47話
「つま?」
イーディスは首を傾けた。
ウォルターの言った言葉が、瞬時に頭の中で変換できない。いくつか言葉が脳裏に現れ、いくつかの変換を促す。そして、ようやく数歩進んだときに腑に落ちる言葉に収まった。
「つまって妻ですか!?」
「名義上って言っただろ。あー、つまりだな。政略結婚って奴だよ。
それに、夫婦ってより、どちらかというと剣の師弟関係って方が近い。夫婦らしいことは一切しなかったから安心しろ」
ウォルターは言い訳でもするかのように、聞いてもないのに説明を重ねた。どこか焦ったように言葉を重ねているが、イーディス自身もかなり動揺していた。ついさっき初めて出会った人物が、いきなり自分の夫だったなんて信じられるわけがない。
ただ、どこか落ち着いて納得している自分もいた。
イーディスは握られた手を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
偽物アキレスに囚われていた時、欲しかった武骨で温かな掌――それは、まさしく彼の掌だった。
孤児院で生活していた時は、まさか自分が結婚するなんて思わなかったし、アキレス以外の誰かの手を取るなんて考えたこともなかった。たった半年余りでここまで自分の心境が変化するなんて、と感じると、イーディスは顔に熱が集まってくるのを感じた。どこか無性に恥ずかしい。
「どうした?」
「い、いえ。あの、ここが夢というわりには見たことある場所だなって思いまして」
イーディスは急いで話題を逸らした。
まだこの気持ちを言葉にするの早い気がするし、記憶をすべて思い出してから口にした方がいい。
「ただの石造りの迷宮じゃないのか? やけに辛気臭い場所だが」
「いや、なんとなく魔王城に似てるんです。作りとか、雰囲気とか」
「魔王城か……これをしかけた魔族が似せて空間を作っているのかもな」
ウォルターは考え込むように眉をしかめた。
「いや、オレが入ってきた場所を探しているが、この迷宮……刻一刻と道が変わってる。よほど、お前を逃がしたくないらしいな」
「でも、私なんて眠らせておいても何の役にも立ちませんよ」
むしろ、聖女なんて魔王に邪魔な存在だ。
早急に殺した方がいいはずだし、わざわざ意識を眠らせておく必要がどこにあるだろうか。ウォルターにそう伝えると、彼は苦笑いを浮かべた。
「だよな。正直、オレもそれを悩んでた。お前を眠らせて操って、どんな意味がある? わざわざ王都のクリスティーヌを殺すだけなら、なにも聖女に頼らなくてもいいだろ」
「クリスティーヌ様が私相手なら攻撃に躊躇すると思ったのでしょうか?」
「あの女はそんなことで躊躇うほど、やわじゃねぇよ」
たしかに、とイーディスは自嘲気味な笑みを浮かべた。
クリスティーヌなら涙を流すだろうが
『聖女様の身体を奪うなんて、卑劣な魔族だこと! 聖女様の身体ごと浄火させてあげますわ!!』
と、火炎系魔術を炸裂させるにちがいない。または、魔王を粉砕した爆発魔術だ。どちらにせよ、一撃で終わるだろう。イーディスを操る魔族も、イーディス自身の肉体も。
クリスティーヌ・エンバスとは慈愛に満ち溢れているように見えながらも、そのあたりはあっさりとこなす女である。きっと、相手がイーディスではなく王子や他の貴族たちであっても同じ行動に出るだろう。
「……1つ気になってることがあるんだが、お前はどんな夢を見てたんだ?」
「さっきまで見てた夢ですか?」
「ああ、あれは魔族が見せてた夢だ。そこに解く鍵があるかもしれないだろ。あー……そりゃ、教えたくないような夢なら話さなくていいが」
「聖女になる前、孤児院で暮らしてる夢でした」
なんの変哲もない日常の夢だ。
アキレスが偽物で魔族だったこと以外は、聖女時代に心から望んでいた日常である。
「深層心理で望んでいることを見せていたってことか?」
「それは……たぶん、違うと思います」
イーディスは首を横に振る。
これは、推測でしかないが、記憶を失う前の自分にとって、ウォルターはアキレスに匹敵するほど重要な人物になっていた。
もし、深層心理で臨んでいたことを見せているのであれば、あの世界のアキレスは本物だったはずだし、そこにウォルターが出てきても不思議ではない。夢なら孤児院に存在するはずない男がいる矛盾を感じさせずに見せることができるはずだ。
