一朝一夕で出来てしまうほど要領良くできるのであれば、とっくに良い職に就き、孤児院に仕送りをしていたはずである。
それができない時点で、自分の実力はお察しレベルなのだ。
だから、イーディスは歯を食いしばって努力した。
いままでにないくらい、しがみつくように力を振り絞って特訓に挑んだ。特訓は苦しくて、寝る前に血を吐いたこともあった。せっかく与えられた綺麗な服はすぐに擦り切れ、泥まみれになった。手はチマメだらけで、身体の節々も痛い。寝ている時間だけが安らげる時間だったが、それも、ベッドに横になった瞬間、朝を迎える始末で、まったく眠った感じがしなかった。
しかし、努力は必ず報われる。
一週間たつ頃には、新米騎士に余裕で勝てるまで剣の腕が上がり、どうにか、中級魔法も一つか二つ放てるようになった。貴族の子供が知っている程度には知識類も身につき、イーディスは頑張った自分をほめてあげたかった。
だから、辛くても特訓はまだいい。
特訓自体は、まだいい方なのだ。
問題は他にある。
ここまで頑張ったのに、しっかり成果も出したのに、仲間は誰も褒めてくれないのだ。新米騎士の有望株を五人抜きしても、中級魔法で遠くの的を破壊しても、課題で満点をとっても、誰もが渋い顔をしたまま、ためいき交じりで言うのだ。
『どうして、この程度のことしかできない』
と。
『お前、聖女だろ? クリスティーヌを見習え。あいつなら、上級騎士を五十人抜きするぞ?』
『えー、この程度のことも覚えられないの? クリスティーヌは一瞬で覚えたけど?』
『君、聖女。クリスティーヌ、聖女じゃない。でも詠唱せずに、的、破壊できる』
『はぁ……クリスティーヌは、とっくの昔に暗記している内容なのに。どうして、聖女ができないんですか?』
『くだらん。いちいち何故、と聞くな。クリスティーヌなら考えるまでもなく、すでに熟知している内容だぞ?』
誰もが口をそろえて言うのだ。
クリスティーヌ・エンバスの方が優れている、と。
少し技や知識が上達しても、彼らが口に出すのは、クリスティーヌ・クリスティーヌ・クリスティーヌ。
騎士も傭兵も魔術師も神官も、そして王太子も、全員が全員、同じことを考えている。クリスティーヌほど賢く強く美しく、聖女にふさわしい女性はいない、と。
もちろん、それは事実である。否定はしない。
クリスティーヌ・エンバス侯爵令嬢ほど聖女にふさわしい女性はいないだろう。
剣をとれば騎士団長クラス、上級魔法を平然と使いこなし、さらには魔族の生態や雑学もすべて納めている。行儀作法も当然のように完璧。容姿も麗しい人形の様だ。しかも、孤児のイーディスを差別することなく、聖女として扱ってくれる。まさに文句なし、欠点なしの女性である。王太子の婚約者で次期王妃という地位にも納得だ。
きっと、王太子が無能でも、彼女なら良い国をつくるだろう。
……ただ、一点だけ。
少し残念というか、空気を読めない一面がある。
例えば、彼女はこんなことを聞いてくる。
『王太子様のこと、好きになりましたか?』
『私に気遣う必要はありません。私、まったく気にしておりませんから』
こんな質問を、それも王太子の見ている目の前で聞いてくるのである。
イーディスは、そのたびに返答に困る。
王太子のことなど好きでも嫌いでもない。むしろ、嫌いだった。常に孤児として汚い物扱いしてくる上に、会うたびに罵詈雑言に近い言葉を浴びせてくる。それなのに、どうして好きになれというのだろうか。イーディスには彼女の考えがまったく理解できなかった。
それは、旅に出てからも変わらない。
むしろ、一層ひどくなった。
なにせ、彼らは騎士と傭兵を除き、王都育ちの箱入りばかりだ。
慣れない野宿で機嫌を悪くし、野外の粗末な食事に不満を零し、魔族の戦闘に次ぐ戦闘による疲労がたまり、常に気が立っていた。
その矛先がどこに行くのか。
当然、イーディスだった。
なにかにつけて悪口を言われた。「特訓」という名の暴力も受けた。もちろん、イーディスだってイライラしていた。粗末な食事に文句はない。孤児院の食事と大して変わらなかった。だが、吹きっさらしの場所で寝るのは落ち着かず、常に足手まといで役に立った戦闘など滅多にない。仲間の窮地を救う働きをしたところで褒められることなく、常に称賛はクリスティーヌのみに向けられていた。
クリスティーヌは誰よりも活躍していた。一番の功労者は間違いなく彼女であろう。
しかし、なんとなく釈然としない。
たまに、クリスティーヌも失敗する。食事のことや野宿の辛さを零す。イーディスが同じことをポロリと口にしようものなら「贅沢言うな」「旅を舐めているのか」と罵られるのに、「大丈夫か、クリスティーヌ?」と誰もが一斉に心配する。
きっと、彼らがクリスティーヌに向ける気持ちは、イーディスがアキレスに向ける感情に近い――いや、それ以上に強い好意・恋慕の情なのだろう。
ところが、これがあまりにも妄信過ぎる。
クリスティーヌが下級魔族を倒しても褒め、彼女の担当した料理が失敗しても褒め、山賊を「見苦しいから」という理由で皆殺しにしたことも褒め、貧しい農民に挨拶をしたことを褒め、苦手な野菜を物乞いに渡したことも褒め、とにかく褒め尽す。
