48話
イーディスは身体を起こすと、ゆっくり周囲を見渡した。
神の祈りや神話の再現を彫刻された壁、しみ一つない白くて高い天井、色彩豊かなステンドグラスを嵌めた窓からは、柔らかい午後の光が差し込んでいる。
足元に視線を向ければ、磨き抜かれた大理石の床が広がっている。ちょうど、自分が横になっている辺りには、白石で幾何学模様が組み合わさったような陣が描かれていた。
なんとなく見覚えのある場所だが、あまり思い出すことができない。イーディスが頭を悩ませていると、エドワードがどこか呆れたように息を吐いた。
「覚えていないのですか? ここは、王都の本神殿ですよ」
「本神殿……あっ!」
イーディスは、改めて辺りを見渡した。確かに、王から聖女の首飾りを受け取った場所と似ている気がする。あの時は、このような陣は描かれていなかったが、それ以外は記憶と相違がない。
「でも、どうして? 私、オークバレーにいたんじゃないんですか?」
「だから、さっき言っただろ。お前が魔族に身体を乗っ取られているとき『王都に行きたい』と言ったって。だがよ――」
「夢催眠の術を執り行える場所は、この国にあまりないのですよ」
ウォルターは髪をかきながら呟くと、その後の言葉をエドワードが引き継いで話し始めた。
「そもそも個人の深層意識に他人を送り込むなんて大規模神聖術です。とてもではありませんが、オークバレーの安っぽい設備ではできませんよ。ですので、わざと王都に行きたいという誘いに乗り、やっとの思いで貴方を本神殿に誘い込んだのです。……貴方が本神殿に着く直前に意識を消失したので、術の手続きをしやすくて幸運でしたよ。そうでなければ、ここで一戦闘設けなければならなかったですからね」
「そう、なんですか」
どうやら、ここに来るまでの間にかなりの苦労があったらしい。
その全容を聞いているだけで一晩はかかってしまいそうだ。それにしても――イーディスは少し瞼を伏せた。聖女として完璧に振る舞っていた偽物のイーディスを見破り、元に戻すために王都に来て対策を講じてくれた。自分一人ではあの迷宮を攻略できなかっただろうし、記憶を取り戻すことができなかっただろう。
そう思うと、心の中に温かい感情が膨らんだ。
「あの……ウォルターさん、神官様。助けてくれて、ありがとうございました」
イーディスは立ち上がると、2人に頭を下げた。
きっと、一緒にいたのがクリスティーヌたち旅の仲間(仮)だけだったら、こうはならず、永遠と迷宮の夢に囚われていただろうし、また深層へ落とされていたかもしれない。
「礼には及ばねぇよ」
「ええ、仕事ですから。聖女が魔族に操られていたなんて……露見する前に、すぐ対処しなくてはなりません」
「お前なぁ……ま、目覚めたから良かったぜ。さてと、じゃあ次の問題を対処するぞ」
「……次の問題?」
イーディスは首を傾げた。
「まだ何か問題があるんですか?」
「いやな、王都にお前を連れてくるときによ、『いきなり大軍勢を引き連れて攻め込んでも、クリスティーヌの首が取れるわけないだろ。まずは敵情視察をするべきだ』って言いくるめて連れてきたんだよ」
ウォルターが言いにくそうに話し始めた。
確かに、夢の中でウォルターが『クリスティーヌを断罪するために王都に行きたがっている』と言っていたのを思い出す。だが、それは偽物の自分であり、今の自分ではない。