とはいえ、彼の前で「あなたが出てこなかったから」と理由を述べるのは恥ずかしいので、別の理由を考えることにする。
「登場人物がアキレスだけだったんです。
もし、孤児院での日常を夢見ていたなら、マリアやコゼットが出てくるのに。神官様たちも出てきませんでしたし……
それに、あれは……孤児院の夢を見ていたというより、孤児院の前庭にずっと閉じ込められていた、ような……」
「アキレスってお前の弟だっけ?」
「はい。なんだか、アキレスとずっと前庭で話していて……でも、時折、アキレスがいなくなる時があって、そのときは芝生の上やベンチの上で眠ってるんです。夢の中で眠るって変ですよね」
すると、ウォルターは歩く速さを緩め、少し怖い顔でこちらを見てきた。
「そのあたりの話を詳しく教えてくれないか」
「は、はい。いいですけど……」
イーディスは覚えている限り、夢の内容を話した。
アキレスと他愛のない話をしていたこと。眠らされそうになって、そのアキレスに不信感を抱いたこと。逃げたら追いかけてきて、剣を持って応戦してきたこと――。
「……まさか、な」
すべてを聞き終えると、ウォルターは小さく呟いた。
「どうしたんですか?」
「いや……とっくにお前の弟は死んでいる。大方、お前を眠らせておきたい魔族が、その記憶を読み取って――」
イーディスは足を止めてしまった。
ウォルターの声が聞き取れない。しっかり聞いて推理しないといけないのに、頭が情報の受け入れを拒否していた。
彼は、いま何と言ったのだろう?
「……イーディス?」
イーディスが黙り込んでいると、優しい言葉がかけられた。いつのまにか、顔を伏せてしまっていたのだろう。その声に顔を上げると、ウォルターが心配そうな顔をしていた。
「どうしたんだ、イーディス?」
こんな顔を見たことがある。
ついさっきまで見ていた夢の中で、アキレスも似たような顔をしていた。イーディスが違和感に考え込んでいるとき、不安そうに顔を覗き込んできていたのだ。
あれは……本当に夢だったのだろうか。
「嘘、言わないでください」
やっとの思いで口に出たのは、それだけだった。
「アキレスは生きてますよ。だって、さっきまで私――」
「だから、あれは夢だ。偽物だってお前も言ってたじゃないか。
そもそも、本当のアキレスはお前が旅に出てから半年後に焼死したって……あ、まさか、おまえ、そこの記憶が……」
途端、ウォルターは自分の失言に気づいたのだろう。一気に顔色が曇る。
しかし、もう遅かった。
アキレスは、死んだ。
焼死した。
あの夢で会った本物そっくりなアキレスが放った言葉が蘇る。
『お姉ちゃんはね、ここにいたほうが幸せなんだよ』
幻影の甘い言葉かと思っていたが、ここにきて真実味を帯びるとは思わなかった。
たしかに、偽物のアキレスが言った通りだった。
目覚めた後の世界に、アキレスはいない。イーディスが自分の命よりも大切に育ててきた最愛の家族は、もうこの世のどこを探してもいないのだ。
「私……」
心臓が早鐘を打つ。
自分だけが生きているのだと実感させるようで、その音も鼓動も煩わしい。
アキレスのいない世界で、自分はどうして生きていたのか。
彼がいる世界だから、聖女として辛い思いをしても守ろうと旅に出れた。その彼がいないなら、こんな世界に生き残っていても意味がない。
アキレスがいないなら、目覚める意味などない。
だから、もう――目覚めなくていい。
いや、目覚めないどころか――
ウォルターから一歩、後ろに距離を取る。
イーディスは、自然と剣を持ち替えていた。
鋭く輝く銀色の刃。それで一思いに首を貫けば、すぐに死ねる。本物のアキレスの所に行ける。
「おい、やめろ、イーディス!」
「ごめんね、アキレス」
いま、そっち逝くから。
しかし、剣先を首に当てるのと同時に、胸が急に熱くなった。まるで、焼けた鉄印を押し付けられているような苦痛に、思わず剣を落とす。
痛みに耐えながら下に視線を落とせば、首飾りが紫色の光を帯び始めていた。そのまま、光は洪水のように広がり、イーディス自身も飲み込んでいく。まるで、自分自身が溶けて消えていくような感覚に襲われた。
このまま、自分は消えるのだろうか。
「……いや、それでもいい」
イーディスは光の中で瞼を閉じる。
このまま消えてなくなるなら、それでもまたいい。
『いいえ、死ぬことは許されません』