イーディスも弟を褒めることはあったが、間違ったことは駄目だと叱る。
それが原因で喧嘩になったこともあったが、数日以内に仲直りしていた。
彼らには、それがない。
ただクリスティーヌを賛美するだけだ。
正直、気持ち悪くてたまらない。
そのうえ、クリスティーヌは異性から向けられる好意に無頓着だ。
『みなさん優しいから、なにか悩んでいることがあれば相談した方がいいですわ』
と、イーディスに向かって言う。
彼らが優しいのはクリスティーヌ限定、ということに気づかないまま。
「私、なんのためにいるんだろう」
クリスティーヌが魔王を一撃で倒す姿を見て、イーディスは小さく呟いた。
魔王城に入ってから自分がしたことは、剣を構え、クリスティーヌたちの後ろを歩いていただけである。途中、彼らが器用に避けた罠にはまり、文句を言われながら助けられた。むしろ、足手まといであった。
「貴様……覚えておけ。次に会ったときは、必ず……」
魔王は黒い塵となり消えていく。
情けない去り言葉を残して。
「やりましたね、クリスティーヌ!」
「さすが、俺の伴侶だ」
仲間――クリスティーヌ親衛隊は彼女の周りに集まり、やはり賛美の言葉を繰り返す。
対して、イーディスは感慨もなにもなかった。
ただ脱力感だけがあった。
「これで、アキレスのところに帰れるんだ」
孤児院を出て、そろそろ一年。
アキレスは元気にしているだろうか。
孤児院に帰りたい。
早く大切な弟と会いたい。弟の無事を確かめ、各地で見てきた面白い物や出来事をたくさん話して聞かせてあげるのだ。
孤児院は王家からの援助で経営は立て直しているはずであり、聖女として培ったノウハウを生かして働くこともできる。アキレスにもっと楽な暮らしをさせてあげられるし、よい病院を紹介することだってできる。もしかしたら、病弱な身体を治すことができるかもしれない。
「会いたいな、アキレス」
心優しい彼だから、包帯塗れの姉を配するだろう。
だが、もう大丈夫だ。これからは、ずっと一緒に暮らせる。
イーディスは歓声を遠くで聞きながら、命より大事な弟を想う。
ようやく、旅が終わったのだ――。
こうして、イーディス・ワーグナーの聖女としての仕事が終わる。
イーディスはクリスティーヌ親衛隊とともに半年かけて王都に戻り、式典や凱旋パレードの端の端に参加し、すべての仕事が終わったとき、さっそく孤児院に戻る準備をした。
しかし、城を出る直前、レオポルト王太子が発した言葉は到底信じられない言葉だった。
「孤児院? ああ、あそこなら、半年前に火災で閉鎖された」
「へい、さ?」
意味が分からない。
イーディスはあまりの衝撃に、荷物を落とした。
レオポルトは玉座に腰を掛けながら、面倒くさそうに言い放った。
「火災だ。火災。半年前くらいに、火災があったらしい」
「そんな……アキレス、弟は!? 私の弟は無事なんですか!?」
「はぁ、ちょっと待て」
レオポルトは退屈そうに資料をめくる。
その緩慢な動きが、どうにも気持ちを逆なでする。いいからさっさと教えろ!と首根っこをつかんでやりたい。だが、それをしたら「反逆罪」で捕らえられてしまう。包帯で巻かれた腕を強く握りしめながら、レオポルトの返答をまだか、まだかと待つ。
そしてようやく、レオポルトは資料からつまらなそうに顔を上げた。
「全員、焼け死んだそうだ。
つまり、お前に帰る場所はない。まったく、面倒くさいことになった。孤児とはいえ聖女。こちらで、それなりの待遇を用意しなければならなくなった。なんてこんな忙しい時に、手間のかかる聖女なんだ。クリスティーヌなら――」
その言葉を最後まで聞き遂げることはできなかった。
イーディスの世界が暗転する。
あの王が生きていたら……。
せめて墓を作り、供養してもらえただろう。
しかし、ちょうど同じころ――王も命を落としていた。だから、レオポルトは戴冠式に向けて慌ただしい。そのような最中、わざわざ自分に時間を割いてもらえたこと自体、奇跡に近い。
魔王は倒したが、王の不在で混乱した国には――火事で焼けたちっぽけな孤児院を供養する余裕などあるわけがなかった。
イーディスは城の一室を与えられ、ただ眠るだけの日々を送る。
侍女も最低限の働きしかしない。尋ねてくる客などいない。仲間たちすら尋ねてこない。どうせ、忙しく働くか、クリスティーヌに愛の言葉をささやくかのどちらかに精を出しているのだろう。
「私、その程度の価値だったんだ」
一年の旅は意味がなく、存在価値すらない。
一緒にいれば絆が育まれる、なんてことは起きず、むしろ大切な家と弟を失った。
もう自分には、なにも残されていない。
そして、すべてが終わったら、お払い箱。
そんな日々を過ごすこと三日、イーディスの処遇が決まった。
ピルスナー辺境伯の三番目の正妻になること。
それは、王国で「一番の色狂い」「人食い伯爵」と噂される田舎貴族との婚姻だった。
次話は16日16時投稿予定です。