正直、クリスティーヌは苦手な相手だし、お世辞にも好きとは言えない。
見返したい相手であり、越えたい目標ではあるが、断罪するほど憎たらしく思っているわけでもなかった。
そのことは、ウォルターたちも重々承知しているはずである。イーディスが元に戻った以上、彼女と正面切って敵対する理由はない。
「えっと、普通に敵情視察を終えて、領地に戻ったことにすればいいですよね? 別に、敵情視察に来たことを言いまわしているわけではなかったんですよね?」
「そりゃそうだ。そんなこと言うわけないだろ。ただ、なあ……」
ウォルターは、まるで適切な言葉を探しているように言い淀んだ。
「憑かれているときのお前がな、あまりにも聖女らしくてよ……それで、なんだ。簡単に言うとだな、陛下が――」
「イーディスはここにいるか!?」
入口の大扉が乱暴に開け放たれた。いったい誰だろうか、と確認する前に、ウォルターが数歩足を動かした。イーディスの視界いっぱいにウォルターの大きな背中が広がっている。そのせいで乱入者が誰なのか見えない。
「おい、エドワード! ピルスナー辺境伯! こんなところに、イーディスを連れ込んでなにをやってたんだ!?」
「なにもやってねぇですよ。本神殿の見学中です」
「見学? 本当か?」
乱入者は疑うような声で尋ねてくる。非常に聞き覚えのある声だが、言葉の節々がどこかおかしい。おっかなびっくり、そっとウォルターの背中から顔をのぞかせ乱入者を見上げてみた。
透き通るような金髪。
美術品のように整えられた顔立ち――が、少し高慢そうに歪んでいる。
「……ピルスナー、お前はイーディスと婚姻の手続きを完全に済ませていないのだろ? だったら、彼女を縛り付ける筋合いはない」
年若き国王であり、クリスティーヌの夫、レオポルトだった。
「ふん、イーディスは心優しいからな。貴様の誘いを断れなかったのだろうが、この時間、彼女は私と茶を飲む約束をしていたのだぞ? さっさと引き渡して貰おうか」
「だ、そうだ。……イーディス、こいつとした約束は覚えてるか?」
「いいえ、まったく」
イーディスは即答した。
自分から進んでレオポルトと茶を飲むなど、天地がひっくり返ってもありえない。
彼こそ魔王討伐の旅中、自分をいじめてきた筆頭だ。最初から嫌われ、旅前の修業期間中もクリスティーヌと比較され皮肉を言われ続け、旅中も役立たずだと怒鳴られ暴力を振るわれた。
こんな相手、誰が好んで仲良くしようと思うのか。
「ふん、ピルスナーに言わされているのだろうよ。さあ、こちらに来い」
「いや、私なんかよりも、その……クリスティーヌ様と茶を飲まれた方が十分充実した時間を過ごせると思いますよ?」
「クリスティーヌ? いや、あんな高慢女より、お前と一緒にいた方が落ち着く」
「………………え?」
イーディスは固まってしまった。
記憶が正しければ、レオポルトはクリスティーヌに恋慕の情を抱いていた。クリスティーヌからはまったく相手にされていなかったが、旅が始まる前から――そして、旅が終わって王に就任した後も、ずっと彼女を愛していた。だいたい、魔王討伐の旅中「クリスティーヌがイーディスばかりに構っているから」というのが、彼からいじめられていた理由の一つである。
そこまで熱心に愛していた相手ではなく、心底嫌っていた相手と茶を飲んだ方が落ち着く?