声が聞こえる。
どこかで聞いたことのある、鈴が躍るような声だ。
『あなたは聖女です。魔王を消滅させるまで、その責務から逃れることはできません』
紫色の洪水の中に、夢で見た美少女の姿が浮かんだ気がした。
「責務なんて……私、そんなの望んでない! 聖女だって、やりたくてやってるわけじゃないよ! 私は、ただ――平穏で幸せに生きれれば、それでいいのに!!」
『その夢をかなえるためにも、あなたは魔王と戦いなさい』
美少女の声は相変わらず可憐だったが、とても冷たく引き離すような言葉だった。
美しくも冷酷な女神は淡々と言葉を紡ぐ。
『イーディス、あなたは私が選んだ聖女です。今代の魔王を滅する唯一の鍵なのです』
「知らない、私は魔王なんて――」
『あなたの大切な人は、弟だけだったのですか?』
冷たい言葉と同時に、頭の中にいくつもの映像が浮かび上がってくる。
元気の良い小柄な男の子、サンドイッチを恵んでくれたお姉さん、なんやかんや文句を言いながらも面倒を見てくれる神官。
そして、剣や戦い方を教えてくれた師匠であり夫。
イーディスが無意識下に大切に想っていた人々の面影が、水玉のように浮かんでは昇っていく。
「これは……」
『あなたは封印の鍵となる記憶を思い出したので、記憶の封印が解けたのです』
その言葉と共に、身体の中心に熱いものが流れ込んでくる。
『魔王を倒す一矢を授けました。使うときは……きっと、その時が来れば分かります』
さあ、現実に戻りなさい。
その言葉を聞くと、身体が腹の位置からぐんっと持ち上がるのを感じた。
女神の声が小さくなってくる。それと引き換えに、別の声が大きく聞こえてくる。
「……、イーディス!!」
聞き覚えのある声だった。
必死な声に誘われるように、イーディスは重たい瞼を開ける。そこにいたのは、ウォルターだった。背後にエドワードの不安そうな顔も見える。
「ウォルターさん? それに、神官様も?」
「悪かった、イーディス!」
イーディスは事態が呑み込めず呆然としていると、ウォルターが抱きしめてきた。その腕は力強く、とてもではないが逃げられない。
「オレが不用心だった。もう少し、お前の気持ちを汲んでいれば良かったんだ」
「ちょっ、ウォルターさん!」
「だがな、死ぬとか口が裂けても言うんじゃねぇぞ。忘れてるかもしれねぇけど、ここまでクリスティーヌたちを見返すために、ずっとずっと……お前は頑張って来たんだ。それなのに命を投げ出すなんて、絶対にオレが許さねぇからな」
耳元でウォルターは絞り出すような声で囁いてきた。
イーディスはふぅっと息を吐きだした。まさか、このタイミングで「もう記憶は戻っています」なんて言えるほど心が強くはない。
「それでも、もし……死ぬなら、オレも一緒に死んでやる。それでもいいのか?」
辺境伯がそんな都合で死んでいいわけない。
イーディスはそう言葉を返そうとしたが、ますます強く腕を回してくるので答えることができなかった。当人はその気がないのだろうが、筋肉のついた腕で首を絞められているので苦しくてたまらない。緩めて欲しい、の意を込め、彼の背中に手を回して叩いてみるが、逆効果であった。
「……はぁ……ピルスナー伯。それ以上やると、本当に聖女が死にますよ。首が絞まりかけてます」
「わ、悪い」
助け舟を出してくれたのは、先ほどまで傍観してた神官のエドワードだった。
その言葉で腕が離れ、口に空気が入ってくる。イーディスは荒い呼吸を繰り返しながらエドワードを見上げた。
「ありがとう、ござい、ます」
「礼には及びません。せっかく夢催眠の術まで使って貴方を目覚めさせたのに、ここで事故死されては困りますから」
注視してみれば、エドワードは酷く汗をかいていた。前髪は額に張り付き、心なしか肩で息をしているようにも見える。
考えてみれば、他人の魂を人の夢の中に潜り込ませるなんて、想像できないほどの力を使うはずだ。平静を装ってはいるが、かなり体力を消耗しているのではないだろうか。
「聖女様、どこか具合の悪いところはないですか? いま、首を絞められて息苦しかったこと以外で」
それでも、こちらを案じる言葉をかけてくる。
旅をしていた頃は考えられなかった言葉に少し驚きながら、イーディスは首を横に振り――1つ、浮かんだ疑問を口にした。
「それで……その、ここはどこですか?」




