46話
「そこにいたのか――」
「魔族っ!?」
そこにいたのは、人ではなかった。
荒々しい黒髪の隙間からは、小さな角がのぞいている。赤い両眼は獰猛な鷹のように鋭く、おまけに右目から頬にかけて一閃の傷が奔っている。なによりも、そこらの男と比べ物にならないくらい頑丈な巨体――。対峙しているだけで足がすくんでしまう。
やっぱり、ここは魔王城だったのだ。
イーディスは小さく震えた。クリスティーヌが魔王を倒したと思ったのは幻覚の魔術だったのかもしれない。だとしたら、自分は不意打ちを付かれて魔王につかまってしまったのだろうか。そんなことを考えながら、イーディスは震える指先で剣の柄を握りしめる。
「は? 誰が魔族――」
「来ないで、来たら刺してやるんだから!!」
とはいえ、今は自分の身を守ることが大切だ。
相手がなにか言ったような気がしたが、そのようなことは無視だ。疲れる身体に鞭を打ち、がむしゃらに剣を振るう。
相手が少し怯んだすきに逃げだそうと走り出した――が、すぐに爪で襟首をつかまれてしまう。
「嘘でしょ……」
「嘘じゃねぇよ、イーディス。というか、魔族じゃなくて、オレだよ」
やや困惑したような口調に、思わず顔を上げる。
彼は面倒くさそうに前髪を軽く掻き上げた。露になった額には、魔族特有の刺青が刻まれていない。
つまり、彼は魔族にそっくりだが魔族ではない。
それなら――
「あなたは誰?」
イーディスの言葉を受け、魔族そっくりな男は襟首を捕まえたまま固まっていた。彼は信じられないようなものでも見たかのような視線を向けてくるが、イーディスにどうすることもできない。相手も困惑しているが、こちらも困惑する。
現在進行形で、イーディスは魔族そっくりな人間に爪で襟首を捉えられていた。正直、そろそろ息苦しい。そのことを告げると、彼は慌ててイーディスを下ろした。
「あー、すまん。オレは、だな……」
彼は何か言いかけては止めるのを何度か繰り返した後、大きなため息をついた。
「オレはウォルター。ウォルター・ピルスナーだ。……ったく、本当に覚えてないのか?」
イーディスは黙って頷いた。
「どこまで覚えてる? 自分の名前は分かるか?」
「はい。イーディス・ワーグナーです。これでも、聖女をやっています」
どこまでこの男に話していいのか分からないが、とりあえず危害を加えてくる様子はない。もし、こちらに敵意を抱いているのだとするなら、襟首を捕まえられた時点で、そのまま首を掻っ切れば良いだけの話である。あの白くて鋭い爪なら、小娘の首くらい簡単に切り落とせそうだ。イーディスはそんなことを考えながら、そっと自分の首を触った。
「……ワーグナー、か。……記憶の欠損? いや、封印か? ったく、面倒なことをしてくるぜ。オレの得意分野じゃねぇってのに。
とりあえず、ここを出るぞ。説明は話しながらする」
「は、はい」
ウォルターの無骨な手がイーディスの手を包み込む。そのままイーディスは彼に手を引かれ、暗くて狭い廊下を歩いた。
「まず1つ聞くが、ここはどこだか分かるか?」
ウォルターは前を向いたまま尋ねてきた。随分と警戒しているのか、先程よりも声は低く、どこか早口になっている。
「いいえ。魔王を倒して……気づいたら、あそこで寝てました。
……ここは、魔王城なんですか? でも、魔王はクリスティーヌ様が殺したはずじゃ……」
「そこから記憶がないのか。
いいか、イーディス。お前はオークバレーの広場で年越しの祭りに出ていてな――」
それから、ウォルターはイーディスの身に起きたことを話してくれた。
聖女としての役目を終えた後、オークバレーに隠居させられたこと。魔王が復活したこと。年越し祭りで聖女役を演じていたが、その最中に魔王の手先が襲ってきたこと。魔王の手先を倒した直後、気を失ってしまったこと。そして――
「その後の様子がどうも変わっていてな……怪しいと思って調べていたら、リリーっていう侍女頭が殺された。それも、お前にだ。しかも、殺した理由は『魔王に憑りつかれていたから』ときた。
……イーディスなら、たとえ本当に憑りつかれていたとしても、リリーを殺すはずがねぇ」
手を握る力が一瞬、強くなった。
イーディスは目を伏せる。その侍女頭と自分がどのような関係だったのかは分からない。だが、自分に魔王が憑りついていたからという理由だけで、人を殺す度胸があるとは到底思えなかった。
……たとえ、アキレスに甚大な危害を加えた者に対しても、殺す直前で躊躇ってしまう気がする。
「そうしているうちに、イーディスは王都に行きたいと言い始めた。王都に行って、クリスティーヌたちを断罪する、ってな。だから、神官野郎と協力して、お前が眠っている間に夢の世界に入り込んだ……ってわけだ」
「つまり、ここは……まだ夢の世界ということですか?」
「一応な。だが、夢でも死ぬんじゃねぇぞ。ここで死ぬことは魂の死と同義だ」
ウォルターは曲がり角に差し掛かると、慎重に向こう側を覗き込んで確認する。
「ここで死んだら、完全に乗っ取られるぞ」
「いや、でも私……さっきまで夢の世界にいたはずですけど……」
「それは、深層部分だ。神官野郎の推測じゃ、ここは二段構えの夢想世界。深層部分の牢獄にイーディスの意識を封じ込め、肉体を完全に支配しているんだろうって言ってたぜ。
んで、今いるのが浅層部分。万が一、牢獄を抜け出した魂を逃がさない迷宮だ。この迷宮を突破すれば、オレたちは夢から目覚める。戻れなかったら……」
一生、この迷宮で彷徨い続ける。もしかしたら、この瞬間にも何者か――おそらく、アキレスの偽物の仲間に自分の身体を使われてしまう。
得体のしれない者に自分の身体を好き勝手にされていたと思うと、ぞっと悪寒が奔った。
「ま、安心しろ。このオレがついている。なんとか出ることが出来るはずだぜ」
ウォルターは安心させるように、にかっと笑った。
ただでさえ凶悪な目が釣り上がり、牙も剥かれ、正直――平常時の倍は怖い。だが、心が温かくなるような優しさが伝わってくる笑顔だった。
「あの……ありがとうございます」
ただ、一つだけ腑に落ちない。
なぜ、彼はここまで自分を助けようとしてくれているのだろうか。
イーディスに起こった変化に気づき、命の危険を冒してまで夢に飛び込んできてくれる。そのようなことをしてくれる人は、いままでの人生で一人もいなかった。
孤児院の大人たちは、イーディスのことを大多数のうちの一人としか認識していなかった。
旅の仲間たちは、イーディスを足手まといと馬鹿にした。
アキレスは、きっとイーディスの身に起きた変化には気づくだろう。ただ、それは唯一の肉親だからであり、互いに固く結ばれた絆があったからだ。
イーディスは改めてウォルターを見つめる。
ウォルターと自分は似ているところは何一つない。彼と血の繋がりはないことは明白である。だが、他人ではない。孤児院の大人たちよりも、旅の仲間たちよりも、強い絆で結ばれた存在――とは、いったい何なのだろう。イーディスにはさっぱり想像できなかった。
だから、イーディスはおずおずと尋ねた。
「あなたは……私とどのような関係だったのですか?」
それを問えば、ウォルターは奇妙な顔になった。空いている手で頬を軽く掻くと、わずかに上を向く。
「……お前は、オレの妻だ。名義上、だがな」