しかも、レオポルトは既婚者で、イーディスもピルスナー辺境伯の正妻だ。
一歩間違えれば、不倫スキャンダルになって王位を失いかねない言動である。
「レオポルト様……最近、頭をお打ちになりましたか?」
「いや、ないな。だから、早く来い」
レオポルトの腕が伸びてくる。イーディスは思わず、ウォルターの腕にしがみついた。
「あ、あの、お気持ちはありがたいのですが、いまは彼と一緒に本神殿をゆっくり見学したい気分なのです。ふ、夫婦水入らず、で!」
イーディスは顔を真っ赤に赤らめながら、王の申し出を拒否した。
正直、王とはいえ、頭が完全に錯乱している相手と茶を飲めるほど豪胆ではない。しかも、おそらくその場にはウォルターもエドワードもいない。味方はいない孤立状態だ。そんな茶会、大金を積まれてもお断りする。
「ま、また今度……飲みますから、今日は許してくれませんか?」
「……しかたない。では、明日の朝、出直すことにしよう。支度をして待っているといい。
だが、ピルスナー。お前が彼女を正当に扱っていないならば、ただちに王命で婚約を破棄させるからな!」
レオポルトはそう叫ぶと、マントを翻しながら去って行った。
まるで、嵐が過ぎ去った後のようである。神殿の見た目は何も変わっていないのに、心はどっと疲労で落ち込んでいた。
「その……ウォルターさん、ごめんなさい。申し出を断るときの理由に使ってしまって……」
「いや、ああでも言わねぇと引き下がんなかっただろうさ。……で、分かったか、なにが起きてるのか」
「いいえ。でも、あれって本当にレオポルト様、なんでしょうか?」
イーディスはレオポルトが去っていた方向を見ながら、おそるおそる尋ねた。
どう考えても、記憶の中の彼と相違があり過ぎる。操られている間に、彼を思いっきり見返して惚れさせるような一大事があったのだろうか。
「……お前の作った焼き菓子を食べてからああなった」
ウォルターの説明するところによると、王都についた直後、憑かれた状態のイーディスが王に謁見をしに行ったらしい。そのとき、「手作りの焼き菓子」なるものを手渡し、その場で食べさせたそうだ。
「止めなかったんですか?」
「……あのときは普通の焼き菓子だと思ったんだよ。ハンナも一緒に作っていたから、妙なものは盛れないって考えてたんだ」
「それで、その焼き菓子を食べた者全員がクリスティーヌではなく、聖女に熱烈な好意を向けるようになったのですよ」
エドワードは心底呆れ果てたような声色で言葉を続けた。
「第一、ピルスナーは甘いんですよ。もっと厳しく監視しておけば、このようなことにはならなかったのですからね」
「うっ、いつまでも過ぎたことを言うんじゃねぇよ。
それで、イーディス。あいつらも魔族に憑かれてるのか? 魔族は黒いもやもやっとした霧が見えるんだろ?」
イーディスはウォルターの問いを受け、改めて再会したレオポルトを思い出した。
だが、見た目に変わりはなかった。エドワードが憑かれていた時のように、薄ぼんやりと黒い靄が出たり入ったりすることもなかったし、夜会に集った人たちみたいに常に黒い靄を肩に背負っているわけでもない。どこまでみても、いつも通りの完璧な美少年であった。
イーディスが黙って首を横に振ると、ウォルターは面倒くさそうに
「ってことは、惚れ薬の類か」
と呟いた。彼は頭をくしゃくしゃ掻きながら、小さく舌打ちをする。
「解毒薬が見つからねぇ以上、そのまま放置しておくしかねぇか」
「それよりも、問題は『どうして魔族が王たちに薬を盛ったのか』です。メリットとデメリットを考えなくては」
「そこなんだよな」
エドワードとウォルターは額を合わせるように考え込む。
イーディスもその輪に加わろうと思考を巡らせ始め――ふと、あることに気づいた。
「あの、すみません。1つ質問良いですか?
さっきから『食べた者全員』とか『王たち』とか言ってましたけど、その、まさか変になったのはレオポルト様だけじゃないってことでしょうか?」
イーディスはおそるおそる手を挙げて尋ねてみる。
ただの勘違いであって欲しい。言い間違えや聞き間違え、言葉のあやであって欲しい。そのような想いを切に込めて聞いてみる。
イーディスの質問を聞くと、ウォルターは疲れたように額に手を置き、エドワードはこれ以上ない笑顔を向けてきた。
「いいところに気付きましたね、聖女。そのまさかですよ」
「ですよねー! そんなわけ……え?」
「レオポルトを始め僕とクリスティーヌ以外の魔王討伐に出た者、城内の使用人の半数近くが同じ現象にかかっています。イーディスから直接、渡したのは王だけですので、他の者たちにどうやって摂取させたのかは調査中です」
「なに、それ?」
イーディスはへなへなと座り込んでしまった。
せっかく辛い思いをして迷宮の抜け、夢から覚めたというのに。
まだまだ平穏の日々とは程遠そうだ。
第5章はこれでおしまいです。次回から第6章に入ります。なかなか更新できず、すみません!
これからも、よろしくお願いします!




